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追悼・下村脩博士

Credit: MARINE BIOLOGICAL LABORATORY/TOM KLEINDINST

2018年10月19日に長崎市内で老衰のため死去した下村脩は、終戦前後という暗い時代に少年期を過ごしながらも、その後長く充実したキャリアを生物発光の仕組みの解明に捧げ、数々の輝かしい功績を残した。彼が発見した緑色蛍光タンパク質(green fluorescent protein; GFP)は、今や、生組織中でのタンパク質のモニタリングや遺伝子導入の確認など、医学研究や生物研究には欠かせない道具となっている。2008年、下村はこのGFPの発見と生命科学の発展に寄与した功績により、神経生物学者のマーティン・チャルフィー(Martin Chalfie)、化学者の故ロジャー・チェン(Roger Tsien)と共にノーベル化学賞を受賞した。

下村は、タンパク質がペプチド鎖の中に独自の発光装置を持ち、別の発光物質と相互作用することなくそれだけで発光が可能なことを最初に示した人物である。この発見の重要性は、原理的には、GFPをコードする遺伝子を複製(「クローン化」)して他の生物の体内に導入すれば標識として使える、という点にある。結果的にこうした応用を実現させたのは別の人物だったが、彼らの成果も、抽出や精製、構造決定のために何年もかけて材料をコツコツと集め続けた下村の忍耐力なしに語ることはできないだろう。

下村は、日本が帝国主義に突き進んでいた時代のさなか、1928年8月27日に陸軍軍人の息子として京都府福知山に生まれた。父親の赴任先の関係から、幼少期に佐世保、満州、大阪、諫早と国内外を転々とした下村は、一貫した学校教育を受けることができなかった。一方で彼は、名誉や堅忍の精神といった武士道を祖母に叩き込まれたという。第二次世界大戦での日本の敗色が濃くなってきた1944年、下村は疎開先の長崎県諫早で旧制中学の同級生と共に勤労動員され、軍需工場で働くようになった。そして翌1945年の8月9日、工場で働いていた彼を、目がくらむような閃光とそれに続く爆風が襲った。諫早から25km離れた長崎に原爆が投下されたのだ。下村は黒い雨に打たれながら徒歩で帰宅した。彼は後に、祖母に言われてすぐに入浴したおかげで、被曝による健康被害なしに過ごせたのかもしれないと記している。

下村は進学を希望していたが、中学時代は勤労動員のため学校で勉強することができず、大学入学に必要な内申書をもらえなかったために、2年間浪人せざるを得なかったという。ところが、原爆で破壊された長崎医科大学附属薬学専門部(現在の長崎大学薬学部)が諫早に仮校舎を開設したことで、下村は地元中学の親切な教師の手助けにより1948年に同校に入学することができた。彼は卒業後も長崎大学にとどまり、4年間、安永峻五(やすなが・しゅんご)教授の下で学生実験の助手として働きながら、勤務時間外に自分の研究をするという生活を送った。その後、1年間の内地留学の許可を取り付けてくれた安永の計らいと、名古屋大学の天然物有機化学者である平田義正(ひらた・よしまさ)教授の誘いにより、下村は平田の研究室に行くことを決意した。そして、彼はそこで、生涯にわたり魅了されることになる生物発光に出会う。

平田は下村に、ルシフェリンという化合物を抽出・精製して結晶化するよう指示した。ルシフェリンとは、海生の小さな甲殻類ウミホタル(Cypridina)が持つ発光物質である。ルシフェリンの精製は難しいことが分かっていたため、平田はこの課題を博士課程学生ではなく下村に託したのだった。ところが下村は、わずか10カ月でルシフェリンの純粋な結晶の作製に成功した(O.Shimomura et al. Bull. Chem. Soc. Japan 30,929–933; 1957)。後にノーベル賞受賞記念講演で当時を振り返った彼は、「どんなに難しいことでも努力すればできることを学びました」と語っている。

1959年、下村の元に、ルシフェリンの論文を目にしたプリンストン大学(米国ニュージャージー州)の生物学者フランク・ジョンソン(Frank Johnson)教授から、一緒に生物発光の研究をしないか、という誘いの手紙が舞い込んだ。渡米を決意した下村は、1960年8月に大久保明美(おおくぼ・あけみ)と結婚、その3週間後にフルブライト奨学生として船で米国へと向かった。しばらくして下村は、ジョンソンからオワンクラゲ(Aequorea)という発光クラゲの研究を打診される。オワンクラゲの傘の縁には緑色光を発する発光器が並び、リングを形成している。この研究に同意した下村は研究材料を調達するため、翌1961年の夏、明美夫人、ジョンソン、数人の助手や学生と車でアメリカ大陸を横断し、オワンクラゲが非常に多く生息していることで知られるワシントン州フライデーハーバーを訪れた。彼らはそこで、膨大な数のクラゲを1匹ずつ特製の採集網ですくい取っては発光器のリング部分を切り取り、発光物質の抽出に励んだ。

当時、全ての生物発光は発光物質のルシフェリンと酵素であるルシフェラーゼとの反応で起こると考えられていたが、下村はオワンクラゲの発光物質がタンパク質であると予想。ジョンソンらは懐疑的だったものの、下村はひらめきと偶然の出来事から考案した方法で、オワンクラゲの発光物質の抽出に見事成功した。その後、抽出物をプリンストン大学に持ち帰って発光物質の精製と性質の研究を進めた結果、彼はこの物質が実際にタンパク質であり、カルシウムイオン(Ca2+)によって活性化されることを突き止め、これを「イクオリン(aequorin)」と名付けた(イクオリンは後に、カルシウム放出の発光マーカーとして欠かすことのできない試薬となった)。下村はその後も毎年夏になると、家族や研究仲間とフライデーハーバーを訪れ、クラゲの採集とイクオリンの抽出を行った。そして1972年、ようやく構造解析を行うのに十分な量のイクオリンを得た下村は、そこに含まれる発色団の構造決定にこぎ着けた。1990年代に遺伝子改変イクオリンが使えるようになるまで、下村は慎重に抽出して蓄えてきたイクオリンを世界中の研究室に惜しみなく分け与えたという。

下村が微量のGFPを発見したのは、イクオリンを精製していたときのことだった。イクオリンが青く発光すると、GFPが緑色の蛍光を発したのだ。下村は1979年、イクオリン研究の傍らでため続けていたGFPを使って、このタンパク質に含まれる発色団の解析を行った。その結果、GFPでは通常の蛍光タンパク質とは異なり、自身のペプチド鎖の中に発色団が組み込まれていることが明らかになった (O.Shimomura FEBS Lett. 104, 220–222; 1979)。 この大発見の後、下村はGFP研究からは遠ざかり、他の生物の生物発光に関するさまざまな研究を進めていった。

1992年、ウッズホール海洋研究所(米国マサチューセッツ州)のダグラス・プラシャー(Douglas Prasher)がGFPの遺伝子を単離し(D.C. Prasher et al. Gene 111 229–233; 1992)、1994年にはチャルフィーのグループが、GFPを発現できる細菌と線虫の作製に成功した(M.Chalfie et al. Science 263, 802–805; 1994)。次いで1995年には、チェンらがさまざまな色の蛍光を発するGFPを作製した(R.Heim et al. Nature 373, 663–664; 1995)。その後、GFPの応用技術が脊椎動物にまで拡張され、「闇の中で光るサル」が誕生。これは本来なら、他の生物に由来する遺伝子の組み込みの成功という非常に価値ある成果だったものの、センセーショナルなニュースの見出しのみが注目される結果となった。

下村は1982年、妻と共にウッズホール海洋研究所へと移り、明美夫人は2001年の退職時まで研究助手として下村を支え続けた。夫妻は退職後も研究から遠ざかることはなく、マサチューセッツ州の自宅で研究を続けた。下村は2006年に生物発光の教科書『Bioluminescence: Chemical Principles and Methods』を出版し、2017年には自伝『Luminous Pursuit: Jellyfish, GFP, and the Unforeseen Path to the Nobel Prize』を出版した。

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 16 No. 2

DOI: 10.1038/ndigest.2019.190213

原文

Osamu Shimomura (1928–2018)
  • Nature (2018-11-13) | DOI: 10.1038/d41586-018-07401-1
  • Georgina Ferry
  • Georgina Ferryは、生命科学史を専門とするオックスフォード在住のサイエンスライター。