科学と政治の150年
Credit: ILLUSTRATION BY SEÑOR SALME
1609年8月末、イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイは義弟への手紙で、その夏に起きた怒涛のような出来事について興奮した様子で報告した。さかのぼること数週間、ガリレオはフランドル(今日のベルギーの一部)で小型望遠鏡が発明されたという噂を聞きつけた。彼は早速その改良版を製作して新たな噂の発信源となり、間もなくベネチア元老院から発明品の威力を見せるように求められた。ガリレオは義弟に、「大勢の紳士や元老院議員」が「ベネチアで一番高い鐘塔の階段を苦労して登り、私の小型望遠鏡を使って海上の帆船などを見たが……その船が肉眼で見えてきたのは2時間以上たってからだった」と自慢している。元老院は直ちに採決を行い、ガリレオをパドバ大学(イタリア)の終身教授に任命し、破格の俸給(毎年1000フローリン)を支払うことにした1。
ガリレオにとって、それは始まりにすぎなかった。新しい望遠鏡を夜空に向けた彼は、木星の周りを公転する4つの衛星など、いくつかの発見をした。抜け目のない彼は、トスカーナ大公コジモ2世・デ・メディチに敬意を表し、これらの衛星を「メディチ家の星々」と名付けた。この策略は功を奏し、ベネチアでの成功を報告する手紙から1年もたたないうちに、ガリレオはトスカーナ大公国王室付き自然哲学者として、フィレンツェでさらに高額の俸給(と教授義務の免除)を手にすることになった2。
ガリレオは官僚や宮廷のパトロンに研究を支援させるのが上手だった。支援者を乗り換えながら業績を重ねる彼の姿を追っていると、企業家精神の旺盛な今日の科学者を見ているような気がしてくる。しかし、ガリレオの時代から250年が経過した頃、政府と科学の間には、これとはかなり違った関係が生まれ始めていた。
天文学者ノーマン・ロッキャー(Norman Lockyer)がNature を創刊した1869年は、世界各地で政府と科学の関係が大きく変化している時期だった。
帝国の建設と科学
19世紀中頃、大英帝国は地球の陸地の約4分の1まで拡大し、総人口の4分の1近くを支配していた。かつての首相や未来の首相を含め、傑出した英国人政治家たちは、科学と技術がもたらす富をさらに増やす方法を探していた。1840年代、ロバート・ピール(Robert Peel)、ベンジャミン・ディズレイリ(Benjamin Disraeli)、ウィリアム・グラッドストン(William Gladstone)らは、化学を集中的に研究することは国家にとっても帝国の野望にとっても利益になると信じ、王立化学学校(Royal College of Chemistry)の設立を支援するために私財を寄付した。1860年代には、多くの研究者が、こうした期待に沿うべく研究に励んでいた。物理量を精密に測定できれば基礎科学の理解が進み、産業の進歩を加速できるという信念の下、英国各地の大学で多くの研究所の建設が始まった。
1870年頃からの「第二次産業革命」時代を代表する発展として挙げられる電力の利用や電信、鉄道網の拡大、鉄鋼の大規模生産などは、いずれも標準の単位と度量衡を必要とする。政府は太平洋横断通信や電気標準、遠洋航海、蒸気力などの問題に挑むための高レベルの委員会を設立し、ジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell)やウィリアム・トムソン(William Thomson、のちのケルビン卿)などの一流研究者がそのメンバーとして電磁気力や熱力学の理解を深めてゆくと、新たな相乗効果が生じた3。
ある意味、英国人は巻き返しを図っていた。19世紀中頃からドイツ語圏の国々では、地方大学が格式を高めるために優秀な学者をかき集めていた。当代のガリレオとも言えるような科学者たちは、政府が出資する機関に横取りされていった。プロイセン王国が普仏戦争(1870〜71年)でフランスに勝利して1871年にドイツ統一を果たすと、このパターンはますます激化した。ドイツ政府は、中央集権化された教育省の下、迅速な工業化という大きな野望を抱いて、大学の自然科学研究全般に巨額の投資を行った4。
これだけの支援があっても、ヴェルナー・フォン・ジーメンス(Werner von Siemens)などのドイツの主だった実業家たちは、自国が優位を失いつつあるのではないかと危惧していた。彼らの協調したロビー活動により、1887年に政府資金による新しい研究所がベルリンに設立された。ドイツ帝国物理工学研究所(Physikalisch-Technische Reichsanstalt:PTR)である。物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(Herman von Helmholtz)が所長を務めるこの研究所の使命は、基礎科学と応用研究と工業開発が交わるところの研究を加速することにあった。設立から数年もたたないうちに、新たな分野を生み出すことになる重要な研究が行われた。きっかけは、広い範囲に設置する街路灯にどの方式を採用すべきかを評価することになったPTRが、装置から放射される光を高い精度で測定したことだった。彼らが厳密に測定した黒体放射のスペクトルのデータは、当時の物理学理論では説明できないことが明らかになったのだ。この結果に興味を持った物理学者のマックス・プランク(Max Planck)は、不本意ながらもマックスウェルの電磁気理論を捨て、量子論への最初の一歩をためらいがちに踏み出した5。
一方、ドイツの東に位置するオーストリアでは、1866年の普墺戦争でプロイセンに敗北したことで、政府と科学に大きな変化が起きていた。1867年に成立したオーストリア=ハンガリー帝国は、気象学と気候学の大規模な研究を立ち上げた。その狙いは、各種機関の広域ネットワークを構築することで、各地方の法律的、宗教的、言語的伝統の寄せ集めからなる帝国に、新しい共通の目的意識を育むことにあった。大学や博物館や政府が支援するその他の機関は、天気の記録を収集し、標準化して、局所的なパターンが大規模な現象とどのように関連しているかを理解しようとした。広大な帝国を1つにまとめる必要性が触媒となって、微気候から大気候までの各スケールにおける地域間の相互作用と相互依存という近代的な響きの概念について、最先端の研究が行われたのだ6。
同じ頃、ロシアの皇帝アレクサンドル2世も独自の近代化計画を推し進めていた。1861年からは、後に「大改革」と呼ばれることになる一連の法令を発布した。農奴制廃止の直後には国立大学の見直しも行われ、地方政府や司法制度も大きく変わった。巨大な官僚機構が誕生したことで、野心的な知識人は新たな出世の機会を得た。化学者ドミトリ・メンデレーエフ(Dmitri Mendeleev)もその1人だった。彼は、ドイツのハイデルベルクで2年間研究を行った後、1861年に故郷のサンクトペテルブルクに戻り、地元の大学で化学を教えた。そしてNature が創刊されたのと同じ1869年に発表したのが、今ではすっかりおなじみになった元素の周期表の最初のバージョンである(2019年4月号「元素周期表150周年」「周期表の発展を支えた女性科学者たちの物語」参照)。
メンデレーエフがそれから歩んだ目覚ましいキャリアは、当時の科学と技術の役割の広がりを象徴するものだった。彼は間もなくロシア財務省と海軍の顧問となり、最終的には度量衡局の局長として、ロシアでのメートル法導入のために尽力した。ドイツ建国の父と呼ばれるオットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck)らと同様、アレクサンドル2世はロシア国内の全域で産業の育成を図ろうとした。こうした努力の中心となったのは、精密計測への多額の投資だった。皇帝は、メンデレーエフのような意欲的で高い専門技術を持つ自然科学者が大いに役に立つことを知っていた7。
日本もこの時代に大きな変化を遂げた。それまで外国との交流を絶っていた日本は、1868年の明治維新により外に向かって国を開いた。明治天皇が新政府の基本政策として宣布した「五箇条の御誓文」には、「智識を世界に求め大に皇基を振起すべし(知識を世界に求めて、天皇が統治する国家の基礎を大いに奮い起こすこと)」という文言がある。政府は製造業やその他の産業の改革のための投資を始めた。また、新しい公立学校を設立したり、国費留学生に海外の進んだ科学を学ばせたり、国立機関での教育の質を高めるために英国や米国から高名な科学者を招聘したりした。この国の指導者たちも、近代国家の建設に向けて、政府が支援する研究機関を優先するようになった8。
遅れて参入した米国
1969年、大学の科学者と軍との結び付きに抗議する米国の学生たち。 Credit: JOYCE DOPKEEN/THE BOSTON GLOBE/GETTY
米国はそうした動きとは頑固に距離を置き続けた。1860年代は、新たな投資を行うべきタイミングとは思えなかった。1861〜65年の南北戦争は米国史上最悪の死傷者を出し、終結直後にはエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が暗殺された(南北戦争での戦死者数は、第一次および第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン紛争、イラク戦争での米軍の戦死者数の合計よりも多かった)。科学研究や科学機関の連邦レベルでの支援は、19世紀末までごくわずかしか行われていなかった。実際、第一次世界大戦中に米国の科学技術の準備が相対的に不足していたことについて、主だった政策立案者のうち数人が非難されたほどだった。
米国の改革者たちは、研究に対する政府の支援を強化しようと取り組んでいたが、その努力は「教育は連邦政府ではなく州や地方自治体の管轄でなければならない」とする米国の伝統によって阻まれていた。独自研究を重視し始めた各地の単科大学や総合大学が、研究室のインフラ整備を進めていたのだ。だが、その成果は好意的に見てもむらがあった。1927年、量子論を学ぶためにドイツを訪れた若き物理学者イシドール・ラビ(Isidor Rabi)は、現地の大学図書館では米国の学術誌Physical Review が年に一度、1年分まとめて注文されていることを知った。それ以上の頻度で取り寄せる必要性が感じられないような内容だったからだ9。1930年代の大恐慌の際には、フランクリン・D・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)大統領のニューディール政策により、連邦政府が多くの事業を中央集権化したが、その時期でさえ、科学はほとんど無視されていた。
米国連邦政府は1940年代初頭になって初めて、戦時緊急動員の下、研究開発の大規模支援を行った。レーダー、核兵器、近接信管など数十の軍事プロジェクトには、数十億ドルの費用だけでなく、抽象的な研究と実用的な開発との緊密な連携が必要だった。
戦時体制の有効性は、政治家、軍事計画者、大学管理者に強い印象を与えた。平和が訪れると、彼らは戦争が培った関係を維持するための新しいインフラを大急ぎで整備した。米国の物理科学と工学分野の予算は以後も増加を続け、その資金のほとんど全てが連邦政府から出ていた。1949年には、米国の物理科学分野の基礎研究に対する全ての助成金の96%が国防関連の連邦機関から出ていた。非軍事的な米国立科学財団(NSF;バージニア州アーリントン)が設立されてから4年後の1954年にも、その割合は98%まで上昇した10。
その後、米国の政策立案者は研究を支援する新たな理由を見いだした。研究は、国内の産業振興と国防という目標の達成に役立ったばかりでなく、国際関係においても重要な要素となった。彼らは、フランスやイタリア、ギリシャなどで科学者が共産主義になびくのを食い止めたのは、戦争により荒廃した欧州全域の科学機関に対する連邦政府の投資だったと言えるかもしれない、と考えたのだ。第二次世界大戦後に米国占領下にあった日本で実施された大学制度改革も、米国モデルを広めるのに役立った。科学に対する投資は、心や精神に対する投資になった11,12。
連邦政府による安定した投資により、米国の科学研究とインフラはかつてないほどの成長を遂げた。第二次世界大戦終結からの25年間に自然科学の訓練を受けた若者の人数は、それ以前の人類の歴史全体で訓練を受けた人の総計よりも多かった。米国政府は国立研究所システムを構築し、大学での幅広い研究を支援した。その大半は軍事計画とはほとんど関係のない研究だったが、こうした支出はしばしば、広い意味での「戦時への備え」として正当化された。冷戦が実際の戦争へと発展した際に備え、集中的な軍事プロジェクトに従事可能な訓練された人員を大量に養成しておくという理由だ13。
その間、進取の気性に富む科学者たちは、支援者である米軍との密接なつながりがもたらす機会を最大限に利用した。米国海軍が潜水艦での戦いを懸念したことから集中的な海底探査が行われ、新しいデータと装置を手にした地質科学者は、プレートテクトニクスの動かぬ証拠を発見した14。また、機密ミサイル防衛計画の助言を求められた物理学者たちは、非線形光学などの新しい研究分野の発展を促した15。
多様化するポートフォリオ
この「新しい常態」は25年ほど続いた。Nature が創刊100周年を迎えた1969年、米国の軍事会計検査官が「Project Hindsight(後知恵プロジェクト)」と称する長大な分析結果を公表し、連邦国防機関は科学に対して制約を設けずに投資してきた結果、ほとんど見返りを受けられていないと主張した。その年、民主党のマイケル・マンスフィールド(Michael Mansfield)上院議員(モンタナ州選出。米国史上最長期間にわたり多数党院内総務を務めた)が、1970年の連邦国防権限法を土壇場になって修正し、国防総省からの助成金は「特定の軍事機能と直接的かつ明確な関連」のない「いかなる研究プロジェクトや研究の実施にも」利用できないと明記させた。
科学研究の支援における政府の役割を巡って、全米の大学キャンパスでは議論が戦わされた。ベトナム戦争が激しさを増す中、科学者と学生は、高等教育の中での国防費の位置付けを模索した。コロンビア大学(ニューヨーク州)とウィスコンシン大学マディソン校では、軍の助成を受けている研究室を過激派が爆発物で狙うという事件も起きた。その他の多くのキャンパスでも、怒りに燃える抗議者を警察が催涙ガスや警棒で追い散らした16。
1970〜80年代の間に、科学者たちは民間企業や慈善団体とパートナー関係を結ぶようになった。このような関係は、米国をはじめ世界の多くの国々で国防費と教育への支出が大幅に削減されたことにより加速していった。こうした時代に誕生したバイオテクノロジーとナノテクノロジーを支えたのは、第二次世界大戦後の核物理学研究を支えた財政支出とは異なる支援システムだった17。
ベネチア元老院議員たちに望遠鏡を披露するガリレオ。ルイジ・サバテッリ作。 Credit: DeAgostini/Getty Images
最近の混成型の支援では、中央政府からの助成金に強く依存した状態が今も続いている。このことは、科学者たちが米国議会などの毎年の予算編成サイクルに注目している様子からも明らかだ。ただし、今日の研究への支援の仕方は、核の時代の初期とは異なる。当時は、望む結果を得るためには投資を集中させるのが当然だと考えられていたが、経済協力開発機構(OECD)と世界銀行のデータによれば、現在、国内総生産(GDP)の2%以上を研究開発に投資する国は20カ国未満である(訳注:日本は3%強)。さらに、これらの国々の一部では政府の支援の在り方が変化していて、長期的な研究プロジェクトよりも、短期間で結果が出て実際的な応用が可能なプロジェクトの方が優先されることが多くなっている。
ロッキャーがNature 創刊号の原稿を印刷に回したときにはすでに、英国、欧州大陸、アジアの一部で、近代科学事業の多くの要素が生まれつつあった。けれども、今日の科学者が研究資金確保のためにあちこちで結んでいる関係を理解するには、ガリレオをイメージする方がいいかもしれない。科学者たちは、ベネチア元老院の現代版と言える機関の助成金を探し回りながら、メディチ家の宮殿に負けず劣らず輝くカブリ研究所やサイモンズ財団センターで個人寄贈者を口説いている。
翻訳:三枝小夜子
Nature ダイジェスト Vol. 16 No. 12
DOI: 10.1038/ndigest.2019.191228
原文
Discovery is always political- Nature (2019-09-24) | DOI: 10.1038/d41586-019-02848-2
- David Kaiser
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David Kaiserは、マサチューセッツ工科大学の科学史と物理学の教授
Nature 創刊150周年記念特集
参考文献
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