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結晶作りの2人の巨匠

物質・材料研究機構の谷口尚と渡邊賢司が作り出す、極めて高品質の六方晶窒化ホウ素結晶が、近年目覚ましい発展を遂げているグラフェンのエレクトロニクス研究を支えている。

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PHOTOGRAPHS BY MARK ZASTROW

Nature ダイジェスト Vol. 16 No. 11 | doi : 10.1038/ndigest.2019.191120

原文:Nature (2019-08-22) | doi: 10.1038/d41586-019-02472-0 | Meet the crystal growers who sparked a revolution in graphene electronics

Mark Zastrow

谷口尚が巨大な装置の中心に手を伸ばすと、つんと鼻を突くような臭いが辺りに漂った。高さ7mにもなるこの装置は、高圧油圧プレス機の中に超硬合金製の高圧容器が収められた「ベルト型高温高圧装置」と呼ばれるもので、黒鉛(グラファイト)を圧縮してダイヤモンドに変えることができる。だが、この日のメニューはダイヤモンドではない。谷口と共同研究者の渡邊賢司がこの装置で作り上げているのは、いま物理学界で最も切望されている「逸品」なのだ。

装置の中では、上下一対のアンビルに挟まれた原料の混合粉末が、1500℃を超す高温と大気圧の4万倍にも達する高圧で8日間かけて「調理」されてきた。上のアンビルから離され、あらわになったシリンダーの中央からは、冷却水がにじみ出ている。谷口はそこから水の滴る直径7cmの円筒状セルを取り出すと、ナイフで外側の層を削り始めた。圧力と温度を調節する役割を果たした層を取り除いているという。「最終工程は料理のようです」と、握った工具を見詰めながら彼は言う。しばらく作業を続けると、指ぬきほどの大きさのモリブデンカプセルが現れた。谷口はそれを万力に固定すると、彼の前腕ほどもある巨大なレンチでカプセルの反対側をつかみ、ひねりを加えた。その瞬間、カプセルが壊れて中から余剰粉末が噴き出した。カプセルの中から顔を出したのは、かすかに輝く透明なミリメートルサイズの「六方晶窒化ホウ素(hBN)」の結晶。谷口と渡邊が生み出す逸品とは、この結晶のことだ。

ここは、茨城県つくば市にある国立研究開発法人物質・材料研究機構(NIMS)の極限技術特殊実験棟。「並木地区」と呼ばれる緑豊かな構内の一角に建つこの実験棟で、谷口と渡邊は過去10年間にわたり、超高純度のhBN結晶を作製し、世界中の数百という研究グループに無償で提供してきた。その品質の高さと供給先の多さから、hBN結晶の作製において彼らの右に出る者はいない。

2人は自分たちの研究時間の多くを割いて、この大型高圧装置の稼働時間のほぼ全てをhBN結晶の作製に充ててきた。谷口と渡邊のこうした献身が、グラフェンをはじめとする二次元(2D)材料の電子挙動に関する研究を加速させてきたのだ。この分野はいま、材料科学で最も熱い研究分野の1つとなっている。さまざまな2D材料系から、量子世界のエキゾチックな現象の数々について基礎的な知見が次々ともたらされており、将来的には量子コンピューティングや超伝導への応用につながる可能性もある。物理学者たちにとっては、まさに心躍るテーマである。

炭素の単一原子層であるグラフェンの作製は実に簡単で、粘着テープを黒鉛に貼り付けて剥がすだけで目的の単層シートが得られる。しかし、グラフェンの複雑な電子物性を研究するには、この2Dシートを特別な表面、つまり、グラフェンの高速で動き回る電子に影響を与えないような、完全に平坦で保護的な役割を果たす基板の上に配置する必要がある。そこで登場するのがhBNだ。「我々が調べた限りでは、グラフェンなどの2D材料のデバイスの基板としてはhBN が最も理想的です」とコロンビア大学(米国ニューヨーク)の物性物理学者Cory Dean は言う。彼は、hBNとグラフェンを組み合わせる方法を初めて考案した研究チームの一員である。「hBNはグラフェンを外的要素から、それは見事に保護してくれます」。

hBNの薄片はまた、グラフェンに接触すると食品用ラップのように密着するため、ラップで薄切りのハムやスライスチーズを扱うときのように、グラフェンシートを1枚ずつ正確に引き剥がして別の場所に貼り直すことができる。これを利用すれば、hBN薄片を用いて複数の2D材料層をサンドイッチのように積み重ねてデバイスを作製することも可能だ(「グラフェンサンドイッチ」参照)。

グラフェンサンドイッチ
グラフェン研究者たちは、グラフェンを六方晶窒化ホウ素(hBN)で挟んで使う(簡略図であるため、電場を制御・測定する装置は示されていない)。 | 拡大する
2枚のグラフェンシートを互いの結晶格子の方向が約1.1°という「魔法角」だけずれるように回転させて重ねると極低温で超伝導体になる。 | 拡大する

2018年3月、2枚のグラフェンシートを互いの結晶格子の方向が約1.1°という「魔法角」だけずれるように回転させて重ねると極低温で超伝導体になる、という驚きの成果が世界を駆け巡った1,2(2018年6月号「グラフェンをずらして重ねると超伝導体に!」参照)。以来、材料科学界はこの話題で持ち切りになっている。2019年7月には、特殊な積層様式で3枚のグラフェンシートを重ねると、互いに角度をつけて回転させなくても超伝導の特徴が現れることも報告された3。これらの研究では、他の数百に及ぶ関連研究と同様、グラフェン試料の保護には谷口と渡邊のhBN薄片が使われた。「ちょっと関わっただけですよ。我々にとっては副産物みたいなものです」と谷口は謙遜する。これに対しDeanは、「彼らのhBNはまさに縁の下の力持ちです。ありとあらゆる所で2D材料技術を支えているのです」と2人のhBNを称賛する。

実は、谷口も渡邊もグラフェン研究者ではない。それに、彼らは自分たちが作製したhBNがこれほどまで人気を博すことになるとは想像もしなかった。2人は、hBN結晶の製造方法に関連していくつか特許を取得しているものの、現時点で高純度のhBN結晶を必要としているのは研究者だけであるため、商業化は見込んでいないという。とはいえ、彼らには硏究界ならではの大いなる特典がある。2人が結晶を提供した研究グループが論文の共著者として彼らの名前を載せているため、谷口と渡邊は期せずして、世界で最も多く論文を発表している研究者たちの仲間入りを果たしたのだ。2人が著者として名を連ねた論文の数は、2018年だけで合わせて180本以上に上る。また、ScienceNatureに掲載された論文の数は2011年以降だけで優に50本を超え、これら2誌においては過去8年間で最も論文掲載数の多い研究者となっている(「求められる結晶」参照)。

求められる結晶
谷口尚と渡邊賢司は、六方晶窒化ホウ素(hBN)の結晶を世界中の物理学研究所に提供しており、結果として数百本の論文に共著者として名前が載ることになった。 | 拡大する

SOURCE: SCOPUS/NATURE

しかし、こうした状況は永遠には続かないだろう。谷口には定年が迫っており、他にも高品質hBNを作製しようと試みている研究グループがいくつもあるからだ。複数の供給源が確立されれば、結晶の入手が容易になり研究の加速につながる可能性がある。だがいまのところ、物理学者たちはNIMSの結晶を使えばうまくいくと知っており、実績のない他の結晶試料を試したがらないと、物性物理学の第一人者であるハーバード大学(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)のPhilip Kimは言う。「なぜ谷口と渡邊の結晶を使うのかって? それがベストだからです」。

圧力の下で

極限技術特殊実験棟内の、まるで工場のような広大な空間では、ブーンという機械音が絶えず鳴り響き、高窓から差し込む日差しが巨大な高圧装置を照らし出していた。このベルト型高温高圧装置が製造・設置されたのは、1982~1984年。当時、この実験棟はNIMSの前身である旧科学技術庁無機材質研究所(NIRIM)の一部だった。谷口はその5年後の1989年、東京工業大学の助手を経てNIRIMにやって来た。この高圧装置は元々、ダイヤモンド合成のために設計されたものだが、1990年代に政府が、材料の切削や半導体向けの、ダイヤモンドに代わる超硬質材料の探索を目指して「スーパーダイヤモンド」という新たな研究プログラムを立ち上げたことで、この装置の用途も大きく広がることになった。

そうした新規硬質材料の候補の1つが、立方晶窒化ホウ素(cBN)だった。cBN内のホウ素原子と窒素原子は、ダイヤモンド内の炭素原子が組み上げる高密度な結晶構造と同様の構造で配置されている。谷口は当初、このcBNの高純度単結晶の合成に取り組んでいた。しかし、原料や合成過程での混入に由来する炭素や酸素などの不純物をなかなか除去できず、得られるのはいつも、不純物に起因して琥珀色を呈する輝きのない結晶ばかりだった。一方で、この工程で生成する副産物の中に、透明に輝くhBNの結晶があった。hBNは、グラフェンシートの積層から成るグラファイトと同様に、ホウ素原子と窒素原子が六角形格子状に並んだ単原子層が積み重なった構造を有し、各原子層は容易にスライドする。

材料科学者で分光学者でもある渡邊がNIRIMに入所したのは1994年、ちょうど政府がダイヤモンドに代わる超硬質材料に目を向け始めた頃だった。彼は、最初の数年間はダイヤモンドの光学特性研究にいそしんでいた。だが、研究所内で分野を超えた横断的な研究交流を推進する動きが高まった2001年、谷口から、cBN結晶を調べてみないかと声が掛かる。

2人の性格は実に対照的だ。谷口は気さくな人柄で知られ、深夜になると実験棟にクイーンの曲を大音量で響き渡らせながら高圧装置を動かし、60歳だというのに昼休みには同僚とサッカーを楽しんでいる。一方、3歳年下の渡邊は、語り口が穏やかで几帳面、スポーツはテニスを好む。スタイルの全く違う2人だったが、共同研究は順調に進み、2002年には初めて共同でcBN結晶に関する論文4を発表した。

1年後のある日、谷口から渡されるcBNの質に不満を漏らしながら、高圧装置から回収された試料が入ったケースを覗き込んだ渡邊は、透明に輝くhBN結晶に目を留めた。興味を持った彼は、その特性を調べてみることにしたのだが、谷口は懐疑的だった。「『それはhBNだよ。面白くないぞ』と言いましたね」と谷口は振り返る。ところが、結晶を一通り調べた渡邊は、hBNに、長年研究してきたダイヤモンドやcBNでは見られない、ある興味深い光学特性を見いだす。紫外光の下で強く発光したのだ。「私の研究人生の中で、最も胸が高鳴る瞬間でした」と渡邊。この新発見の興奮は、その後も数週間は続いたという。2004年5月、2人はこの結果を報告、hBN結晶が紫外線(UV)レーザー用の発光材料として有望との説を示した5

同年10月、マンチェスター大学(英国)の物理学者Andre Geimの研究チームが、グラフェンの単離成功に関する報告をプレプリントサーバーに投稿。この論文は、間もなくしてScienceに掲載され6、これを機に2D材料の大ブームが巻き起こった。その活況ぶりを、谷口と渡邊は好奇の目で見ていたという。「当時、2D材料のことは全く知りませんでした」と谷口は明かす。しかし5年後、2D材料研究者たちの方が、彼らの存在に気付くことになる。

仰天の発見

2009年、グラフェン研究は壁にぶつかっていた。グラフェンは理論的には驚異的な材料だが、研究者たちはその大いなる可能性を実現できずにいたのである。問題は、グラフェンが原子1個分という極めて薄いシートであるために、それを載せる基板の表面形状に合わせてグラフェンも変形してしまうことにあると考えられた。

グラフェンは、その平坦さ故に類いまれな性質を持つ。そのため、基板も同様に平坦でなければ、グラフェンは平坦さを失い、本来の特性を発揮できない。また、グラフェンは非常に薄いため、中を動き回る電子はどうしても基板と接することになる。つまり、基板に少しでも不純物が含まれていれば、そこで電子が散乱して移動度が低下してしまうため、グラフェンを載せる基板は極めて高純度でなければならないのだ。基板として標準的に用いられる二酸化ケイ素(SiO2)では純度が不十分で、グラフェンの性能を制限してしまうように見受けられた。

コロンビア大学の機械工学者James Honeと当時ポスドク研究員だったCory Deanは、hBNがSiO2よりも優れた基板になるのではないかと考えていた。hBN は原子レベルで平坦である上、バンドギャップが広くてエネルギー障壁が大きいため、hBN内で原子に束縛された電子はそこから飛び出して自由に動き回る伝導電子に変わることができない。つまり、hBN は良好な絶縁体なのである。

偶然にも、Honeの研究室のもう1人のポスドク研究員Changgu Leeには、hBNを扱った経験があった。彼は、2D材料の機械的・電気的特性を研究しており、化粧品用にhBNを製造している会社からすでにhBN試料を調達していたのだ(一部のアイライナーには、最高で25%のhBNが含まれている)。ある日、3人が研究棟の外でそろってサンドイッチを食べていたとき、HoneがDeanに、「LeeからhBNを分けてもらえば、グラフェンの基板として試すことができるのでは?」と提案した。Leeは二つ返事で承諾したが、「より大きくて純度も高い、高品質の結晶があるらしい」と、谷口と渡邊がNIMSで作製したhBN結晶についての文献情報を伝えた。ただ、1つだけ問題があった。以前にLeeが2人に連絡を取った時には、話がうまく進まなかったのである。そこでHoneは、当時コロンビア大学の教職員だったPhilip Kimを通して試料の提供依頼をしてみてはどうかと提案した。Kimは当時すでに、Leeが言うところの「グラフェン分野で最も有名な研究者」だったからだ。

この戦略が功を奏し、KimとLee、Deanは、グラフェン研究にNIMSのhBN結晶を使った初の外部研究者となった。Deanは、当時博士課程の学生だったAndrea YoungとInanc Mericと共同で、グラフェンとhBNの薄片同士を巧みに操作してうまく接触させる方法を1年がかりで開発した。困難な作業だったが、そうして得られた結果は実に驚くべきものだった。NIMSのhBN試料の上にグラフェンを載せると、SiO2基板を用いたときと比較して、グラフェンの平坦性が3分の2も向上(つまり凹凸が減少)し、その電子移動度も10~100倍改善されたのである。

研究チームはこの成果を、2010年4月にメリーランド大学カレッジパーク校(米国)で開催された国際会議Graphene Weekで発表した。「誰もが目を丸くして驚いていました」とKimは当時を振り返る。「まさに一大センセーションでした」。一瞬にして、科学者たちの関心がhBNの入手方法へと集まった。数カ月後にグラフェン研究でノーベル物理学賞を受賞することになるGeimもその1人だ。彼はKim宛てにこんなメールを送ったという。「Philip、どこで手に入れたんだい?」。

突然、谷口と渡邊の元に問い合わせと試料の提供依頼が殺到した。しかし、KimのライバルであるGeimから依頼を受けたとき、2人は返事に躊躇したという。「話がややこしくなるかもしれないと思ったのです。結晶を作ったのは我々ですが、特性を発見したのはKimたちですから」と谷口は説明する。そこで彼は、直接のライバルも含めて他の研究グループに結晶を提供しても大丈夫かとKimに尋ねたという。Kimの返答は「もちろんです」というものだった。「あなた方の結晶を、コロンビア大学の小さな研究グループが独占してはいけませんから」。谷口はその時のKimの言葉を今もはっきりと覚えている。

世界中との共同研究

谷口と渡邊は現在、世界各地の210以上の研究機関にhBNを供給することに合意している。実験棟近くのオフィスでは、谷口が結晶を発送する準備をしていた。カウンターの上の顕微鏡の周りには、バッチごとに試料が収められた透明なプラスチックトレーがいくつも積み重なり、散在している。彼がいま手にしている試料のバッチ番号は942番。10年以上前からの通し番号で、これが最新の番号だ。各研究グループには、高圧装置を4回稼働させて得られた4つの結晶試料が送られる。その重量は合わせてもわずか1gほどだが、この量で1つの研究グループが1年間研究を続けることができるという。

六方晶窒化ホウ素(hBN)の結晶を処理する渡邊賢司(左)。 世界各地の研究所に送られることになるhBNが収められた山積みのプラスチックトレー(右)。 | 拡大する

谷口と渡邊は、共著者として論文に名前を載せるよう要求しているわけではないという。試料を使う側は、受け取りに際してNIMSとの材料提供合意書に著名する必要があるが、それ以上の制約はない。にもかかわらず、2人がこれほど多くの論文で共著者扱いされていることは、この分野での試料作製者の重要性を反映していると、多くの研究者が口をそろえる。「現時点では、彼らの試料、彼らの協力なくして我々の研究は進められません。ですから、実際に共著者に値するのです」とKimは言う。

渡邊によると、一連の作業で一番面倒なのは書類仕事だという。「かなり負担になっています。本当に多いのです」と彼は言う。NIMSでは、論文の著者は論文の投稿、受理、掲載の際に、その都度上司と共に報告書を提出する必要があるという。この作業は全て、年下で几帳面な渡邊が引き受けている。彼はコンピューター上のアプリケーションを使って、2人が共著者に含まれている論文やプレプリントの状況を追跡しているが、それらの総数は現在700本を超えるという。

ほとんどの場合、相手の研究グループとのやりとりは、結晶の提供と、時折しかない結晶の品質に関するフィードバックに限られている。谷口によると、残念ながら全ての研究グループが時間を割いてフィードバックしてくれるわけではないという。だが、最初の提供先であるコロンビア大学の研究グループや、そこから派生した「第二世代」の研究グループ(コロンビア大学の元学生が別の場所で自らの研究室を発足させたことで誕生したグループ)との間では、真の共同研究が維持できているという。「2人は、本当に素晴らしいパートナーです」とDeanは言う。「hBNの提供に協力的なだけでなく、不純物を減らす方法や、我々が興味を持つようなさまざまな物質の作製方法を見つけようとしてくれるのです」。

例えば、2010年のGraphene Weekでの発表後、谷口と渡邊に結晶の提供を最初に依頼したのは、Kimの研究グループのPablo Jarillo-Herreroという名の学生だった。Jarillo-Herreroはいま、マサチューセッツ工科大学(米国ケンブリッジ)で研究チームを率いている。魔法角で重ねた2層グラフェンにおける超伝導を2018年に報告して世界を沸かせたのは、彼のチームだ1,2。Jarillo-Herreroらのねじれ2層グラフェンは、谷口と渡邊の作製したhBNで両側からしっかりと保護されていたのだ。また、物理学者のRebeca Ribeiro-Palauは、2017年にDeanの研究グループを離れてナノサイエンス・ナノテクノロジーセンター(フランス・パレゾー)でチームリーダーに就任した際、すぐさま谷口と渡邊に連絡したという。「彼らとの共同研究を確保することが、何よりもまず必要でした。研究室の開設はその後でもよかったのです」と彼女は言う。

六方晶窒化ホウ素(hBN)は、グラフェンの炭素原子がホウ素原子と窒素原子で置き換わっただけの、同様な六角形格子構造(ハニカム構造)を持つ。hBNは、原子レベルで平坦でバンドギャップが広いことからグラフェンの基板として非常に優れている他、その単原子層には優れたプロトン透過能があり、水素を利用する技術における有望な材料として注目されている(2015年2月号「グラフェンの新たな利用価値:プロトン透過能と防弾性」参照)。 | 拡大する

ROBERT BROOK/SPL/Getty

hBNの恩恵を受ける2D材料はグラフェンにとどまらないと、Ribeiro-Palauは語る。遷移金属ジカルコゲニド(TMD)と呼ばれるより複雑な2D材料でも、異なる種類の単層TMD同士を特定の角度だけ回転させて積層したりすることで電子物性を変えることができるが(2019年6月号「ずらして重ねると輝きを放つ二次元材料」参照)、こうした二層ヘテロ構造を作る際にもhBNが必要になってくるという7。「hBNは、2D材料を挟んだり、保護したり、異なる特性を与えたり、層間隔を変えたりするのに、まさに必要なものなのです。2D材料研究では、ほぼ全てのものにhBNが使われています」とRibeiro-Palauは言う。

hBNが基板という脇役以上の働きをする可能性を示唆する証拠も増えてきている。スタンフォード大学(米国カリフォルニア州)のDavid Goldhaber–Gordonが率いる研究チームと、現在はカリフォルニア大学サンタバーバラ校(米国)で研究室を主宰するAndrea Youngのチームがそれぞれ2019年に発表した報告によれば、hBN の結晶格子をねじれ2層グラフェンの片方の層の格子と整合させると、グラフェンシートの対称性が破れて電子の相互作用様式が変化するという8,9

さらには、hBNそれ自体も魅力的な2D材料として認識されつつある。hBNは、赤外光を照射すると、光の集束によって、古典的な光の回折限界を超える分解能を可能にする「ハイパーレンズ」として機能する。また、hBNには単一光子を放出する材料として機能する可能性があり、これは量子暗号に役立つと考えられる10。一方で、高純度hBN結晶がUVレーザー光源として役立つ可能性があるという渡邊の発見も依然として注目を集めており、hBNのUV発光機構の解明は彼の主な研究目標であり続けている。

一連の2D材料研究の中には、高圧を必要としない化学気相合成法で作製されたhBN薄膜結晶などを用いて行われたものもある。だが、こうした試料は質が劣るため、グラフェン研究者にとっては、いまはまだ谷口と渡邊の結晶以外は考えられないという。「ここ数年で他の供給元を4~5カ所試しましたが、どれも使えたものではありませんでした」とGeimは言う。彼は、高純度hBN結晶の供給不足によって世界のグラフェン研究の進歩が妨げられてしまうことを懸念している。

しかしここにきて、他の研究チームが日本の2人に追い付き始めている。カンザス州立大学(米国マンハッタン)の化学工学者James Edgarが率いる研究グループのhBNは、谷口と渡邊のhBNと肩を並べられるだけの品質に近づきつつあると、Geimは指摘する。「高価な巨大高圧装置を有するNIMSの結晶を複製するのは、決して容易ではありません」とEdgarは言う。彼は、常圧下の炉内で粉末状の窒化ホウ素をニッケル–クロム溶媒粉末に溶解させてhBNを成長させるという、より単純ではるかに安価な方法を用いており、この方法で得られたhBNでも、グラフェン研究には「十分かそれに近い」品質だと主張する。だが、Edgarらの試料には現在のところ、谷口と渡邊の試料と比べて10倍もの結晶欠陥が含まれているという。

一方の谷口は、Edgarのような挑戦者たちが現れること、そして、そうした研究者たちと、より高純度でより完全な結晶の合成を目指してしのぎを削ることのできる機会を喜ばしく思っている。「自分たちの手法を改善すべく日々努力していますが、多くの協力者、そしてライバルも必要なのです」と彼は言う。

結晶作りの職人

2019年7月、谷口は60歳を迎えた。NIMSで定年と定められている年齢だ。Kimにとってはまさに一大事である。「『タカシ、2D材料の研究分野全体が危機に瀕しているんだ。何とかしないと!』と彼に言いました」。だが、2D材料分野にとって幸いなことに、NIMSはすでに谷口に猶予を与えていた。彼をフェローに選任したのだ。これで、谷口は65歳まで働けることになった。しかし彼はまだ後継者の育成を計画してもいなければ、弟子も決めていない。

当面、彼は1人で高圧装置を稼働し続けることになる。実験棟では、谷口が次のバッチの準備を進めていた。バッチ番号は943番。指ぬきサイズの新しいモリブデンカプセルに、ミントタブレットほどの大きさの白い窒化ホウ素の粒を詰め込んでいく。よく見ると、途中で窒化バリウムなどのバリウム化合物の層も挟み込まれていた。こうしたバリウム化合物が、窒化ホウ素と共に溶けて溶媒や触媒の役割を果たし、結晶成長と不純物の吸収を助けるのだという。

谷口は正確なレシピを話したがらない。秘密の隠し味とでも言ったところだろうか、彼はバッチごとにバリウム層の組成を微妙に変えているという。「毎回同じレシピでは面白くないでしょう」と彼は言う。初めての供給先には標準的な結晶を送るが、付き合いの長い常連には手法をわずかに変えた試料を送り、フィードバックを待つ。谷口と渡邊も独自に測定を行っているが、グラフェン研究者たちの方が、研究過程でグラフェンの電子移動度を測定する際に、基板であるhBN層の不純物をより高感度で検出できるからだ。最初は誰も2人の結晶に文句を言わなかったが、2年ほど前からようやく、「研究結果に影響を及ぼすような不純物がある」との報告が入るようになったと谷口は明かす。それは、グラフェンを専門とする研究者たちが材料の限界を押し広げようとしたからこそ得られた結果だ。そしてこれが、谷口にとってさらに高みを目指す動機になるのだという。「私は結晶の作り屋なんです」と彼は誇らしげに言う。

谷口は高圧装置の台によじ登ると、かがんで容器の中に新しいカプセルを設置した。制御盤に戻っていくつかボタンを押すと、下のアンビルが床からゆっくりと上昇し、やがてシリンダーの中央に達した。距離を表す赤いデジタル表示がカウントダウンを始めると、谷口は制御盤に付いた汚れを静かにティッシュで拭き取った。

もう数十年もこの装置で結晶を作製してきたが、結晶合成の過程の基礎物理については、まだ解明すべきことがあると谷口は言う。高圧セルが上下のアンビルに挟まれた後、カプセルの中で実際に何が起こっているのかは、謎のままなのだ。「内部の現象をどう測定するのか、中で起こっていることをどう考えたらいいのか、結晶がどのように成長するのか、誰にも分かりません。想像の世界なんです」。

(翻訳:藤野正美)

Mark Zastrowは、ソウル在住のライター。

参考文献

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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