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イッカクの特異な恐怖反応

グリーンランド、カナダ、ロシアの周囲の北極海には約10万~15万頭のイッカクが生息していると推定されている。 Credit: Paul Nicklen/NGC/Getty

動物は通常、危機に直面すると「闘争・逃走」または「すくみ」のいずれかの反応を示すが、北極海に生息する小型の鯨類イッカク(Monodon monoceros)は、人間から逃れる際に、逃走とすくみが入り交じった特異な反応を示すことがこのほど明らかになった1。これら2つの応答は生理学的に相反するため、同時に発現すると体に大きな負荷が掛かる恐れがある。イッカクが人間という新たな脅威に対して特に脆弱であることを示したこの成果は、Science 2017年12月8日号で報告された。

雄の長い牙が特徴的なイッカクは、グリーンランド、カナダ、ロシアの周辺海域に約10万~15万頭が生息すると推定されている。最近まで、イッカクは人間活動から比較的隔離されていた。先住民族のイヌイットが伝統的な捕鯨を続けてはいるが、捕獲頭数は厳しく制限されており、イッカクにとって最大の脅威はこれまでシャチやホッキョクグマだった。けれども近年、北極域の海氷が減少したことで、石油探査や船舶の往来、商業漁業などによりイッカクの生息地は脅かされつつある。

こうした人間活動のイッカクへの影響を調べるため、カリフォルニア大学サンタクルーズ校(米国)の比較生態生理学者Terrie Williamsらは、グリーンランド東部で5頭のイッカクに記録装置を取り付け、人間から解放された際の心拍数と潜水行動を追跡した(装置は吸着カップで背部に装着され、一定時間が経過すると脱落するようになっている)。この5頭は、先住民による捕鯨のシーズンに、漁網に絡まったり座礁したりして救出された個体である。

動物の心拍数は、すくみ反応では低下するが逃走反応では上昇する。ところがイッカクでは、これら両方の反応が組み合わさっているように見えた。解放されたイッカクは、急いで逃げようと急速に深く潜るが、その際の心拍数は1分間に3~4回まで低下していたのだ。

パニック反応

哺乳類の心拍数が潜水時に低下するのは正常なことで、これは酸素の節約に役立っている。しかしWilliamsによると、イッカクがシャチから逃れる際などには、ゆっくりと潜水するため、心臓への負担はさほど大きくないという。これに対し、今回明らかになった「すくみ逃走」反応では、イッカクの心臓血管系に憂慮すべき影響が及んでいた。イッカクが解放された直後に行う典型的な「逃走潜水」では、心拍数が急激に低下する一方でストローク頻度は著しく高くなっており、Williamsらの計算によれば、一連の潜水で消費される酸素量は体内に貯蔵されている全酸素量の97%に上るという。対照的に、解放から時間がたって心拍数の低下傾向が落ち着いた状態で同様の深さまで潜る際の消費酸素量は、全貯蔵量の52%だった。

「イッカクにとって、人間による脅威は比較的新しいものです」とWilliamsは言う。「加えて、騒音などの水中で拡散しやすい脅威があると、イッカクは急いで逃げようとします。でもそうした急な行動は、進化的には備わっていないものなのです」。大きな懸念は、石油探査で発せられる音波で、今回観察されたような生理学的な矛盾による負荷が誘発されてしまうことだ。

成体のイッカクの体長を測定する研究チーム。 Credit: M.P. Heide-Jorgensen

Williamsらは現在、こうした「すくみ逃走」反応がイッカクの健康にどのような影響を及ぼすか調べている。他の哺乳類(ラットやヒトなど)では、恐怖と激しい運動の組み合わせにより死に至る場合があることが分かっている2

イッカクの研究は、生息地が遠隔地にあるため長らく困難だった。北極圏の海生哺乳類を研究しているワシントン大学(米国シアトル)のKristin Laidreは、「これは重要なデータで、容易に手に入るものではありません」と評価する。「北極の環境に大きな変化が起きている今この時に、イッカクが人間活動に対して極めて脆弱であることを示す新たな洞察が得られたことは、大きな意義があります」。

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 15 No. 2

DOI: 10.1038/ndigest.2018.180203

原文

Narwhals’ mixed-up response to fear could kill them
  • Nature (2017-12-07) | DOI: 10.1038/d41586-017-08244-y
  • Emma Young

参考文献

  1. Williams, T. M., Blackwell, S. B., Richter, B., Sinding, M.-H. S. & Heide-Jørgensen, M. P. Science 358, 1328–1331 (2017).
  2. Alboni, P., Alboni, M. & Gianfranchi, L. J. Cardiovasc. Med. 12, 422–427 (2011).