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トリアンギュレンの合成に成功

Nature ダイジェスト Vol. 14 No. 5 | doi : 10.1038/ndigest.2017.170509

原文:Nature (2017-02-16) | doi: 10.1038/nature.2017.21462 | Elusive triangulene created by moving atoms one at a time

Philip Ball

走査型プローブ顕微鏡の探針を使った原子操作によって、不安定な炭化水素「トリアンギュレン」が合成された。

IBM社のチューリッヒ研究所(スイス)に所属するLeo Grossらは、走査型プローブ顕微鏡の探針を用いて原子を操作することで、これまで合成困難だったトリアンギュレンという分子の合成に成功し、Nature Nanotechnologyに報告した1。トリアンギュレンは、グラフェン(炭素原子が六角形の網目状につながった原子1個分の厚さのシート)を三角形に切り取ったような平坦な分子である。不対電子を持つため非常に不安定で、無置換のトリアンギュレンは従来の化学合成法では合成できないが、不対電子は磁性の原因となるため、エレクトロニクスへの応用が期待されている。

従来法で合成できない不安定分子が、探針による原子操作で合成されたのは、今回が初めてではない。しかし、今回の例は特に価値がある。「トリアンギュレンは、化学者たちが懸命に努力しても合成できなかった分子です。その合成に私たちが初めて成功したのです」と、IBM社の研究チームを率いたGrossは言う。

トリアンギュレンの合成は新しいタイプの化学合成法を実証するものだと、ノッティンガム大学(英国)で分子操作を専門とするナノ科学者Philip Moriartyは言う。従来の合成方法では、分子同士を反応させてより大きな分子構造体を組み立てていく。今回の方法では、顕微鏡の探針を使って個々の分子の中の原子を物理的に操作して目的の分子を合成する。

しかし、分子を1個ずつ合成する手法が役に立つのは、ごく限られたケースであろう。しかもこの手法は、形状や構造が複雑な分子には適用できそうにない。

トリアンギュレンは、炭素原子からなる6つの六角形が辺を共有するようにつながって三角形を形成している。外周部の炭素には水素原子が結合しており、その中の2個の炭素原子だけがそれぞれ不対電子を持っている。これらの不対電子は、他の電子と対になって安定な化学結合を形成することができずにいる(「三角形のラジカル分子トリアンギュレン」参照)。

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Ref.1

不対電子を有する分子は、周囲の物質と反応しやすいので非常に不安定だ。「合成後、直ちに酸化するでしょう」と、研究チームのNiko Pavličekは言う。不対電子の反応性の高さという問題を回避するため、大阪大学の中筋一弘らと大阪市立大学の工位武治らの研究チームは、トリアンギュレン骨格に大きな炭化水素基を導入することで、従来法でトリアンギュレン骨格に不対電子を持つ分子を合成することに2001年に成功した2。この分子は、空気中で安定であった。

IBM社の研究チームは、探針で物質の形状を探ることができる「走査型プローブ顕微鏡」に目を向けた。走査型プローブ顕微鏡法は、通常、探針と試料の間の引力や探針と試料の間に流れる電流を測定することによって分子を画像化する手法である。Grossらは2009年に、探針の先端に一酸化炭素(CO)などの小分子を結合させると、化学の教科書に出てくる球棒モデルのような高分解能画像が得られることを示した3(Nature ダイジェスト 2010年10月号「分子の形を感じる」参照)。2015年には、走査型プローブ顕微鏡を使って化学反応を進め、不安定な「中間体」分子を合成できることを実証している4

銅の表面のトリアンギュレンを走査型プローブ顕微鏡で画像化(左)、Leo Gross氏(中央)、Niko Pavliček(右)。 | 拡大する

IBM Research

今回は、トリアンギュレンの合成を目指し、出発物質として、反応性不対電子を持たないジヒドロトリアンギュレンという前駆体分子を選んだ。

研究チームはまず、ジヒドロトリアンギュレンを固体表面(塩化ナトリウム、固体キセノン、銅のいずれも適していた)に蒸着し、走査型プローブ顕微鏡で調べた。次に、慎重にジヒドロトリアンギュレン分子の上に探針を配置し、連続した2回の電圧パルスで2個の水素原子を吹き飛ばし、不対電子を生成させた。そして、水素原子を失ったこの分子を、COを結合させた探針を用いて画像化した。得られた高分解能画像には、トリアンギュレンのものと予測された形状と対称性を持つ分子が映し出されていた1。この分子は、高真空、低温という実験条件下で、観察中ずっと安定していた。

「私の知る限り、これが非置換トリアンギュレンの初めての合成例です」と工位は言う。

またMoriartyは、今回の研究を「素晴らしい」と称え、銅の表面でトリアンギュレンが安定であることに驚いたと話す。彼は、トリアンギュレンは銅と反応すると予想していたようだが、一連の実験では、トリアンギュレンは合成後4日間、銅の表面でじっとしていたとPavličekは言う。

研究チームは、トリアンギュレンの磁気的特性も調べた。その結果は予想どおりで、2個の不対電子のスピンの向きが揃っていることが分かった。この量子力学的特性によって、分子は磁性を示すようになる。

従って、トリアンギュレンはエレクトロニクス分野で役立つ可能性があると、研究チームのメンバーは言う。工位も同じ考えで、量子コンピューティングや量子情報処理への応用に加え、電子スピンを操作することによって情報の符号化や処理を行うスピントロニクスの分野への応用を予見する5

分子を1個ずつ作る合成法はさほど有望とは思えないかもしれないが、現在の量子コンピューターは少数の量子ビット(キュービット)しか使用しておらず、各ビットを単一分子に対応させることも可能かもしれないと、Grossは指摘する。そうした分子を100個「手作業で」作る必要があったとしても、「その作業をやり遂げる価値はあると思います」とGross。

また、今回の手法が「平坦ではない分子」にどれほど容易に適用できるかは定かでないが、3D分子でもある程度は操作が可能だとGrossは言う。

トリアンギュレンや断片化グラフェンのような関連化合物にも「やるべき面白いサイエンスがたくさんあります。IBM社の研究チームは社会に還元するために高いハードルを設定し続けます」と、Moriartyは言う。

(翻訳:藤野正美)

参考文献

  1. Pavliček, N. et al. Nature Nanotechnology 12, 308–311 (2017).
  2. Inoue, J. et al. J. Am. Chem. Soc. 123, 12702–12703 (2011).
  3. Gross, L., Mohn, F., Moll, N., Liljeroth, P. & Meyer, G. Science 325, 1110–1114 (2009).
  4. Pavliček, N. et al. Nature Chemistry 7, 623–628 (2015).
  5. Morita, Y., Suzuki, S., Sato, K. & Takui, T. Nature Chemistry 3, 197–204 (2011).

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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