細胞に魅せられた科学者
Credit: CASEY ATKINS FOR NATURE
Aviv Regevは、できることの限界ぎりぎりで働くことが好きだ。計算生物学者である彼女は、2011年に分子遺伝学者Joshua Levinと共同で、いくつかのRNA塩基配列解読法をテストしていた。それらのRNA解読法を能力ぎりぎりまで追い込んで、どの性能が一番良いかを見極めようとしていたのだ。彼らは、RNAが劣化したり、ゼロに近いほど微量だったりする試料を使ってRNA解読法の処理能力を試した。そして試験の最後にLevinが、自分たちが今やっているのは単一細胞に存在するよりも少ないRNAの塩基配列解読だ、と指摘した。
Levinのその言葉が、Regevには天啓のように思えた。細胞は生物の基本単位である。その個々の細胞において、複雑な遺伝子ネットワークがどのように働くのか、それらのネットワークがどのように異なっているのか、そして最終的に、多様な細胞群がどのように協働するのか。それらを探る方法をRegevは長い間探していたのだ。こうした疑問の答えが得られるということは、突き詰めると、ヒトなどの複雑な生物がどのように作られるかが明らかになるということだ。「そこで、『OK、やってみるべき時ね』という話になりました」と彼女は振り返る。ともにブロード研究所(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)で働くRegevとLevinは、マウスの骨髄から採取した全く同じ種類に見える免疫細胞18個のRNA塩基配列を解読してみた。すると、一部の細胞は残りの細胞とまるで違う遺伝子発現パターンを示すことが分かった1。調べた18個の免疫細胞は、2種類の細胞サブタイプのように働いていたのだ。
この結果を受けて、Regevはもっと手を広げたいと思った。人体にどれくらいの種類の細胞があって、それらが人体のどこに存在し、何をしているのかを、単一細胞塩基配列解読法を使って明らかにしたいと考えたのだ。彼女の研究室がRNA塩基配列解読の対象とする相手は一度に18個の細胞だったが、ここから何十万個もの細胞になった。さらに、単一細胞解析法とゲノム編集技術を併用して、重要な調節遺伝子の機能を停止させた場合に何が起こるかも調べた。
ヒト細胞アトラスを作り上げるには
人体にある数千もの細胞の型やサブタイプの3Dマップを組み立てようとする科学者らは、あらゆる段階で難題に直面するだろう。
そうして得られた解析結果によって、既知の細胞型の種類が増えてきており(例えば、新しい2種類の網膜ニューロンの同定2)、Regevはさらに見つけたいと意欲的である。彼女は、第一線の研究者たちとともに2016年秋に、国際的な共同研究計画「ヒト細胞アトラス」(Human Cell Atlas;人体の推定37兆個の細胞全ての分類とマッピングを目指す壮大なプロジェクト)の立ち上げに参加した(「ヒト細胞アトラスを作り上げるには」参照)。このプロジェクトは、個々の細胞の特性をさまざまな方法で解析することに関心が集まっていることの表れだと、王立工科大学(スウェーデン・ストックホルム)の微生物学者Mathias Uhlénは話す。「これは歴史上で最も重要な生命科学プロジェクトの1つだと思います。おそらくヒトゲノム計画よりも重要でしょう」。
Regevが壮大なプロジェクトにこのように幅広く関与するのは当たり前のことだと、スローン・ケタリング記念がんセンター(米国ニューヨーク)の計算生物学者Dana Peʼerは話す。彼女はRegevと知り合って18年になる。「Avivを特別な人間にしているものの1つは、そのとてつもない処理能力です。私は、これほど多くのことをこれほど深く、これほど革新的に考える科学者に出会ったことがありません」とPeʼerは語る。
1つに決めない
Regevがテルアビブ大学(イスラエル)で学部生だった頃、学生は勉強を始める前にテーマを選ぶ必要があったが、彼女はテーマを1つに決めたくないと思った。「興味のあることが多すぎたからです」とRegev。そして彼女は、多くのテーマに向き合えそうな先端的で学際的なプログラムを選び、学士号取得を飛び越えて修士課程に進んだ。
Regevの学部生時代の転機の1つは、進化生物学者Eva Jablonkaの指導を受けたことだ。Jablonkaは、エピジェネティックな遺伝が関わる進化という、論議を呼ぶ説を後押ししており、Regevは、批判に直面した際のJablonkaの勇気と誠実さに敬服したと話す。「取り得る安易な道は数多く存在しているのですから、そうでない道を選んだ人々に出会うと感動を覚えざるを得ません」。
Jablonkaのクラスでは、遺伝学上の込み入った問題の解決に取り組んでおり、Regevはそこに魅力を感じた。彼女は、遺伝学が抽象的な論法を頼りに基礎科学的な結論に到達する道筋に惹き付けられたのだ。「私はすっかり生物学のとりこになりました」とRegevは言う。「遺伝子にも興味を持ちましたが、それ以上に、遺伝子がどのようにしてお互いに協働するかに興味を引かれました。そして、協働している遺伝子の第一の乗り物が細胞なのです」。
Regevは、ワイツマン科学研究所(イスラエル・レホボト)のEhud Shapiroの下で計算生物学の博士号を取得した。2003年、彼女はハーバード大学のバウアー・ゲノミクス研究センター(米国ケンブリッジ)に移った。博士号取得後に通常就く特別研究員職を飛び越えて自身の研究室を構えることができるという、ユニークなプログラムのおかげだった。「自分の研究チームを少人数ながら抱え、完全に独立した身分でした」と彼女は振り返る。この職を得たことで、彼女は自らの研究テーマを明確にすることができ、細胞内の遺伝子が作り出すRNA分子に注目して遺伝子ネットワークを解きほぐすことに重点的に取り組んだ。2004年、彼女はこの手法を腫瘍に適用し、さまざまな種類のがんに共通する遺伝子発現パターンを見つけだした。さらに、急性リンパ芽球性白血病で抑制されている増殖抑制関連の遺伝子群など、もっと特殊な遺伝子発現パターンも見つけた3。彼女は、35歳となった2006年にブロード研究所とマサチューセッツ工科大学(米国ケンブリッジ)に研究室を構えた。
類似性を打ち壊す
ブロード研究所に移ってからも、Regevは、RNA塩基配列解読データから複雑な情報をいかに引き出せるかを探り続けた。2009年に彼女は、免疫細胞の一種である樹状細胞をマウスで調べた論文を発表した4。彼女はその論文で、病原体に対する樹状細胞の応答を制御する遺伝子ネットワークを明らかにした。2011年には、参照ゲノム配列を用いずに完全なトランスクリプトーム(1つの標本に含まれる遺伝子から転写されるRNAの総体)を組み立てる手法を開発した5。この手法は、ある生物のゲノム配列が十分高い読み取り深度で解読されていない場合に重要となる。
Levinが単一細胞内のRNAの塩基配列を解読する可能性に言及したのも、この頃だ。単一細胞ゲノム解析は、この頃までほぼ不可能だった。当時の技術では、わずか1個の細胞に含まれる微量のRNAやDNAを検出できるほどの感度に達しなかったからだ。しかし2011年ごろになって状況が変わり始めた。
冒頭に書いた、18個の免疫細胞(これもやはり樹状細胞)を使った研究は、Regevの開発した手法を試すために行われたものだ。当時Regevの下で博士研究員だったRahul Satija(現在はニューヨーク・ゲノムセンターに所属)は、「私はそれまで、この実験は、開発した手法で同一の細胞型を解析した場合に全て同じ結果になることを実証するためのものだと考えていました」と回想する。ところが彼が見つけたのは、非常に異なる2群の細胞サブタイプだった。その2群の一方の中でさえ、調節遺伝子や免疫関連遺伝子の発現が細胞ごとに驚くほど異なっていた。「これほど多くの違いがありながら、ほとんど捉えられていなかったのです」とRegevは振り返る。
「その時点でAvivには分かっていたのだと思います」とSatija。「それらの結果を目にしたとき、この全てが指し示す場所へ進む道が見えたのです」。彼らは、単一細胞ゲノム解析によって細胞の多様性を示すことで、1個の生物個体に存在する細胞型の真の多様性を明らかにし、それらの細胞がどのように相互作用しているかを見いだすことができたのだ。
遺伝学技術の標準的な塩基配列解読法では、多くの細胞の混合体からDNAまたはRNAを抽出し、その細胞群全体の平均的な読み取り配列を得る。Regevは、このやり方をフルーツのスムージーに例えている。できあがったスムージーの色や味は中身を知るヒントにはなるが、ブルーベリーを1個だけ、あるいはたとえ十数個入れても、1箱分のイチゴが入っていればブルーベリーの存在は分からなくなってしまう。それに対して「単一細胞の解析で得たデータはフルーツサラダのようなもの。入っているどれもが見て区別できますよね」とRegevは説明する。
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単一細胞の解析によって、これまで見落とされていた細胞の幅広い多様性が見えるようになるという期待が出てきた。単一細胞ゲノム解析法を使って腫瘍ゲノムの塩基配列を解析することで、悪性細胞や非悪性細胞、血管、免疫細胞でどの遺伝子が発現しているかを判定することもできるだろう。その結果、がんと闘うより良い方法が見つかる可能性もある。さらには、さまざまな疾患の治療薬開発という点からも期待がかかる。ある薬剤候補がどの遺伝子に作用するかが分かっていて、その遺伝子を活発に発現している細胞はどれなのか包括的に調べる方法があれば、いっそう有効だろう。
大規模な単一細胞解析に魅了された研究者はRegevだけではなかった。少なくとも2012年以降、科学者らは漠然と、こうした手法を使って人体の全ての型の細胞をマッピングするというアイデアを持っていた。「このアイデアは、世界の何カ所かで同時に独立して出てきました」と、スタンフォード大学(米国カリフォルニア州)の生体工学者で、非営利医学研究拠点「チャン・ザッカーバーグ(CZ)バイオハブ」の共同代表者でもあるStephen Quakeは話す。CZバイオハブは、2016年9月からさまざまな生物医学研究プロジェクトに資金を提供しており、自前の細胞アトラス・プロジェクトも抱えている。
ヒト細胞アトラス
2014年ごろから、Regevは細胞マッピングに関する講演やワークショップ開催を始めた。ウェルカムトラスト・サンガー研究所(英国ケンブリッジ州ヒンクストン)の細胞遺伝学部門の責任者であるSarah Teichmannは、Regevの関心事を耳にしていて、2016年、彼女に国際的なヒト細胞アトラス計画の立ち上げに協力する気はないかと尋ねた。その計画にはゲノミクス研究者だけでなく、各種の組織や器官系の生理学の専門家も含まれる予定だった。Regevはそのチャンスに飛びつき、現在、Teichmannとともに「ヒト細胞アトラス」の共同代表者となっている。その計画の理念は、人体に存在するあらゆる種類の細胞のRNA塩基配列を解読・解析し、それらの遺伝子発現プロファイルを用いて細胞をさまざまな型に分類し、また、新しい型を見つけ出し、それら全ての細胞とそこに含まれる分子が空間的にどのように組織化されているかをマッピングすることだ。
ヒト細胞アトラスでは、人体の細胞が取り得る状態の全て、つまり、成熟状態か未成熟状態か、疲弊し消耗しているか、完全に機能しているかなどを明らかにして特性を解析することも目指している。そのためには、さらなる塩基配列解読が必要になるだろう。今のところ、主要な細胞型は約300種と見られているが、Regevは、調べるべき状態やサブタイプはもっと多いのではないかと考えている。網膜だけでも、ニューロンのサブタイプが100種類以上含まれているようだとRegevは話す。
現在、免疫細胞や肝臓、腫瘍を対象にすでに研究に取り掛かっているコンソーシアム・メンバーが、それらの組織や器官の研究作業を協調させようと集まっている。「まだ始まったばかりなのです」とTeichmannは言う。
Regevは、ヒト細胞アトラス計画を共同で準備する中で、五大陸の28人からなる委員会をとりまとめ、科学者500人以上が参加する会議の開催に尽力した。Jablonkaは「私なら、とんでもなくストレスが溜まったでしょうが、彼女にはそんなことがないんですよ」とJablonka。一方、当のRegevは「他の人たちとビジョンを共有することが楽しいんです」と話す。
ヒト細胞アトラス計画がその大志を全て遂げるための資金をどうやって得るかは、まだ明確でない。しかし2017年6月、CZバイオハブに資金提供する寄付組織チャン・ザッカーバーグ・イニシアチブ(CZI;米国カリフォルニア州パロアルト)が、金額未公開の資金と、ヒト細胞アトラス計画のデータプラットフォームに対するソフトウエア工学の支援を提供した。これらは計画のデータを保存、解析および閲覧するために使われる予定だ。Teichmannは、多くの小規模な研究ではなく1つの大規模な研究に注力することの主な理由の1つは、データのキュレーション(収集・まとめ・分類・共有)の必要性にあると考えている。「コンピューターによる処理がこの計画の核になります。データの処理法や閲覧法などを統一すること。それが重要事項なのは明らかです」と彼女は話す。
頭脳流出
「ヒト細胞アトラス計画は、他の創造的な計画から資金も人材も奪い取ってしまうのではないか」と心配する科学者もいる。これは、国際的で大規模な科学計画の多くに向けられる批判の1つだ。Regevの研究室にいる博士課程の学生Atray Dixitは、「こうした葛藤は実際にあります」と話す。「そうした大規模な計画は、我々に何かを与えてくれるでしょうし、他から資金や人材を奪い取るようなリスクは低いでしょう。しかし、そうした計画は本当に金がかかる。我々はバランスをどうやって取ったらいいのでしょうか」。
ケンブリッジ大学(英国)の発生生物学者Azim Suraniは、ヒト細胞アトラス計画が情報の質と深さのバランスをうまく取れるとは思っていない。「さまざまな細胞型がどのようなものか、またそれらの細胞同士の関係について、より深く探究するのではなく、幅広く概観することになるでしょう」と彼は話す。「この場合、注いだ苦労に対して得られる利益の割合はどうなるでしょうか」。
Suraniはまた、単一細胞ゲノム解析が1つの大規模プロジェクトに集約できる段階にあるかどうか、疑わしく思っている。「この技術は果たして、有効利用できるほど十分に成熟しているのでしょうか」と彼は問いかける。例えば、組織から単一細胞を抽出する際に、試料を偏りなく得ることや、内部のRNAを損傷せずに得ることは、まだ非常に難しい。この問題や他の技術的課題に対する最善の解決法を見つけるために、多くの研究グループが独自に動いた方が、単一細胞ゲノム解析という研究分野にとっては良かったかもしれないと話す研究者もいる。
また、ヒト細胞アトラスの対象範囲が実質的に無限だとする懸念もある。「細胞の型の定義はあまり明確ではありません」と、ヒトタンパク質アトラス(HPA)計画のディレクターであるUhlénは言う。ヒトタンパク質アトラスは、ヒトの正常細胞やがん化細胞に含まれるタンパク質を分類する研究計画で、2003年から稼働している。特性を明らかにすべき細胞型の数は無限に近いとも考えられるため、Uhlénは、ヒト細胞アトラスは重要でエキサイティングな計画だが、「『どこが終点なのか』をはっきりさせる必要があります」と話す。
Regevによれば、完走することだけが計画の目的ではないという。「この計画はモジュール式になっていて、細かく分割できます。ある問題の一部を解決するだけでも、有意義な答えが得られるのです」と彼女は話す。例えば、ヒト細胞アトラスで網膜の全細胞をカタログ化するだけでも、薬剤開発に役立つと彼女は言う。「この計画は、時間をかければ解明できるものに適しているのです」。
Regevはヒト細胞アトラスに力を注いでいるが、だからと言って特定の細胞型の詳しい研究をしていないわけではない。2016年12月には、彼女のチームをはじめとする3つの研究チームが、CRISPR–Cas9系を使って多数の細胞の転写因子や他の調節遺伝子をオフ状態にし、続いて単一細胞RNA塩基配列解読法を使って遺伝子オフの影響を観察した研究論文を発表した6–8。Regevのチームはこの手法を「Perturb-seq」と呼んでいる6。
Perturb-seq法の目的は、遺伝子経路を非常に正確に、従来の限界を超えて大規模に解きほぐすことだ。1個の細胞で1個もしくは複数の遺伝子のスイッチを切り、それによって他の全ての遺伝子にどう影響が及ぶかを調べるのである。一度に数個の遺伝子を対象にする程度なら以前も可能だったが、Perturb-seq法なら一度に1000個、あるいは1万個の遺伝子でも調べられる。得られた結果から、遺伝子が互いにどう調節し合っているかが明らかになる。また、一度に複数の遺伝子を活性化もしくは脱活性化したときの複合的な影響も明らかにできる。こうした影響は、遺伝子を1個ずつ調べたのでは予測できない。
この論文の筆頭共著者であるDixitは、Regevを評して、疲れを知らない人と言う。Regevは論文提出前の数週間、毎朝6時にプロジェクトのミーティングを開いた。「私は論文中のSupplementary Methodsの末尾に、頭韻を踏んだ冗談めいた言葉を入れました。誰かがそこを読むかどうかを知りたくて。でも彼女に見つかってしまいました」とDixitは話す。「論文投稿前夜の午前3時のことでした」。
Regevの強さと集中力には、くじけることのないポジティブさが伴っている。「私は、自分の好きなことをしている幸運な人々の中の1人なのです」と彼女は言う。しかも彼女は細胞を今もなお愛している。「とにかく、細胞ってこの上なく素晴らしいものなんですよ」。
翻訳:船田晶子
Nature ダイジェスト Vol. 14 No. 10
DOI: 10.1038/ndigest.2017.171024
原文
How to build a human cell atlas- Nature (2017-07-06) | DOI: 10.1038/547024a
- Anna Nowogrodzki
- Anna Nowogrodzkiは、米国マサチューセッツ州ボストン在住の科学ジャーナリスト。
参考文献
- Shalek, A. K. et al. Nature 498, 236–240 (2013).
- Shekhar, K. et al. Cell 166, 1308–1323.e30 (2016).
- Segal, E., Friedman, N., Koller, D. & Regev, A. Nature Genetics 36, 1090–1098 (2004).
- Amit, I. et al. Science 326, 257–263 (2009).
- Grabherr, M. G. et al. Nature Biotechnology 29, 644–652 (2011).
- Dixit, A. et al. Cell 167, 1853–1866.e17 (2016).
- Adamson, B. et al. Cell 167, 1867–1882.e21 (2016).
- Jaitin, D. A. et al. Cell 167, 1883–1896.e15 (2016).
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