Editorial

死神を振り払えるだろうか

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ヒトは、ただヒトであるというだけで寿命が決まり、それを超えて生きられないことが、人口統計データを用いた研究によって明らかになった(Dong, X., Milholland, B. & Vijg, J. Nature 538, 257-259; 2016)。例えば、一流の短距離選手は100m競走のタイムを数ミリ秒の単位で短縮して世界記録を樹立しているが、5秒台や2秒台にまで短縮することは絶対にできない。ヒトの体はそのようにできていないからだ。寿命も同じで、120年以上生き続けられるヒトがわずかしかいないのは、数百万年にわたる進化によって形作られたヒトの遺伝的性質、代謝、生殖と発生に関連する無数の要因のためである。

最長寿命は、過去の長寿記録の積み重ねをそのまま示したものであるのに対し、平均余命は、今生きている人があと何年生きられるかという統計的期待値だ。この100年の間に大部分の国で出生時平均余命が延びたが、ヒトの寿命が延びたのではなく、感染症で死ぬ乳児の数が減ったことが主な原因だ。そして、貧困と戦争といった要因が重なると平均余命は短くなる。

英国では20世紀初頭に多くの子どもが感染症で命を落とし、肉体を酷使する仕事に就いていた男性が定年退職後間もなく死んでいった。そうした状況への政策的対応である国民健康保険制度は、成功を収めたが故に、今日では財政を圧迫している。つまり、ヒトは、ほんの数十年前と比べても長生きになり、(最終的には)いろいろな種類の(おまけに治療費のかさむ)病気によって死ぬようになったのだ。医学生は入学早々に必ず学ぶことだが、老年学は決して死にゆく学問領域ではない。ヒトの平均余命が延びたのが公衆衛生や栄養状態の改善、衛生設備とワクチン接種の普及のおかげだとすれば、がん、パーキンソン病やアルツハイマー病などの治療法を改善して寿命をさらに延ばしてほしいと求めても公平を欠くことにはならないわけだ。その結果、120歳の誕生日パーティーが普通のことになり、150歳以上の人々も少数ながら増えるのだろうか。人口統計データからは否定的な結論が得られている。ヒトの寿命が延び、集団全体も高齢化しているが、100歳以上の人口の増加率は鈍化しているのだ。

では将来、ヒトは平均余命という足かせから解き放たれ寿命を無限に延ばせるようになるのだろうか。ヒトは大昔から、永遠の命への欲望を抑えられずにいた。ヒトが死すべき運命を背負っていることを最も不気味に叙述したのは、7世紀にベーダ・ヴェネラビリスによって書かれた『イングランド教会史』だと思われる。その中で、ある小国の王がこう言った。人生がもたらす「束の間の安らぎ」は、日の当たる暖かい大広間をスズメが1つの扉から入って別の扉から出て行くまでの飛行時間ほど短く、出て行った先は我々にとって未知の夜の闇で、暴風が吹き荒れ、悪魔が出没する。なるほど我々がもう少し多くの光を求めるのも無理はない。実際、技術的にヒトの体の限界を超越できる日がやってくる可能性が生まれている。だが、単なる長生きではすでに恩恵が減り始めており、超越してもらわなければ困る状況になっている。

体の限界を超越することには二重のリスクがある。第一に、通常の寿命を超えて生きるためには、我々が何らかの方法でヒトとは別の存在になる必要がある。ハムスターが50年生き続けた姿を想像してみてほしい。不死身の体を持つことの予期せぬ結果は、オルダス・ハクスリーが1939年に発表した小説「After Many A Summer(多くの夏を経て)」で写実的かつ不気味に描かれている。寿命を延ばす効果のある食事により何世紀にもわたって生き続けた人々が、その代償として愚鈍な類人猿と化すのだ。そして、超越すれば人生がかなり長くなるというのは、そう感じるだけのことで、実際にはそれほど長くならない、というのが第二のリスクだ。

翻訳:菊川要

Nature ダイジェスト Vol. 14 No. 1

DOI: 10.1038/ndigest.2017.170135

原文

The limits to human lifespan must be respected
  • Nature (2016-10-06) | DOI: 10.1038/538006a