iPS細胞の10年
「コロニーができています」。ポスドクの高橋和利がそう告げると、山中伸弥は驚いて顔を上げた。「コロニーができているんです」と高橋は繰り返した。京都大学の研究室で机に向かっていた山中は急いで立ち上がり、高橋の後について組織培養室に向かった。顕微鏡を覗くと、小さな細胞塊が見えた。5年越しの研究が結実し、山中自身も確信しきれていなかった成果への可能性が見えてきた瞬間だった。
その2週間前、高橋は成体マウスから皮膚細胞を採取し、それらに、厳選した24種類の遺伝子を導入するために設計したウイルスを感染させていた。そして今、それらの細胞は形質転換を起こし、胚性幹(ES)細胞のような見た目と振る舞いをするようになっていた。ES細胞とは、皮膚や神経、筋肉など実質的にあらゆる細胞種に分化できる「多能性」細胞である。山中は、目の前にある「細胞の錬金術」の結果をじっと見つめた。「あのとき、『これは何かの間違いだろう』と思いました」と彼は振り返る。彼は高橋に実験を繰り返させたが、何度やっても同じだった。
その後、高橋は2カ月かけて、細胞分化の時計を巻き戻すのに必要な遺伝子を4種類まで絞り込んだ。山中はこの研究結果を、2006年6月にカナダ・トロントで開催された国際幹細胞学会(ISSCR)の年次総会で発表した。会場に居並ぶ研究者らは、それを聞いて度肝を抜かれた。山中は当初この細胞を「ES様細胞(ES-like cell)」と呼んだが、その後「人工多能性幹細胞(induced pluripotent stem cell;iPS細胞)と名付けた。「多くの人はこれを信じませんでした」と、マサチューセッツ工科大学(米国ケンブリッジ)の生物学者で、年次総会の会場にいたRudolf Jaenischは話す。しかし彼は、この発表を信じた。山中の研究ぶりを知っていたからだ。この研究は「独創的だ」とJaenischは思った。
こうして登場したiPS細胞は再生医療に大きく貢献するものと期待された。患者個人の皮膚や血液、その他の細胞を採取し、再プログラム化してiPS細胞を樹立すれば、それを使って、肝細胞やニューロンのような、疾患治療に必要などんな細胞でも作り出せるのではないかと考えられたのだ。こうした個別化療法であれば、免疫による拒絶のリスクを回避できるだろうし、胚由来の細胞を使うことの倫理的問題も避けることができるだろう。
しかし現在、ISSCR総会での発表から10年経ち、iPS細胞研究の目的は変化してきている。その理由の1つは、iPS細胞による個別化療法の開発が難しいことが分かってきたからだ。iPS細胞を使った治療法の臨床試験実施はまだ1件で、2014年に患者由来のiPS細胞が1人の患者に移植されたが、2015年に予定されていた2人目は見送られたままである。
しかし、iPS細胞は別の方面で活躍している。ヒト疾患の研究やモデル作製のため、さらには薬剤スクリーニングのための重要なツールとなっているのだ。iPS細胞の樹立法が改良され、さらに遺伝子編集技術が進歩したことで、iPS細胞は研究室の重要な支え手となり、これまで入手できなかったヒト組織を研究に制限なく供給できるようになった。iPS細胞は特に、ヒトの発生や神経疾患の研究に役立っていると、ジョンズホプキンス大学(米国メリーランド州ボルティモア)の神経科学者で、2006年からiPS細胞を使っているGuo-li Mingは話す。
iPS細胞研究の分野はまだ、産みの苦しみを味わっている段階だ。iPS細胞を採用する研究室が増えれば増えるほど、研究者は一貫性を得ようと悪戦苦闘することになる。「最大の課題は、研究者全員が品質管理について共通の認識を持つようにすることです」と、スクリプス研究所(米国カリフォルニア州ラホヤ)の幹細胞生物学者Jeanne Loringは話す。「1つの細胞株で何か素晴らしい成果を出したという論文が発表されても、それを他の研究者が誰も再現できない場合がいまだにあるのです」と彼女は話す。「技術は全てそろっています。今必要なのは、研究者全員がこの細胞を正しく使うことです」。
皮膚から眼へ
2006年のISSCR総会での発表から6週間後、山中と高橋は、マウス成体細胞の再プログラム化に関わる遺伝子群の正体(つまりOct3/4、Sox2、Klf4、c-Mycの4つ)を明らかにした1。その後1年間に、山中自身のも含めた3つの研究チームが、iPS細胞樹立の結果を確認し、再プログラム化の手法を改良した2-4。さらにそれから6カ月も経たないうちに、山中とウィスコンシン大学マディソン校(米国)のJames Thomsonは、成人由来の細胞を再プログラム化することにも成功した5,6。世界中の研究者がこの技術に飛びつき、2009年末までにiPS細胞に関する論文が約300本報告された。
多くの研究室が取り組んだのは、どの種類の成体細胞を再プログラム化できるのか、またその結果樹立されたiPS細胞はどんな細胞種に分化できるのかを明らかにすることだった。その他に、再プログラム化の「レシピ」をさらに改良することに取り組む研究室もあった。まずは、一部の細胞をがん化させる能力を持つ遺伝子c-Mycを外すこと7、次に、再プログラム化用の遺伝子群をヒトゲノムに組み込まずに外部から送達することに取り組んだ。ゲノムへ組み込んだ場合、iPS細胞を使う治療法の安全性について漠然とした懸念が残るためだ。
iPS細胞はES細胞に実際どのくらい似ているのか、という大きな疑問もあった。やがて両者の違いが分かり始めた。iPS細胞は、DNAに「エピジェネティックな記憶」、つまり元の細胞種を反映した化学的刻印パターンを保持していることが明らかになった8。しかし専門家らは、そうした変化がiPS細胞の治療への利用に影響することはないだろうと見ている。「iPS細胞はES細胞と少し違っているでしょうが、治療にはあまり関係ないと私は考えています」とJaenisch。
山中は2012年に、iPS細胞の研究によりノーベル医学生理学賞を共同受賞したが、そのときすでに、iPS細胞を使った治療の初のヒト臨床試験が計画されていた。理化学研究所の発生・再生科学総合研究センター(現・多細胞システム形成研究センター;CDB、兵庫県神戸市)の眼科医・高橋政代は、山中が細胞の再プログラム化法を最初に発表した当時、網膜疾患にES細胞を使う治療法を開発していた。彼女はすぐにiPS細胞に切り替え、最終的に山中と共同研究を始めた。
2013年、高橋のチームは、加齢黄斑変性症(失明に至ることもある眼の疾患)の患者2人の皮膚細胞からiPS細胞を樹立し、それらを使って、臨床試験用に網膜色素上皮(RPE)細胞のシートを作製した。それから間もなく、別の細胞再プログラム化法を研究していたCDBチームに、論文捏造の疑いが出てきた。iPS細胞とは無関係だったが、この騒動のせいで高橋は研究を進めにくくなった。それまでの研究の「穏やかな海に、逆風が吹いてきた」のだと彼女は思い返す。だが、彼女のチームは研究を前進させ、2014年9月12日に、70歳代の女性患者の右眼に、最初のRPEシートを移植した。この治療によって黄斑変性の進行が止まり、患者は明るく見えるようになったと高橋は話す。
しかし、高橋らが2人目の臨床試験を準備したところ、患者のiPS細胞とそこから作製したRPE細胞の両方に2カ所の小規模な遺伝的変化が見つかった。どちらの変異も腫瘍形成に関係するという証拠はなかったが、山中からの「安全を第一に考えて」という助言を受けて、彼女は臨床試験を延期した。
この延期は、iPS細胞療法の臨床試験に関心を寄せていた他の研究者を戸惑わせたと、カリフォルニア大学デービス校(米国)の幹細胞生物学者Paul Knoepflerは話す。「iPS細胞療法の臨床試験がどう進むかを知ろうと、世界中が注目しているのです」。ただし、iPS細胞の臨床利用が直面している困難はさほど特別なものではないと、オックスフォード大学(英国)で幹細胞の調整や製造について研究しているDavid Brindleyは話す。科学的な発見が臨床や商業に生かされるには普通、20年ほどかかり、iPS細胞も「それとほぼ同じ道をたどっている」と彼は言う。
米国では、アステラス製薬の再生医療研究所(旧・オカタ社。前身はES細胞を使った加齢黄斑変性の臨床試験を行ったことで知られるアドバンスト・セル・テクノロジー社;マサチューセッツ州マールボロ)が、iPS細胞を使ったいくつかの治療法(黄斑変性や緑内障などが対象)を開発過程に乗せていると、同社の科学部門主任Robert Lanzaは話す。こうした治療法では、適切な細胞種を十分な品質で作製するための適正な方法をつかむのに数年はかかる。「iPS細胞は、臨床利用がこれまで提案された治療ツールの中で最も複雑で動的なものです。私は、iPS細胞の臨床利用が実現してほしいと真っ先に考えた人間ですが、その利用には十分な注意が必要です」とLanzaは指摘する。
さらなる大きな課題は、iPS細胞療法の臨床試験が承認されるために何が必要かを明確にすることだ。Loringは、今後2年間でパーキンソン病のiPS細胞療法の臨床試験を開始させたいと考えているが、これは容易ではないだろう。この療法では個々の患者に由来する細胞を使うので、Loringは、個々の細胞株のチェックと妥当性確認という一連の複雑な手順を踏んで、米国食品医薬品局(FDA)に安全性を示すつもりでいる。
たとえ対象の患者が1人だけでも、治療法の開発と臨床試験から得るものはあったと山中は言う。この試験には1年と約1億円が費やされた。将来的には、個々の患者からiPS細胞を作るのではなく、細胞バンクに蓄えたドナー由来iPS細胞を使って治療することになると山中は考えている。
高橋政代は、細胞バンクのiPS細胞と患者由来のiPS細胞を対照比較して、免疫応答の違いを見る予定だ。彼女は政府機関に、加齢黄斑変性症の臨床試験再開を「早急に」申請するつもりでいるが、インタビュー時に詳細なスケジュールについては語らなかった。
細胞の改良
細胞療法は足踏み状態が続いているが、他の研究領域では成果が出ている。iPS細胞を作製する手法は「5年前でもすでに洗練されていましたが、現在はさらに洗練されて無駄がなくなっています」と、Knoepflerは話す。
しかし、大半の再プログラム化手法は非効率的で、再プログラム化されるのはごく一部の細胞だけだ。また、あらゆる細胞系統と同様にiPS細胞も株ごとに違っている。そのため、実験で対照群を確立するのが難しい。
ロックフェラー大学(米国ニューヨーク)の神経科学者Marc Tessier-Lavigneは、ニューヨーク幹細胞財団(NYSCF)の同僚らと、若年性アルツハイマー病や前頭側頭型認知症の患者由来のiPS細胞を使って研究を始めたときに、この難題に直面した。研究チームはすぐに、患者由来のiPS細胞と健康な対照者由来のiPS細胞を比較してもうまくいかないことに気付いた。両者のiPS細胞は培養であまりに挙動が違っていたのだ。おそらく、遺伝的背景や遺伝子発現がかなり違っているためだろう。「そこで我々は、遺伝子編集に乗り出しました」とTessier-Lavigne。
近年急速に普及したCRISPR–Cas9系の遺伝子編集ツールによって、疾患に関連する変異をiPS細胞標本に導入して、それらを元の未編集の細胞株と比較することが可能になった。Jaenischの研究室では日常的にCRISPR–Cas9とiPS細胞を使っている。「今や我々は、望みのどんなゲノム操作でも可能なのです」と彼は話す。
新しい改良型の遺伝子編集技術はさらに有用なことが分かってきている。例えば、Tessier-Lavigneの研究室にいるDominik PaquetとDylan Kwartは、CRISPRを使ってiPS細胞に特定の点変異を導入し、1種類の遺伝子の2コピー両方ではなく1コピーのみを編集するための技術を編み出して2016年4月に報告した9。彼らはこの手法によって、アルツハイマー病関連の複数の変異を正確に組み合わせて持つ細胞を作り出し、それらの変異の影響を調べることができた。
しかし、iPS細胞はES細胞に似ているため、認知症のような遅発性疾患を調べるには必ずしも適していない。そこで、細胞にストレスをかけたり、細胞を早く老化させるタンパク質を導入したりする方法が検討されている。「この問題は、明確にする必要のある懸案事項ですが未解決です。ただ、現実的に取り組むためのやり方はいくつかあります」とTessier-Lavigneは話す。
iPS細胞によってヒトの初期発生が再現できるという事実から、別の領域での有用性も明らかになっている。現在、妊婦のジカウイルス感染が、生まれる子どもの小頭症につながる可能性があるのか、あるならどういう仕組みによるのかを早急に明らかにすべき事態となっている。MingらはiPS細胞を使って、脳のオルガノイド(発生中の器官に似た組織からなる三次元構造)を作り出した。そして、この構造をジカウイルスにさらしたところ、ウイルスが新生ニューロンよりも神経幹細胞の方に選択的に感染して神経幹細胞の細胞死を増加させ、その結果、皮質内のニューロン層の体積減少(つまり小頭症と似た状態)をもたらすことが分かった10。
他の複数の研究グループも、iPS細胞を使ってミニ腸管やミニ肝臓などのオルガノイドを作製しており、iPS細胞の利用による疾患関連の発見事項リストが徐々に充実してきている(Natureダイジェスト 2015年10月号「オルガノイドの興隆」参照)。このリストには、緑内障で1個の遺伝子重複が神経細胞群の死を引き起こす仕組みを示したもの11や、ハンチントン病に関連する遺伝子や細胞の変化を再現した成果12が含まれている。
iPS細胞は、創薬の成功にも一役買っている。この技術によって、実験段階の薬剤をスクリーニングもしくは試験するための患者由来細胞を十分に供給できるからだ。例えば2012年、神経細胞の発生に異常がある疾患の患者由来のiPS細胞で神経堤前駆細胞を作製し、それを使って、約7000種類の低分子のスクリーニングが行われ、この疾患の治療薬になりそうな分子が1つ見つかった13。また2016年には、遺伝性疼痛障害の患者由来のiPS細胞から感覚ニューロンを作り出したことが報告された14。この研究から、ナトリウムチャネルを遮断する化合物が、これらの患者でニューロンの興奮性を弱めて疼痛を減らすことが明らかになった。患者が特定の薬剤に反応するかどうかをiPS細胞を使って予測できれば素晴らしいが、この戦略がうまくいくという証拠の積み重ねがまだ必要だろうと、ファイザー神経科学疼痛研究部門(英国ケンブリッジ)の研究フェローで、この研究を率いたEdward Stevensは話す。
細胞の再プログラム化法の発見から10年経った(「革命を導く」を参照)が、再プログラム化の過程が実際にどのように起こっているかは現在もよく分かっていない。iPS細胞の研究者らは、差し当たって、ゲノムや遺伝子発現パターンその他を調べることで、細胞株の性質や安全性を系統的に確認することに力を注いでいる。そうした取り組みの1つである欧州iPS細胞バンク(European Bank for Induced Pluripotent Stem Cells;EBiSC、本部は英国ケンブリッジ)は2016年3月に、疾患モデル作製用の標準化したiPS細胞のカタログを公開した。山中も現在、将来の治療のためのiPS細胞バンクに携わっており、集団に対して広く免疫的に適合するような多様な細胞株を収集しているところだ。
山中によれば、今後の最大の課題は科学的なものではないという。この先は、細胞療法を進めるために製薬業界や行政府からの強いサポートが必要となってくる。創薬や疾患モデル作製のために、研究者らは根気と忍耐を持って進まなければならない。iPS細胞はその道のりを短縮することはできても、完全に省くことはできないと山中は言う。「魔法などありません。iPS細胞を使っても他のどの新しい技術を使っても、治療の実現にはまだ長い時間がかかるのです」。
翻訳:船田晶子
Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 9
DOI: 10.1038/ndigest.2016.160927
原文
How iPS cells changed the world- Nature (2016-06-16) | DOI: 10.1038/534310a
- Megan Scudellari
- Megan Scudellariは米国マサチューセッツ州ボストン在住の科学ジャーナリスト。
参考文献
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- Okita, K., Ichisaka, T. & Yamanaka, S. Nature 448, 313–317 (2007).
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