鏡像型DNAを複製できる酵素、登場!
それは生化学だが、私たちが知っている生化学とは違う。清華大学(中国・北京)の研究チームは、生物にとって極めて重要な「DNAの複製」および「DNAからRNAへの転写」という2つのプロセスを進行させるタンパク質の鏡像版を作製した。
ハーバード大学医学系大学院(米国マサチューセッツ州ボストン)の分子生物学者Jack Szostakはその研究について、鏡像型生物の作製を目指す道のりの「小さな一歩」だと話す。「ですが重要な通過点です」と付け加えたのは、Szostakの同僚で共同研究者のGeorge Churchだ。彼は、いつか完全な鏡像細胞を作製することを思い描いている。
生体分子には「キラル」なものが多い。キラルな分子とは、手袋のように、右手用と左手用のものが鏡像関係にあり、いくら回転させても重なり合わない形で存在するものを指す。しかし、生物はほぼ必ず一方の型だけを使う。細胞は左手型のアミノ酸を使い、右ねじのようにねじれたDNAを持つ、といったように。これらの分子の鏡像版でも、原理上、通常版と同じように機能するはずだ。その一方で、鏡像の世界で進化してこなかったウイルスや酵素による攻撃には強いかもしれない。
このような理由から鏡像生化学は、高収益ビジネスとなり得る可能性を秘めているとして注目を集めている。その実現を追求する1社が、ノクソン・ファーマ社(NOXXON Pharma;ドイツ・ベルリン)だ。同社は複雑な化学合成を利用して、「アプタマー」として作用する短いDNA鎖やRNA鎖の鏡像体を作製した。アプタマーとは、体内でタンパク質などの治療標的に結合し、その活性を遮断する合成DNAおよびRNAのことだ。同社には、がんなどの疾患の臨床試験を行っている鏡像アプタマー候補が複数ある。鏡像ならば体内の酵素で分解されないため有効性が高いかもしれない、というアイデアに基づいている。鏡像DNAを複製するプロセスを利用すれば、はるかに簡単にアプタマーが作製できるかもしれない、と話すのは、同社の最高科学責任者Sven Klussmannだ。
鏡を通して
鏡像DNAは数十年前から大量に作製されているため、清華大学の研究チームは、鏡像DNAを複製する研究に必要なものの多くを化学品サプライヤーに注文することができた。具体的には、原版となる鏡像DNA鎖、鏡像DNAの構成要素、そして、そうした構成要素を正しい順番で取り込む短い「鏡像プライマー」鎖だ。
難しいのは、複製プロセスを取り仕切る「DNAポリメラーゼ」という酵素の鏡像体を作製することだった。それは右手型のアミノ酸を材料に合成する必要があるが、一般に使われているポリメラーゼには600個を超えるアミノ酸がある。つまり、現在のタンパク質合成法で作出するには大きすぎるのだ。
そこで清華大学の研究チームは、知られているものの中で最小のDNAポリメラーゼに着目した。それはアフリカブタコレラウイルス(ASFV)の PolX(Xファミリーに属するDNAポリメラーゼ)で、含まれるアミノ酸はわずか174個だ。あいにくこのポリメラーゼは、おそらくその小ささゆえに、反応速度も極端に低いのだと、この研究を率いた合成生物学者Ting Zhu(朱听)は言う。彼は、この研究の進展に寄与したSzostakの下で博士号を取得した。研究チームはこの酵素の鏡像体を作製し、それが天然型の酵素と同様に、12個のヌクレオチド(DNAの構成要素)からなる鏡像型プライマーを伸長させて、約4時間で18ヌクレオチドの鏡像DNA鎖を、36時間で56ヌクレオチドの鏡像DNA鎖を作れることを明らかにした。
この系の通常版と鏡像版を同一試験管内で混合すると、2つの複製プロセスは、互いに干渉することなく独立して進行した。また、この鏡像型DNAポリメラーゼは、やはり非常に低速ながら、鏡像DNAを転写して鏡像RNAを生じることもできた。これはDNAポリメラーゼとしては比較的まれな芸当だが、Xファミリーに属するDNAポリメラーゼでは報告があり、朱らはそれを試したのである。この研究成果はNature Chemistry 2016年8月号の698ページに掲載された(Z. Wang et al. Nature Chem. 2016)。
Klussmannによれば、ノクソン・ファーマ社は、効率のよい酵素を用いた類似法を追求することに関心があるという。実際、朱らは次に、Dpo4というもっと効率の高いポリメラーゼの鏡像体を作製したいと考えている。これは352個のアミノ酸によって構成されている。
研究論文で清華大学の研究チームは、自らの成果について、生物のキラリティーがなぜこのようになっているのかを調べる研究としても紹介している。この問題は今なお謎に包まれている。偶然そうなっただけかもしれないし、自然界の根本的な非対称性が引き金となったのかもしれないのだ。しかし、応用分子進化財団(米国フロリダ州アラチュア)のSteven Bennerによれば、生化学的な生物の鏡像体を作製することでこの問題が解決されるとは考えにくいという。鏡に映してみれば、ほぼ全ての物理プロセスは同じ動きをするからだ。唯一の例外が「パリティー対称性の破れ」だが、これは素粒子物理学領域の事象であり、このような微視的な違いは生化学実験では現れてこないだろうとBennerは話す。Bennerも、天然の酵素やウイルスに分解されないDNAの作製に関心があるが、鏡像DNAを用いるのではなく、自然界に存在しない構成要素を用いて人工DNAを作製している。
今回の朱らの研究により鏡像型の遺伝物質を合成できるようになったが、鏡像型の細胞を作製するというChurchの最終目標達成には、まだ大きな課題が残っている。自然界のRNAは、リボソームという複雑な分子装置によってタンパク質へと翻訳される。「鏡像型リボソームの再構築はとても大変な作業になるでしょう」と朱は語る。代わりにChurchは、通常のリボソームを変異させて、鏡像RNAを取り扱えるように改造しようと試みている。
Churchは、どのアプローチが奏功するかは誰にも分からないと言う。しかし、鏡像版の生化学的プロセスを対象とする研究者は増えつつあると指摘する。「少し前までは、研究領域と呼べるものではありませんでした。でも今は、とても活気に満ちているようです」とChurchは話す。
翻訳:小林盛方
Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 9
DOI: 10.1038/ndigest.2016.160914
原文
Mirror-image enzyme copies looking-glass DNA- Nature (2016-05-19) | DOI: 10.1038/nature.2016.19918
- Mark Peplow
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