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半合成マラリア治療薬が市場で大苦戦

主要なマラリア治療法であるアルテミシニン誘導体多剤併用療法(ACT)用の錠剤。 Credit: FREDERIC J. BROWN/GETTY

2014年、フランス・パリを本拠とする大手製薬会社サノフィ社(Sanofi)が遺伝子組換え酵母を利用して製造したマラリア治療薬の販売を開始したとき、この市場参入は合成生物学の勝利ともてはやされた。このマラリア治療薬は、酵母発酵で生成したアルテミシニン前駆体(アルテミシニン酸)をアルテミシニンに変換したもので、「半合成」アルテミシニン(SSA;semi-synthetic artemisinin)と呼ばれている。アルテミシニンから作られる誘導体は、現在最も効果的とされるACT(アルテミシニン誘導体多剤併用療法)と呼ばれる主要なマラリア治療に用いられる薬剤だ。マラリアは毎年世界中で50万人の命を奪う病気であり、サノフィ社の製薬プロセスによって、抗マラリア薬が安く豊富に供給されるようになることを多くの人々が願っていた。

ところが、Natureが入手した情報によると、サノフィ社は2015年にSSAを全く生産しておらず、しかも、SSAを製造していたイタリア・ガレッシオの工場を売りに出しているという。同社のSSA製薬技術はビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団から6400万ドル(約70億円)の支援を受けて開発されたが、この素晴らしい製薬技術が全く使われていない状況だ。

この事実は、マラリア治療薬市場に影響を及ぼす複雑に絡み合った経済勢力を如実に表している。ミシガン大学ウィリアム・デヴィットソン研究所(米国アナーバー)でACT市場を研究する健康政策研究者Prashant Yadavは、「複雑な協業・競合関係が存在すると、新しい製造プロセスのスケールアップがいかに困難になるか、ということを示す絶好の例です」と言う。

Credit: SOURCE: WHO WORLD MALARIA REPORT 2015/A2S2/WILLIAM DAVIDSON

SSAが開発されるまで、アルテミシニンの供給源はクソニンジン(Artemisia annua)という植物だけだった。クソニンジンからアルテミシニンを発見した中国の科学者Youyou Tu(屠呦呦)は、2015年にノーベル医学生理学賞を受賞している。ただ、栽培によるアルテミシニンの供給は不安定であった。クソニンジンが不足すると価格が急騰し、それに惹かれてより多くの農家が栽培するようになる。そうなるとクソニンジンが市場に出回り過ぎて、価格が下落し新鮮なものが不足する(「アルテミシニン市場は安定か?」参照)。

補助策か救世主か?

アルテミシニン前駆体を合成生物学的手法によって安定して確実に供給できれば、こうした浮き沈みの激しさに歯止めがかかると期待された。サノフィ社は、毎年60トン(世界で必要とされる量の約3分の1)近くのSSAを製造する技術を開発し、別のACT薬製造会社にこれを供給しようと考えていた。

「実際は、そうはならなかったのです」とYadav。これまでサノフィ社は、SSAを用いて、世界需要の約10%に相当する3900万個以上の自社版ACT薬剤を製造したが、SSAを他の製薬会社には販売することはなかった。

これは、栽培によるアルテミシニンの供給過剰が一因である。サノフィ社がSSA製造技術を開発してから現在までの2年間、植物由来アルテミシニンの販売価格は1kg当たり250ドルだった。サノフィ社は「利益を上乗せしない原価」(no profit-no loss)で価格を設定していたが、それでも1kg当たり350~400ドルだ。アルテミシニン前駆体合成酵母株を初めて開発したチームを率いたカリフォルニア大学バークレー校(米国)のJay Keaslingは、「アルテミシニンの価格がすでに十分に安く、クソニンジンが豊作であるならば、発酵槽を稼働する理由はありません」と話す。

中国の桂林製薬(Guilin Pharma)やインドのシプラ社(Cipla)といったACT薬製造会社も、アルテミシニンをサノフィ社から買いたがらない。ACT薬市場ではサノフィ社が直接のライバルだからだとYadavは説明する。

サノフィ社自身も、自社のACT薬の増産に価値を見いだせていない。ACTの需要が頭打ちになっているからだ。マラリアと診断された後に薬剤が投与されるようになったことが、その原因の1つだ。発熱すれば、マラリア感染の有無にかかわらず治療薬が投与されてきたのだが、診断が正確になれば、この薬剤が必要な治療の件数は減る。需要が再び増えるかどうかは、マラリアの発症に対して今後どのような国際的取り組みが行われるか、そしてACT薬の購入に利用できる資金がどれほどかにかかっている。

サノフィ社は、ガレッシオの製造工場の売却を2016年7月までに完了する。売却相手は、遺伝子組換え酵母による発酵を利用してサノフィ社向けにアルテミシニン酸を製造してきた契約製造会社のヒューヴェファルマ社(Huvepharma;ブルガリア)だ。

ヒューヴェファルマ社のイタリア支社(ローマ)のトップを務めるNicola de Risiは、SSA製造全工程(酵母から最終生成物まで)を制御することでコストを削減し、他のACT薬製造会社にも販売できるようになることを望んでいる。しかしヒューヴェファルマ社は、SSAにコスト競争力がつかなければ、植物由来アルテミシニンの使用に切り替える予定だと、de Risiは話す。

そうした状況ではあるものの、SSAの開発を調整したPATH(ワシントン州シアトルに本拠を置く国際保健医療に携わるNGO)は、合成マラリア薬プロジェクトを成功と見なしており、「SSAが市場に参入してから、アルテミシニンの価格は安定し、十分な量のアルテミシニンが供給されるようになった」と声明で述べている。

「SSAによる供給が価格の安定化にいくらか貢献したという主張には一理あります」とYadavは言う。しかし、安定化の主な理由は、ACT薬の需要が安定していることと、ACT薬製造会社は世界エイズ・結核・マラリア対策基金と長期購入契約を結んでいることにあると、彼は付け加える。

SSAの役割は、収穫の端境期を埋める補助的な供給源になることと、需要の急増に対処することであり、これは当初から変わっていないと、PATHとKeaslingは述べる。しかし、シティ大学ロンドン(英国)に所属する科学社会学者Claire Marrisは、自身の経験から、「この分野に携わる人は、SSAのことを、『低コストで大量生産できる、植物由来アルテミシニンの代替品』と表現します。いつもそう扱われてきたのです」と話してくれた。現在Marrisは、SSAの成果に対する非現実的な期待が災いして、合成生物学に対する一般市民の信頼が損なわれることを心配している。

ゲイツ財団が、2004年にSSAプロジェクトに対して初の助成金を出したとき、ACT薬1つに掛かるコストを2.40ドル(約260円)から「1ドル(約110円)を大きく下回る」まで下げることを明確な目標としていた。しかし、SSAが導入されるかなり前の2012年までに、サノフィ社のACT薬の価格の中間値はすでに大人1回分当たり0.92ドル(約100円)に下がっており、その後ほとんど変わっていない。

De Risiによると、ヒューヴェファルマ社は、2016年後半にはSSA生産を再開する予定で、サノフィ社は自社のACT治療薬を製造できるようになるという。Yadavは、「合成アルテミシニンにとって、良いことだと思います。ヒューヴェファルマ社自体はACT製造会社ではないので、ACT製造会社は直接のライバルに当たらない同社からならアルテミシニンを買いたいことでしょう」と指摘する。

一方、桂林製薬やシプラ社は自社製SSAを開発しようと計画している。研究開発が進めば、長期的に見て合成プロセスが低コスト化するとKeaslingは考えている。「SSAに主役を引き継いでもらいたいと思っています。いつかそうなるでしょう。それまでは辛抱です」とKeaslingは話す。

翻訳:藤野正美

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 5

DOI: 10.1038/ndigest.2016.160513

原文

Synthetic biology’s first malaria drug meets market resistance
  • Nature (2016-02-25) | DOI: 10.1038/530390a
  • Mark Peplow