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ホーキング博士の新論文に割れる物理学界

超高密度銀河M60-UCD1の巨大ブラックホールのイメージ図。これまで、ブラックホールが消滅するときには、情報は失われると考えられていた。 Credit: NASA, ESA, D. COE, G. BACON (STSCI)

2016年1月5日、Stephen Hawkingらがブラックホールに関する論文1をオンライン・プレプリントサーバarXivに投稿した。その後、その論文の意味をめぐって物理学界で論争が起きている。この論文の共著者であるハーバード大学(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)の物理学者Andrew Stromingerは、「私たちを行き詰まりから救ってくれる可能性のある新しい考え方が出てきたことに、人々の期待が高まっているのを感じます」と言う。彼は2016年1月18日、Hawkingが所属するケンブリッジ大学(英国)で、大勢の聴衆の前で今回の研究成果について発表した。

このアプローチでパラドックスを解けるのかと疑問視する物理学者もいるが、物理学のさまざまな問題が解明されるだろうという声も聞かれる。1970年代の中頃、Hawkingはブラックホールが「真っ黒」ではなく、いくらか放射をしていることを発見した2。量子物理学によれば、事象の地平線(それ以上近づくとブラックホールから逃れられなくなるところ)のすぐ外側で、量子ゆらぎによって一対の粒子が出現する(対生成)。そうした粒子の一部がブラックホールの重力から逃れる際にブラックホールの質量の一部を持ち去るため、ブラックホールはごくゆっくりと縮んでいき、やがて消滅するというのである。

その後Hawkingは、ブラックホールの外に出て行く粒子(今日では「ホーキング放射」と呼ばれている)は完全にランダムな性質を持つはずだ、と指摘する論文を1976年に発表した3

そうだとすると、ブラックホールが消滅するとき、かつてブラックホールの中に落ち込んだものが持っていた情報は宇宙から永遠に失われてしまうことになる。物理法則によれば、エネルギーが保存されるように情報も保存されるはずなので、この結論は物理法則と衝突してパラドックスを作り出す。Stromingerは講演で、「あの論文は、歴史上最も多くの理論物理学者を不眠にしました」と語った。

新たな研究成果を発表するに当たり、Stromingerは、真空が情報を持つ可能性を無視したことが間違いだったと説明した。彼とHawkingがケンブリッジ大学のMalcolm Perryとともに執筆した今回の論文では、「ソフトな粒子」に目を向けている。ソフトな粒子とは、光子や、重力子と呼ばれる仮想粒子や、その他の粒子のうち、エネルギーがゼロに近いほど低いもののことだ。つい最近まで、ソフトな粒子はもっぱら素粒子物理学の計算に利用されていた。けれども著者らは、ブラックホールが存在している真空に粒子(エネルギー)が存在してはならないと考える必要はなく、それ故、ソフトな粒子はゼロエネルギー状態としてそこに存在しているとした。

彼らは次に、ブラックホールの中に落ち込むものは、こうしたソフトな粒子に痕跡を残すと主張した。「あなたが1つの真空中にいて、そこに息を吹きかけるなり何なりしたら、多数のソフトな重力子をかき乱すことになるのです」とStrominger。撹乱の後、ブラックホールの周りの真空は変化し、情報は保存されたことになる。

論文はさらに、パラドックスが解決されるためには情報がブラックホールに伝えられる必要があるとして、その機構を提案した。彼らは、事象の地平線の量子的記述(これは「ブラックホールの毛」という奇妙な名前で呼ばれている)の中にデータをコード化する方法を計算することにより、この提案を行った。

ブラックホールの「ソフトな毛」

けれどもまだ研究は完成していない。ペンシルベニア州立大学(米国ユニバーシティーパーク)で重力を研究しているAbhay Ashtekarは、著者らが情報を「ソフトな毛(soft hair)」という形でブラックホールに移す方法に納得がいかないと言う。情報はその後、ホーキング放射に移される必要があるが、著者ら自身も、その方法はまだ分からないと言っている。

ブラウン大学(米国ロードアイランド州プロビデンス)の理論物理学者Steven Averyは、このアプローチでパラドックスを解くことができるかについては懐疑的だが、ソフトな粒子の重要性を拡張した点は高く評価している。「Stromingerは、ソフトな粒子が自然界の既知の力の微妙な対称性の存在を明らかにすることを発見しました4。その対称性には、既知のものもあれば未知のものもありました」とAvery。

この手法でブラックホールの情報パラドックスを解くことについて楽観的な物理学者もいる。フランクフルト高等研究所(ドイツ)のSabine Hossenfelderは、ソフトな毛についての彼らの結論を自分の研究成果と考え合わせると、「ブラックホールのファイアウォール問題」という新しい問題を解決できそうだと言う。アインシュタインの一般相対性理論からは、ブラックホールに落ちていく人の目には、事象の地平線を越えるときにも環境が突然変化したようには見えないだろうと予想される。けれども近年、ホーキング放射が起こるなら、事象の地平線には灼熱の壁(ファイアウォール)が存在していなければならないとする新説が登場して、一般相対性理論の予想との矛盾が問題になっているのだ(Natureダイジェスト 2014年8月号「地平線に見えてきた複雑性」参照)。

「真空に異なる状態がいくつもあるのなら、事象の水平線にいかなる種類のエネルギーも投入せずに、情報を放射に移すことができます。つまり、ファイアウォールは存在しないことになります」とHossenfelder。

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 4

DOI: 10.1038/ndigest.2016.160414

原文

Physicists split by Hawking paper
  • Nature (2016-01-28) | DOI: 10.1038/529448a
  • David Castelvecchi

参考文献

  1. Hawking, S. W., Perry, M. J. & Strominger, A. Preprint at http://arxiv.org/abs/1601.00921 (2016).
  2. Hawking, S. W. Nature 248, 30–31 (1974).
  3. Hawking, S. W. Phys. Rev. D 14, 2460–2473 (1976).
  4. Strominger, A. J. High Energ. Phys. 1407, 152 (2014).