最期の病
マニトバ大学(カナダ・ウィニペグ)の緩和医療研究者Susan McClementは、これまで大勢の末期がん患者やその家族と面談をしてきた。そうして聞いた話の中には、いまだに忘れられないエピソードがある。例えば、ある男性は転移性乳がんのために痩せ衰えた妻の姿を見て、心配のあまり、妻に食べ物を無理矢理食べさせようとした。妻の鼻をつまみ、苦しくて開けた口にスプーンで食べ物を流し込んだのだ。彼は、食べ物を口に入れればがんと闘うための栄養になると思い、病室を毎日訪れ、信念を支えに奮闘した。そして数週間後、妻は亡くなった。
McClementによれば、栄養摂取をめぐるこうした家族の奮闘は、患者の死後に家族が後悔する原因の1つになり得るのだという。「皆さん、こうおっしゃいます。『もう一度やり直せるなら、妻にタピオカプディングを無理やり食べさせることに時間を費やすのではなく、愛しているよと言うことに時間を費やしたい』と」。
この男性の妻は、悪液質だった。悪液質は代謝異常の一種で、全世界に約900万人の患者がいる。進行がん患者の80%がその中に含まれている。典型的な症状は体重と筋肉量の著しい減少で、そのため日常的な活動が困難となり、感染症などの致死的な合併症にかかるリスクも高まる。悪液質は、カロリーを摂取させても改善されない。McClementによれば、悪液質になると死が近づいていることが見た目にも分かるようになるため、家族が過剰に反応してしまうのだという。「悪液質の患者さんの容態は極めて悪く、良くなる見込みがないことを一貫して示しているのですから」とMcClementは話す。
悪液質はほぼ全ての主要な慢性疾患の末期に見られる。心不全患者の16〜42%、慢性閉塞性肺疾患患者の30%、腎疾患患者の60%超が悪液質になる。それにもかかわらず、この症候群は見過ごされてきた。医師や研究者の関心は、元になる「基礎疾患」に集中していたからだ。
しかし現在では、悪液質を治療可能な別個の疾患と見なすようになってきている。基礎研究から、悪液質が炎症や代謝バランス異常によって促進される仕組みが明らかになっており、薬剤標的も見いだされていると、ゲッティンゲン大学医療センター(ドイツ)の心臓専門医で悪液質の専門家でもあるStefan Ankerは話す。「現在では、試験に持ち込めそうな有効な選択肢がいくつも見つかっています」と彼は言う。このため、苦痛を緩和し、化学療法や外科手術に耐えられる力を患者にもたらすことを目指している薬剤開発企業からの投資が増えてきた。
ところが、現在は内省的ムードが漂っている。過去2年間に行われた注目の臨床試験のいくつかが、残念な結果に終わったためだ。「今後5年の間に臨床試験が1つも成功しなければ、製薬業界からの治療法開発資金は他の分野に流れてしまうでしょう」と、マイケル・E・ドベーキー退役軍人省医療センター(米国ヒューストン)で消耗性疾患を専門とする臨床研究医Jose Garciaは話す。「私が思うに、そうなれば悪液質研究の好機は失われてしまいます」。
浪費されるエネルギー
悪液質を意味する「cachexia」という英語は、ギリシャ語のkakosとhexis(合わせて「悪い状態」の意味)に由来する。ヒポクラテスはこの症候群を認識していたようだが、悪液質が初めて正式に定義されたのは2006年のことだ。その主な定義は、12カ月で体重が5%以上減少することと、筋力の低下である。ヴァージニア・コモンウェルス大学(米国リッチモンド)の緩和医療の医師で研究者でもあるEgidio Del Fabbroによれば、医療機関のがん専門医の間では悪液質の認知度はまだ低いという。悪液質の標準治療の指針は今のところまだない。
米国立がん研究所(メリーランド州ベセスダ)や一部の患者支援団体からの資金により、悪液質の原因解明はこの10年で大きく進んだ。新しい国際会議の開催や、Journal of Cachexia, Sarcopenia and Muscleという学術雑誌の創刊も、この分野への関心を喚起している。
現在では、タンパク質合成の低下とともに筋タンパク質の破壊が進むことが悪液質の重要な発症機序の1つとして分かっている。悪液質の研究が急速に進み始めたきっかけは、2001年に、正常な筋肉よりも萎縮する筋肉の方で高い活性を示す遺伝子が齧歯類で複数見つかった1,2ことであった。これらの遺伝子は、細胞内のタンパク質に破壊のためのタグ付けをする酵素「E3ユビキチンリガーゼ」をコードしている。これらの酵素を持たないマウスは、筋肉量が減少しにくかった。
免疫細胞は、腫瘍やがんなどの疾病に応答して特定の炎症シグナルを放出する。筋細胞はこのシグナルを受け取ると、E3ユビキチンリガーゼをより多く産生するようである。また、アポトーシスの異常や、筋細胞中のミトコンドリアの異常も関係していると考えられている。
いくつかの製薬会社はすでに、筋肉の成長を抑制するタンパク質ミオスタチンに的を絞っている。2010年にアムジェン社(米国カリフォルニア州サウザンドオークス)の研究チームが発表した論文3に、多くの人は興奮した。腫瘍のある悪液質マウスでミオスタチン経路のシグナル伝達を阻害したところ、筋肉量の減少を改善して寿命を延ばすことができたのだ。
その後、悪液質は単なる筋疾患ではないことが示唆された。脳による食欲や摂食の調節に関する問題、さらには、体が組織を燃焼して自身を維持するようなエネルギー収支異常への肝臓の関与を思わせる経路が、複数の研究で見つかったのである4。脂肪組織に注目した研究もある。悪液質は脂肪組織の燃焼も引き起こしている可能性があるからだ。そうした研究からは、炎症5や腫瘍が作る分子6により白色脂肪細胞が褐色脂肪細胞に変えられていることが明らかになった。褐色脂肪細胞は、カロリーを消費し熱を産生する。現在は、筋肉や脳、脂肪、骨などの組織や器官が互いにやり取りする仕組みも研究されている。2015年12月初旬に発表された論文7では、脂肪のシグナル伝達が筋肉量減少に関与している可能性が示唆された。
こうした研究のおかげで、悪液質に関する近年の会議にはバイオテクノロジー企業や製薬会社からの参加者が増えたのだと、オハイオ州立大学(米国コロンバス)の細胞生物学者で、そうした会議の1つでまとめ役を務めるDenis Guttridgeは話す。「私のような基礎研究者にとってわくわくする状況です。基礎と臨床を橋渡しするパイプが太くなってきたことが分かります」。
期待外れの薬剤
実験段階では大いに期待されたが、臨床研究はこれまでのところ期待外れの結果に終わっている。バイオテク企業のGTx社(米国テネシー州メンフィス)は、エノボサーム(enobosarm)という分子の後期臨床試験を2011年に2件開始した。この分子は、テストステロンの筋形成促進能力を模倣するが、結合できるのは筋肉と骨に特異的な受容体であるため、テストステロン投与時のような望ましくない副作用を示さない。早期の小規模な臨床試験から得られた結果は有望なように思われた。エノボサームを投与された人々は除脂肪体重が増え、階段を上る速度という形で身体機能の改善が見られたのだ8。ところが、進行した肺がんの患者を対象とした大規模な臨床試験では、身体機能の改善は見られなかった。それ以降、GTx社は筋萎縮に対するエノボサームの試験をやめてしまった。現在は標的を変え、多めの用量のエノボサームで乳がんを治療する試験を行っている。
一方、未発表だが、肺がんで悪液質の患者を対象にアナモレリン(anamorelin)という化合物を試験した研究が2つある。アナモレリンは、主に胃で産生されるグレリンという食欲増進ペプチドホルモンの働きを模倣する。これらの臨床試験のスポンサーは製薬会社のヘルシン社(Helsinn;スイス・ルガーノ)で、同社は、アナモレリン投与群の被験者ではプラセボ投与群よりも体重と筋肉量が増えたこと、しかし握力には両者の違いがなかったことを明らかにした。さらに同社は、欧州医薬品庁(EMA)がアナモレリンの承認を検討していることを12月初旬に発表した。
ヘルシン社のアナモレリン臨床試験で筋機能に改善が見られなかった理由については、多くの議論が交わされている。試験の際に、筋機能について臨床的に最も意味のある尺度を使わなかったからだとする意見も一部にある。「実際、筋機能を調べるための最善の試験法を我々は知らないのです。階段を1秒速く上がれたとしても、それが何を意味するのでしょうか」とGarciaは話す。こうした試験設計の錯綜が悪液質研究の抱えている問題点の1つだとAnkerは話す。「治療における終点と目指すべきことに関してコンセンサスを得る必要があります」。
もう1つの問題点は、動物で得た悪液質のデータはヒトには適用できないと思われることだ。アルバータ大学(カナダ・エドモントン)で筋萎縮について臨床への橋渡し研究を行っているVickie Baracosによれば、ヒトの組織標本を調べることで、齧歯類で見つかった悪液質の機序がヒトでの機序に近いことを示そうとした研究もあったのだという。「しかし精査すると、こうした臨床上の証拠はむしろ疑わしい場合が多いのです」。
悪液質の研究者は、ヒトのデータや臨床標本が足りないことを嘆いている。Baracosによれば、患者を時間をかけて追跡し、経過の途中で血液や筋肉の試料を集めることが悪液質の研究には必要だという。「悪液質のデータを、大量の生物医学情報を格納するバイオバンクに保存できれば申し分ないのですが」と彼女は話す。
悪液質研究が直面する最大の難問はおそらく、研究資金や社会的認知をめぐって、がんや心臓病などの主要疾患の研究と競い合わねばならないことだろうとAnkerは言う。悪液質のみを扱うユニットや部門を持つ企業はほとんど見当たらない。GTx社は筋萎縮の研究をやめたが、その理由の一部は、悪液質だけのための医薬を対象とすることに保険会社が興味を示さなかったからだと、同社の臨床開発部門次長であるMary Ann Johnstonは話す。「がんに伴う症状や治療による副作用を予防したり軽減したりして生活の質を改善する『支持療法』への関心が、この業界にはないのです」。
しかし、有効な治療法が登場すれば現状は大きく変わるだろうとGarciaは話す。そうなれば、医師は悪液質の症状について患者やその家族に積極的に話すかもしれない。悪液質には治療手段がないため、多くの医師は触れようとしないのだと彼は話す。また、情報が全くないために、患者や家族が苦悩している場合もある。
冒頭に登場したMcClementは、これまで多くの悪液質患者の家族と面談をしてきた。彼女は、悪液質についての情報を患者の家族にうまく伝えたり、家族が患者の最期と向き合えるよう手助けしたりする方法を見つけ出したいと考えている。薬理学的な介入手段がない現状では、そうした心理社会的な介入が重要になると彼女は話す。「これが我々の得た答えです」。
翻訳:船田晶子
Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 3
DOI: 10.1038/ndigest.2016.160326
原文
The last illness- Nature (2015-12-10) | DOI: 10.1038/528182a
- Corie Lok
- Corie Lokは米国マサチューセッツ州ケンブリッジ在住のNature Research Highlights担当編集者。
参考文献
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