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研究用チンパンジーはデジタルベースに

Credit: Fuse/Thinkstock

パンジーというチンパンジーは情報を伝達するのが上手で、身振りと発声を使って、訓練されていない人間に食料の隠し場所を教えることができた。オースティンというチンパンジーはコンピューターが得意で、科学者たちは、その特異な認知能力の手掛かりを求めてゲノムスキャンを行ってきた。どちらのチンパンジーも、ジョージア州立大学(米国アトランタ)の言語研究センターで長年暮らしていたが、数年前に死亡した。けれども彼らは、オンラインデータベースの中で生き続けることになる。米国立衛生研究所(NIH;メリーランド州ベセスダ)の資金援助の下、約250頭のチンパンジーの脳スキャンデータと行動データをまとめたデータベースが現在開発中なのだ。開発に関わる研究者らはさらに、このデータベースをチンパンジーの脳のバイオバンクと組み合わせて、世界中の科学者がチンパンジーの神経生物学を研究できるようにしたいと考えている。

古いデータを転用しようとするこの試みは、絶妙のタイミングで始まったと言える。NIHは2015年11月18日、同研究所が所有する全ての研究用チンパンジーを引退させることを決断したからだ。NIHは、公衆衛生上の緊急事態に備えて50頭の研究用チンパンジーを残すものの、300頭以上のチンパンジーを段階的に引退させる方針を2013年に発表している。さらに今回の決定により、残されることになっていた50頭のチンパンジーもこれから数年かけて保護区に移送されることになる。NIHのFrancis Collins所長は、NIHが飼育を支援しているが所有はしていない82頭のチンパンジーについても、引退させるようにしたいと言う。

2011年に米国医学研究所のためにNIHのチンパンジーのコロニーの研究をしたジョンズホプキンス大学(米国メリーランド州ボルティモア)の生命倫理学者Jeffrey Kahnは、「私たちはゼロに向かっていましたが、今日、ゼロに到達したのです」と言う。

2015年6月には、米国魚類野生生物局(FWS)が研究用チンパンジーも絶滅危惧種として保護することを発表した。そして、NIHが今回の決定を下したことで、米国内でチンパンジーを生物医学研究に用いることは事実上不可能になった。

テキサス大学M.D.アンダーソンがんセンター(米国バストロップ)の霊長類施設ではNIH所有のチンパンジーを139頭飼育しているが、この決定で、NIHのチンパンジーを使った非侵襲的な研究を行うことが完全にできなくなる。Christian Abee所長は、研究者らは2012年からこのチンパンジーたちを使った行動研究の論文を50本以上も発表してきたと言い、「チンパンジーを使った認知研究に代わる研究方法はないのです」と訴える。

そのため、NIHの助成金で構築されるチンパンジーのデータベースが一層重要になってくる。プロジェクトリーダーであるジョージ・ワシントン大学(米国ワシントンD.C.)の生物人類学者Chet Sherwoodは、「チンパンジーたちが生きた遺産と貢献を後世に残す機会は、今しかないのです」と言う。

オンラインの遺産

チンパンジーは、その知能の高さと高度な社会性から、ヒトに近縁なモデル動物として研究に用いられてきた。 Credit: Fuse/Thinkstock

Sherwoodのチームは、研究者向けのデータベースと一般市民向けの教育的コンテンツを組み込んだウェブサイトを数カ月後に立ち上げようと計画している。このサイトには将来的に、これまでに行われたチンパンジーの行動テストや性格テストの結果、霊長類の脳の構造や活動のスキャンデータ、その血統や遺伝情報の一部などのデータも登録されることになる。Sherwoodらは、ヒト・コネクトーム・プロジェクトのウェブサイトをモデルにしたいと考えている。これは1200人分の脳スキャンデータを収集したオープンアクセスのデータベースで、研究者が脳の構造や活動とヒトの特徴との関連を調べるのに利用できる。

研究チームはまた、アレン脳科学研究所(米国ワシントン州シアトル)と協力して、チンパンジーの脳における遺伝子発現地図を作成しようとしている。研究チームはワシントンD.C.とアトランタの複数の施設で250個近い臓器を保管しており、チンパンジーの脳をもっと詳細に調べたい研究者には、組織と血液のサンプルを分与している。

けれども一部の科学者やチンパンジーを使った研究の擁護者は、研究用チンパンジーを利用できなくなることでもたらされる影響を懸念している。生物医学研究財団(米国ワシントンD.C.)の所長で研究に動物を使うことを擁護するFrankie Trullは、チンパンジーで研究するのが最善な公衆衛生上の脅威が出現したとき、米国政府は今回の決定を後悔することになるだろうと言う。研究用チンパンジーの数を減らすことは、野生のチンパンジーのための医薬品(例えばエボラ出血熱のワクチン)の開発を困難にするので、ヒトだけでなくチンパンジーにとっても不利益になると指摘する人々もいる。

一方、NIHは新たに引退するチンパンジーの居場所を確保しようと苦労している。法律により、引退したチンパンジーはチンプヘイブン(Chimp Haven;米国ルイジアナ州キースビル)の国立保護区に送られるが、この施設には現在25頭分しか空きがない。つまり、NIHが所有する300頭以上のチンパンジーをまとめてチンプヘイブンに送ることはできないため、Collinsによると、NIHはまだ複数の選択肢を検討している段階だという。立法府は、この状況を懸念している。

2015年11月20日には、2人の連邦議会議員がNIHに書状を送り、残りのチンパンジーの新居を探す計画はどうなっているのかと問いただした。書状には、「我々は、納税者とこれまでひどい虐待を受けてきたチンパンジーに代わって、こうした遅滞が直ちに解消されることを要求する」と書かれていた。

チンプヘイブンのチンパンジーたちは、引退はしたものの、将来死亡した後に研究室に戻ってくる可能性がある。Sherwoodのチームは、チンパンジーが死亡したときに脳を入手できるようにするために、保護区との間で交わす合意書の草案を作成しているところだ。彼らは、動物園や研究施設のチンパンジーの臓器も入手したいと考えている。「チンパンジーの集団は高齢化していき、20年後には1頭も残っていないかもしれません」と彼は言う。「私たちが今日がんばらなければ、チンパンジーの神経生物学を研究する方法はなくなってしまうのです」。

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 2

DOI: 10.1038/ndigest.2016.160211

原文

Chimps retire to a digital world
  • Nature (2015-11-26) | DOI: 10.1038/527422a
  • Sara Reardon