News

U87細胞株をめぐる謎

身元の分からない細胞株が広く研究に使われている現状を受け、問題のある細胞株ではないと確認しておくことを義務付ける学術誌が増えている。 Credit: fotografixx/iStock/Getty Images Plus/Getty

生物医学系の研究者は、用いている細胞株に他の細胞の混入がないか、あるいは誤った細胞名が記されていないか、チェックするよう奨励されることが多い。そして、細胞株が正真正銘その細胞株であることを認証するには、参照標準株との比較しか手段がないことが、ある最新の研究からも示された。

このたび脳腫瘍の研究に広く使われているU87細胞株のDNAプロファイルが、約50年前にこの細胞株の樹立に使われた細胞、つまりU87細胞株の起源とされる腫瘍のDNAプロファイルと一致しないことが報告された(M. Allen et al. Sci. Transl. Med. 8, 354re3; 2016)。この細胞株は多くの細胞レポジトリーから分与されているが、実際のところ、真の来歴を正確に知る人はいない。

コロラド大学デンバー校(米国コロラド州)の遺伝学者Christopher Korchは、細胞株のDNAプロファイルを、その起源である生物材料のDNAプロファイルと照らし合わせることはほとんどの場合できないという。「この論文はおそらく氷山の一角でしかありません」。

研究結果の再現性を向上させるために、多くの研究グループが、細胞株の誤認の問題に取り組もうとしている。2016年に米国立衛生研究所(NIH;メリーランド州ベセスダ)は、研究助成金申請の際に、細胞株の認証方法の記載を要求するようになった。またNatureなどの雑誌は著者に対して、用いた細胞株が、細胞の混入が知られている475種類の細胞株(この数は増え続けている)に該当しないかどうかを、一般公開されている問題細胞株のデータベースで確認するよう求めている(Nature ダイジェスト 2015年7月号「細胞株の同一性の問題に対する取り組み」参照)。

しかし、細胞の保存状況などの調査を求めている団体はないため、今回のU87細胞株のような報告がなされたわけだ。GBSI(Global Biological Standards Institute;米国ワシントンD.C.にある非営利団体)の所長Leonard Freedmanは、ほとんどの生命科学者が自分の持っている細胞株の認証を行っていないことを報告しており(L. P. Freedman et al. Bio Techniques 59, 189-192; 2015)、「細胞株の標準的な認証方法を確立することは非常に難しいです。細胞株の認証は非常に複雑ですから」と言う。

今回問題になったU87細胞株は、1966年にウプサラ大学(スウェーデン)で、44歳の女性のグリオブラストーマ(神経膠芽腫とも呼ばれる、悪性度の高い脳腫瘍組織)から樹立された。それ以来U87は、数え切れないほど多くの研究に使用され、約2000報の科学論文を生み出している。

U87に対する疑問を最初に持ったのは、ウプサラ大学の腫瘍生物学者Bengt Westermarkだった。彼は大学院生だった1970年代に、8種類の脳腫瘍細胞株を研究していた。U87は他の細胞株より増殖速度が非常に遅かったので、「U87での研究は絶望的な気持ちになるほど難しかった」と言う。

その数年後、彼はATCC(American Type Culture Collection;米国バージニア州マナサスにある細胞レポジトリー)からU87 ATCC株の分与を受けた。この細胞株の増殖特性を目にした彼は、大学院生時代に非常に苦労したU87細胞株とは明らかに別ものであることに気付いた。そこでWestermarkは、正確に比較を行うことを決心した。

幸運なことに、ウプサラ大学にはU87細胞株を樹立した腫瘍組織が保存されていた。そのおかげでWestermarkの研究チームはU87 ATCC細胞株とその起源とされる細胞が同一のものであるかどうかを比較することができた。チームはDNAフィンガープリント法を用いて、U87 ATCC株が起源U87細胞とは異なっていること、また、ウプサラ大学で樹立した他のどの細胞株とも一致しないことを明らかにした。

ATCCの最高科学技術責任者であるMindy Goldsboroughは、ATCCは1982年にスローン・ケタリング記念がんセンター(米国ニューヨーク)からこのU87細胞株を入手し、同センターは1973年にウプサラ大学からこの細胞株の分与を受けたと聞いていると述べている。このU87細胞株は、女性由来の細胞株のはずだったが、U87 ATCC株は1本のY染色体を獲得していた。おそらく、スローン・ケタリング記念がんセンターあるいは、細胞株を分与する過程の1つで細胞の混入や取り違えが起こったと考えられる。

ATCCは、このような新事実が明らかになったことを受け、U87 ATCC株の背景情報の詳細を「男性」に書き換える予定だが、結局、U87 ATCC株の起源は謎のままである。

Westermarkの研究チームは、遺伝子発現プロファイルの比較も行っており、U87 ATCC株は脳腫瘍由来であると考えられる、としている。「U87 ATCC株の起源が起源細胞とされるものと一致しなかったことは問題ですが、幸いなことに、U87 ATCC株はおそらくグリオブラストーマ由来です」と彼は言う。それ故、U87 ATCC株を使った研究は脳腫瘍生物学を反映しているので、細胞株を廃棄する必要はありませんと彼は付け加える。

とはいえ多くのがん研究者は、細胞株の起源にかかわらず、U87や他の「古典的な」細胞株での研究から脱却すべきときが来ていると考えている。細胞を増殖させるために歴史的に使われてきた培養条件では、細胞はその生物学的性質を変化させてしまうからだ。Westermarkや他の研究者は、現在、遺伝的安定性とエピジェネティックな安定性を確保できる培養液で増殖させた新しい細胞株を支持している。このような細胞株は、ウプサラ大学が運営するHGCCバイオバンク(Human Glioma Cell Culture biobank;グリオブラストーマ細胞株の細胞レポジトリー)を介して、わずかな手数料で分与されている。

「私たちがこれまで歴史的に使用していた細胞は、ヒトの疾患を十分に表すものではないのです」と、コーネル大学ウェイル医学校脳腫瘍センター(米国ニューヨーク)の神経腫瘍学者Howard Fineは言う。「だから、U87細胞株を使用しないのなら大歓迎です」。

翻訳:三谷祐貴子

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 12

DOI: 10.1038/ndigest.2016.161218

原文

Venerable brain-cancer cell line faces identity crisis
  • Nature (2016-09-08) | DOI: 10.1038/nature.2016.20515
  • Elie Dolgin