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AI活用でゲノム医療・精密医療の実現へ

–– IBM社の人工知能(AI)を診断支援に用いて白血病患者の命を救った宮野先生のご研究が話題になり、世界の注目を集めたそうですね。

宮野: NHKのニュースで報道されたのですが、その反響の大きさに驚いています。AIは「ワトソン」という名ですが。これを医学研究に使用して、臨床上有効な活用ができた初の例ということで、今回米国で開かれたIBM社のイベントでも発表してきました。

この患者さんは60代の女性で、東京大学医科学研究所附属病院で、あるタイプの骨髄性白血病と診断されたのですが、標準的な治療法が効かず、深刻な容体に陥ってしまったのです。ちょうどその頃、医科学研究所ではゲノム医療における診断支援にワトソンを導入したところでした。私と血液腫瘍内科の東條有伸教授は、早速この患者さんのがんのゲノムを解析し、その変異(バリアント)データをワトソンに入力したのです。

約10分足らずで、この患者さんの病気を引き起こしていると推定される遺伝子および治療薬の候補リストが挙がってきました。その情報をもとに医師は、別のタイプのがんだと考えて診断を変更し、急ぎ治療薬を変えたところ、すぐに効果が表れたのです。ニュースの取材は、その約1年後の2016年7月。再発も見られず、すっかり元気になった時点で、患者さんの同意を得て行われました。

–– 患者さんのゲノム配列はどのように入手されたのですか。

宮野: 私は2011年から、東條教授や消化器がん専門の古川洋一教授とともに、全ゲノム配列解読を診断や治療に生かす研究を始めていました。ですから、患者さんの同意を得てDNA検体をシーケンサー(塩基配列決定装置)にかけ、スパコンで解析する体制ができていたのです。

–– ゲノム配列が得られていても、病因となる変異が何かをすぐには特定できないのですか。

宮野: そうなのです。ヒトのゲノム配列は1人1人で異なり、通常、がんの全ゲノムをシーケンサーにかけてスパコンで解析すると、100万個以上の配列の違い(バリアント)が出てくることがあります。それのどれが病気を引き起こした変異かを見つけるには、さまざまな論文やデータベースなどを調べた上でなければ判断できず、とんでもなく時間がかかってしまうのです。

–– そこでAIの出番というわけですね。

宮野: ワトソンはクラウドコンピュータのソフトウエアで、現在、基礎研究や臨床研究の論文のアブストラクトが2000万件以上、薬の特許情報1500万件以上、治験情報がんに関する変異、パスウェイなどのさまざまなデータベースの情報を学習しています。情報更新や間違いの修正なども行われます。

ですから、患者さんのデータを入力してワトソンを働かせると、標的遺伝子の候補が見つかります。人間がやってももちろん同様の結果が得られると思いますが、それに要する時間を、桁違いに短縮できるのです。ワトソンにかけると、例えば、全ゲノム中に存在するバリアントの数が、100万個以上から100個程度に絞られます。100個程度であれば、人間が判断することも可能です。

図1 ゲノム情報を用いたがんの精密医療の研究で、ワトソンを活用 Credit: iCON: Thinkstock; Illustration: T-kinoko/iStock/Getty Images Plus/Getty

あるタイプの白血病は進行が速く、日単位、週単位で進むので、ワトソンを診断支援に利用する意義は非常に大きいのです。

–– ワトソンは治療薬の候補なども見つけてくれるのですね。

宮野: 標的遺伝子の候補ごとに、どこの反応経路(パスウェイ)を阻害すればよいかを推定してくれます。そして治療介入が可能な場合、どんな治療薬や治験中の薬があるかなどを理由とともに提示してくれます。

またAIは、がん情報を横断的に検索できることも大きな強みです。一般的に、医師は、臓器別にがんの専門家が養成されるので、専門臓器以外の情報に接する機会はあまりありませんが、がんの治療薬はしばしば、複数の臓器がんに効くことがあるからです。

なお、がん以外の病気の診断支援や治療薬の発見については、私自身は詳しい情報を持ち合わせていませんが、米国では成功例が報告されています。

–– どのような経緯でワトソンを使い始めたのですか。

宮野: 最初にワトソンを知ったのは、2013年です。「これ使えるっ」て思いましたね。米国IBM社にコンタクトをとって、early adopter programに採択され、2015年7月から使えるようになりました。その後も、プログラム名は異なりますが、契約を更新しています。利用に関して、IBM社には使用料を払っています。IBM社からは研究費など1円ももらっていません。ですから、利害衝突も生じません。

–– ワトソンでは、データの安全性などはどうなのですか。

宮野: がんの変異のデータは日本国内にあるIBM社のシステム中に保存され、解析は米国IBM社のシステム中で行われます。インターネットのアクセスをはじめ、データは厳重に保護されています。また、ワトソンにアクセスするためのパソコンは、特殊なものでなく、通常のもので大丈夫です。

–– AIは世界の医療現場ではどのように活用されていますか。

宮野: 医療応用を目指したワトソンは米国の複数の病院ですでに導入されています。私たちと同じような使い方もありますが、メイヨークリニック(米国ミネソタ州ロチェスター)では、治験の参加者の選択などに使っています。

医療向けのAIを開発しているベンチャーは他にもありますが、私たちのような使い方をする場合は、大量のデータを安定的に維持・更新していく必要があります。グローバルビジネスを行う規模の企業でないと難しいと感じます。

–– AIが判断を間違えるという心配はありませんか。

宮野: ゲノム医療において、AIが判断のよりどころにするのは研究論文やデータベースなどのデータです。それらは、研究者のデータ解析から生み出されますが、確かに、それ自体に誤りがある可能性は認識しておくべきでしょう。研究者のデータ解析の正確さは、そのデータによって患者さんが治せたかどうか、何か発見できたかどうかで決まります。基本的に、ワトソンはそれをも判断の材料にしていると思います。

–– 今後も情報は増え続けて、データ量は膨らむのですね。

宮野: ワトソンを使ってみて、現場から聞こえてくるのは、ビッグデータ、ビッグデータといっても、個人の病気を解釈するには、まだあまりにも知識やデータが不足している、という声です。1人の患者さんの側から見ると、その患者さんに有用な情報はまだまばらにしかない。基礎研究がもっと必要なのです。

特に、これまでのゲノム配列の解読では、全ゲノムのわずか1.5%にしかすぎないエキソン部分だけに注目する傾向がありました。しかし、全ゲノム配列や非コードRNA配列などを解析しないと、病気の説明がつかないことがあまりにも多く、今後は、これらの解読でデータ量は膨大に増えていくと予想されます。

–– 個人に合わせた医療を指すときに、以前は「オーダーメード医療」が使われていましたが、最近は「精密医療」といわれていますね。

宮野: 個人のゲノム配列を解読して、それを病気の予防や治療に生かすという考え方は、両者で同じです。しかし、想定するデータ量の膨大さが全く異なります。

図2 ワトソンの画面の例(研究目的での使用)
治療標的の遺伝子(BRAF)と薬の候補が選ばれた理由をパスウェイで説明。現時点では承認・治験薬は米国の情報に基づく。

ゲノムワイド関連解析(GWAS)が主体となっていたのが、オーダーメード医療の時代。DNAサンプルを集めて、それを解析するところまででした。しかし、次世代シーケンサーを用いた全ゲノム配列解読の時代になり、扱うデータ量は桁違いに増え、生み出されるデータも膨大になり、ビッグデータの解析が必要になりました。そして、より詳細な情報を利用して細かく見ていくということから、precision medicine(精密医療)という言葉が使われるようになったのです。

–– 精密医療にAIは欠かせないのですね。

宮野: ビッグデータを扱いますから、AIは欠かせません。けれども、必要なのはそればかりではありません。こうした精密医療の実現には、それを支える大きな枠組みを社会に形成していかないと駄目だと思うのです。

つまり、その枠組みとして、少なくともアメリカは、国民参加型の医療システムを構築しようとしています。どういうことかというと、参加を希望する一般市民は、自分のゲノムデータをデータ管理センターに預ける。データ管理センターは、ゲノムデータを利用したいユーザーにそのデータを活用させる。こういうシステムです。人々が自分のお金を銀行に預け、銀行がそのお金を運用する構図とよく似ています。ユーザーには、病院や研究機関、医療関係企業、個人などさまざまなものが考えられます。

参加者は、ゲノムを預けるときに、ゲノム解読の費用を(今後も技術革新が続いて、かなり安価になるはずですが)自分で負担することも考えられます。その代わり、例えば、将来自分が病気になったときに、効率的に診断が受けられ、必要な治療や治験などもスムーズに提示されるといった利益があるようになるでしょう。

図3 参加型医療システムの例(参加者から見た概念図)
このネットワーク全体をAIが支える。エンドユーザーは、研究機関、病院、企業、個人などさまざまなものが可能。

一方ユーザーは、例えば、大学などが研究に使用するのはもちろんのこと、治験を行う企業が治験参加者を集めやすくなったりするなどのメリットがあるでしょう。

なお、データの所有権は参加者にあります。データのユーザーによる利用をコントロールする権利も参加者のものです。ユーザーには、一定条件下でデータを使用する権利が与えられるということです。

そしてAIは、このシステムのネットワーク全体を支援して、情報や経済を効率よく回すことに貢献できると思います。

–– AI、シーケンサー、スパコン、データベース、それに伴う技術者などに関しては必要な経費が発生するので、それを支える経済的基盤が必要となるのですね。

宮野: そうです。例えば、現在はPubMedをはじめとする公的データベースは、ユーザーがインターネット上で無料で利用することができます。しかし、それに対して今後、経済的基盤の形成がなければ、この質を保ったまま維持していくのは無理があるでしょう。先ほどの参加型医療システムについても、お金が循環する何らかのシステムを形成することが不可欠なのです。

シーケンサーをはじめ、これらの財源はこれまでは主に研究費でしたが、今後は、健康・医療というビジネス空間に広がっていくことにより、財源の規模はずっと大きくなるはずです。

そして、このようなシステムの実現でもう1つ大事なことは、社会的コンセンサスを得ることです。これまでは医療の進歩あるいは薬の開発は、研究者や医師や製薬会社によって行われるものと考えられていたと思うのですが、今後は、それに加えて、人々もそれに参加することが期待されるようになるのです。そういう気運といいますか、コンセンサスの構築が大事なのです。

–– このようなことの実現を、状況が進んでいる米国では、何年後と想定しているのでしょうか。

宮野: 遠い先のこととは考えていないと思います。米国は、がん予防・治療を推進する「米国がん撲滅ムーンショットイニシアティブ」を2016年1月に立ち上げましたが、2年間に10億ドルが拠出される予定です。

日本では、2016年9月に、日米韓が、「がんに終止符を打つことを共通の目的とする」という共同声明を発表し、米国のイニシアティブに協力する方針が明らかになりました。また、2016年10月には、厚生労働省が、国民1人1人の既往歴や服用歴を一元管理する情報基盤「PeOPLe」を、2020年を目標に運用を開始すると発表しています。また、同じく10月に、がん研究会ががんプレシジョン医療研究センターを立ち上げています。スパコンやストレージの整備、データ解析の専門家の養成などの課題も山積みですが、今後日本においても、ゲノム医療推進の気運が社会に高まっていくことが期待され、私も力を尽くしたいと思っています。

–– ありがとうございました。

聞き手は藤川良子(サイエンスライター)

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宮野 悟(みやの・さとる)

東京大学医科学研究所 ヒトゲノム解析センター 教授
もともと数学者だった宮野教授だが、ヒトゲノムの世界に飛び込み、生物情報学の専門家となった。この専門家として思うことは、日本における、特にデータ解析の専門家の不足。医療の分野においては、研究ばかりでなく、技術者として働くことも求められるので、人気がないためらしい。しかし、科学的研究と患者さんの治療への貢献を目指して働くデータ解析の専門家に、できれば、せめて「任期制ではなく、安定したポジションを」与えてほしいと願っている。

宮野 悟氏

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 12

DOI: 10.1038/ndigest.2016.161220