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握り飯より柿の種、早石修先生の志を継いで

写真左から順に、長田重一(ながた・しげかず:大阪大学免疫学フロンティア研究センター教授)、本庶佑(ほんじょ・たすく:静岡県公立大学法人理事長、京都大学名誉教授・客員教授)、成宮周(なるみや・しゅう:京都大学大学院医学研究科メディカルイノベーションセンター長)、福島雅典(ふくしま・まさのり:先端医療振興財団臨床研究情報センター長、京都大学名誉教授)

–– 早石修先生に師事されたきっかけを教えてください。

本庶: 私が京都大学医学部に入学したのは1960年で、ちょうどその頃に早石先生が、米国から、生化学研究の輝かしい成果をひっさげて、さっそうと帰ってこられた。米国での9年間の研究生活を終えて、京大医化学講座の教授になったのです。基礎研究に興味があった私は、大学2年生のときから早石研に入りました。

成宮: 高校時代に父や新聞を通して早石先生のことを知りました。早石先生の帰国と京大教授着任はセンセーショナルな出来事だったと。京大に進学すれば早石先生の講義が聞けるとわくわくしたのを覚えています。実際に京大に進学し、私も学部生の頃から早石研で研究を行いました。その後も大学院生、助手としてご退官までお仕えしました。

福島: お二人と違って、私は名古屋大学医学部で学びました。大学院に進むときに、どこに行こうかといろいろ調べたのですが、直接お目にかかって、早石先生に強く惹かれ、その研究室に進もうと決めました。1973年のことです。早石研には、全国から優秀な学生がたくさん集まっていましたね。成宮先生とは大学院の同期になります。私が早石先生に師事したのはたった2年間ですが、その出会いで私の一生が決まりました。我が人生で最も濃密な時でした。

長田: 私は、京大時代の早石先生のことは詳しく存じあげないので残念です。早石先生は京大を退官された後に大阪バイオサイエンス研究所の初代所長となられました。そして研究所の最初の4人の部長として、30代だった私を抜擢くださった。そのときが早石先生との初対面でした。

本庶: 早石先生が京大に着任した当時の日本経済は、第二次世界大戦敗戦の影響から立ち直りかけているときで、一般的に、研究予算も設備もまだまだ極めて乏しくてね。そのような中で、早石先生は米国でNIHの研究助成金を外国人として初めて獲得した経歴もあって、研究室には最新鋭の実験装置が設置された。早石先生は京大で、世界に通用する研究者を育てようとしていたのです。

福島: 朝来て実験を1セットやり、可能であれば、その日の午後には追試する。夜は論文を読んだり書いたりするという過ごし方を指導されましたね。

あるとき、ある大学院生が研究室で、商業誌の生化学の解説原稿を書いていたんです。それを見た早石先生はとても怒った。「君、なにやっているんだ、実験をしないのか」と。大学院生でありながら解説書きに時を費やし、実験をせずにいたら、新しい発見などできるわけないだろうという思いだったのでしょう。

–– 「早石道場」で、皆さん鍛えられたそうですね。

本庶: これはね、コーンバーグ研究室の伝統的なランチセミナーの方式を受け継いで、早石先生が京大で始めたんですよ。1本の論文を徹底的に読み込むスタイルで。

福島: 週日は毎日正午から1時間、お弁当を持って皆がセミナー室に集まるんです。その日の発表者が前に立ち1つの論文について発表し、先生も含めた他の参加者が質問の集中砲火を浴びせる。鍛えられましたね。

成宮: テーマの選択の当否から始まって、データの実験的根拠は確かか、方法の詳細や結果の解釈はどうか、きちんと実証されているかといったことが徹底的にその場で追及されるんです。発表の準備には、ものすごく時間がかかりましたね。そして、発表者が途中で立ち往生してしまったりすると、次週に再挑戦となる。

本庶: 発表者はラボの人たちだけれど、医学部の臨床教室からも、また他学部からも聞きに来て、議論に参加してました。早石先生は、このセミナーは武芸でいう他流試合のようなもので、真剣勝負だと言っていました。

長田: 早石先生ご自身も、たくさん質問をされていたのですか?

本庶: 言葉数は多くないですが、核心をついた質問をしましたね。その一言に、皆、ぐうの音も出ない。セミナーを通して私たちは、全てのデータは疑ってかかれ、論文の論理構成が厳密であることがサイエンスの基本、そして、国際的に通用する研究をすること、と徹底的に教わりました。

早石道場に掛けられていた古武弥四郎博士直筆の書 「本も読まなければならぬ。考えてもみなければならぬ。しかし、働くこともより大切である。凡人は働かなければならぬ。働くことは天然に親しむことである。天然を見つめることである。こうして初めて天然が見えてくるのである」と書かれている。 Credit: 成宮周

–– 普段の研究では、どのように指導を?

本庶: 研究室はいくつかのグループに分かれていて、実験の直接的な指導などは、各グループのリーダーが行いますが、早石先生は研究室の1人1人をよく観察し、気にかけていました。先生は、ラボで過ごす時間をとても大切に考えていたと思いますね。

成宮: 早石先生は、ほぼ毎日、研究室を見回られて、「どうかね?」と皆に声をかけるのです。部屋には静かにすーっと入られるのですが、そのとたん、部屋の空気がぴーんと引き締まりましたね。

福島: 弟子の良いところを見抜いて、的確なアドバイスをするというコミュニケーション能力の高い方でした。人の心をつかむのが非常にうまいというのでしょうか。私が名古屋大の学部学生として最初に早石先生を訪ねたとき、「君は、米国の学生と同じ考え方をする。すごいね」と言われ、ぐっときました。「彼らは意識的に大学を変えて、よい先生のところに行くんだよ」と。

本庶: 早石先生の褒め殺しは有名でね(笑)。若い人は素直に励まされるかもしれないけど、私たちは逆に身構えた。「君、素晴らしいデータだよ」と言われて喜んでいると、「しかし、ここはどうなっているのかね」とくるから。

–– 講義などはどうでしたか?

成宮: 名講義でしたね。名調子で学生は引き込まれました。例えば、レッシュナイハン症候群を取り上げて、たった1つの酵素の異常がアミノ酸の代謝異常を引き起こすこと、それがこの病気で見られる異常行動の原因となることを説明され、生化学の大事さを伝えようとされた。さらにその際にも、まずは、学生に質問されます。例えば、「アミノ酸は何の化学ですか?」と聞く。学生が「窒素の化学です」などと答えたりすると、「さすが京大」と言って、学生を調子づけるんですね。それで、皆ぱっと引き込まれるのです。

福島: 授業や講義は「一期一会だから」といって、準備に大変時間をかけられましたね。私たちもそのように指導されました。学会発表の前などには、先生の前で何度もリハーサルをして。

成宮: 早石先生がすごいのは、その講義を聞くと、それまで研究に興味があったわけではない学生でも、好奇心をかきたてられるのです。例えば、「皆さん医者になるんでしょ?  医者になろうと思っている人ほど、学生時代は実験をしなさい」と言うのです。すると、臨床医になろうとしている学生も、実験がしたくなって、早石研に大勢の学生が入ってきたものです。

福島: 早石研はとても大規模でしたね。100人くらいいたでしょうか。

本庶: そこまではどうかな。私がいた当時で、総勢50人以上といったところ。まあ、早石先生は京大医化学研究所と新設の医化学第2講座の教授も併任していたし、西塚泰美(にしづか・やすとみ)先生たち3人の助教授がグループのリーダーになっていたから。多かったとは思いますよ。

–– 学生は研究テーマをどのように選んでいたのでしょうか。

本庶: 研究室には、大きく2つのラインがあった。1つは、早石先生自身がライフワークとする研究。米国にいたときに早石先生が発見した酸素添加酵素についての反応機構の詳細な解明で、化学的な解析方法が必要でした。もう1つは、それ以外のテーマをある程度自由にやらせる、いわば遊撃隊チームで、何か面白いことが見つかったら、そのテーマを広げていくというもの。後者の筆頭が、早石研の大学院生第一号の西塚先生です。NAD(ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)の生合成経路の酵素的証明をされました。私自身も実は、好きなことをやれと言われました。

福島: 私が大学院に入ったとき、本庶先生はもう米国に留学中でしたが、本庶先生の話は伝説になっていました。自分で論文を読んで、仮説を立てて、それを実証してジフテリア毒素のADPリボシル化の発見をされたと。

私流に解釈すると、早石先生は本庶先生の能力を見抜き、自由にされるのがよいとお考えになったのでしょう。早石先生は、学生の自由な発想による研究テーマを否定されませんでしたが、能力に応じた対応はされていました。ウチではこういうことをやっているが、君はどれを選ぶか、また、もし他にいいアイデアがあったら言ってごらんと言われた。

–– 大勢の学者が早石研から育っていきました。

成宮: 京大をはじめ早石先生から教えを受けたのは600人余り、そのうち百数十人が教授職、部長職に就いています。全国に医学部が創設された時代と重なった幸運もありましたが。

福島: 早石先生は、面倒見がとてもよくて、弟子の将来をちゃんと考えてくれました。できる人にもそうでない人にも、その人に合った道を考えてくれる先生でした。

成宮: 論文執筆の指導もしっかりしてくれた。研究がいったん動き出したら、それをどう進めていったらいいか、どうやって論文にするかといった指導力にとても優れていましたね。

長田: 先ほども話に出ていましたが、早石先生は、若い人1人1人がどのように仕事をしているか、よく見ていらしたと思います。大阪バイオサイエンス研究所には5年間の任期制度が日本で初めて導入されたのですが、3年経ってもなかなか論文が出ないことがある。そういうとき、早石先生は、杓子定規に研究所を追い出すのではなく、あと1〜2年で研究がまとまるようなアドバイスを下さったり、その人の普段の仕事ぶりから、任期延長を判断されたりしていました。

–– 早石先生は京大退官後、大阪バイオサイエンス研究所の創設に携われたのですね。

本庶: 初代所長として、長田先生といった有望な若手を育成されたわけです。

長田: 早石先生に最初にお目にかかったのは1985年のことです。東京大学医科学研究所にいた私のところに突然訪ねて来られて、「新しく設立する基礎研究所に加わらないか」とお誘いくださいました。先生のプロスタグランジンの研究についての話がとても面白く、またサイエンスに対する熱意に感動して、お引き受けいたしました。10人近いメンバーを率いる研究部の部長職と後になって知り、驚きました。

大阪バイオサイエンス研究所では早石先生に、「自由に仕事を進めればよい」と言われました。幸いにも、2、3年後にアポトーシスを誘導する因子を発見でき、その後の数年間は、次々と刺激的な研究の進展がありました。

早石先生の言葉で一番心に残っているのは「運・鈍・根」ですね。あまり賢くて切れると、何事も教科書通りに処理し、分かった気になってしまい、実験もしなくなる。少し鈍い方が、謙虚に自然現象を観察し、既成概念にとらわれずに予期せぬ発見ができる。また、根気よく粘り強く実験すること。そして、研究には運も必要と。この言葉は素晴らしいと思いました。早石先生は、研究がものすごく好きなんだと思いました。

福島: 私も、実験がうまくいかなかったときなどに、「君ネ、運・鈍・根だよ」と言われて、よく励まされました。

成宮: 早石先生は、流行に流されるな、自分なりの研究を作れとも、よく言われましたね。

ドン・キホーテの像を持つ早石博士。

本庶: 2016年6月に早石先生を偲ぶ会が開かれました。そこでドン・キホーテの像を持つ早石先生の写真を映し出しましたが、その解説をし忘れてしまい、残念です。早石先生は、「私はドン・キホーテみたいなものだ」と常々おっしゃっていた。ドン・キホーテというのは、他の人からなんと思われようと、自分の信念に従って猪突猛進する。自分はそれでいいんだと。世の中の人が、こっちにおいしい水があるよと行っても、私は行かないと。

成宮: 早石先生の出発点、トリプトファンの研究がそのいい例ですね。細菌ではトリプトファンはトリプトファナーゼによってインドールとピルビン酸、アンモニアに分解されると決まっている。分かりきったことをして何になると周囲の人たちは考えたけれど、信念に従って実験してみると、新しい代謝経路が見つかったのですから。

–– 早石先生から受け継がれた志。どのように未来へ?

長田: 今の若い世代には、科学研究がどういうものか知らない人が多すぎます。早石先生から教わったサイエンスの真髄を、そして研究するとはどういうことかを、もっと伝えていかねばと思うのです。一般の人々へもです。

福島: 日本の科学教育を根本的に変えていかないといけないと、私も感じています。日本の生命科学において、基礎研究は今、危機にあると思うのです。基礎研究を強化していかないと、イノベーションが創出できない。基礎研究というのは、イノベーションのための「苗床」だと思うのです。苗床がダメだったら何も育たないでしょう。

本庶: 基礎研究に賭けようという若い人が少ないという現状があるのでね。例えば、京大の医学部出身者で基礎研究に入ってくる人が、私たちの時代には10人くらいいたけれど、現在は、1人いればいい方。この背景の1つには、大学院の授業料が高すぎることがある。基礎研究に進む人たちに対し、返却不要の奨学金制度を作っていかなくてはいけないと思う。

長田: 若い人たちが科学者になるという夢を持ちにくく、優秀な人たちがこの世界に入ってこないという背景には、ポジションがないという問題もあると思います。安定した職の有無に対し、皆不安を持っている。

成宮: できの悪い人を排除しようとポジションを任期制にしたら、優秀な人も来なくなった現状があるのですね。

本庶: ある程度の任期制は、やはり必要でしょう。ただ、先ほど長田先生が指摘したように、実際の仕事を判断して、延長が可能となる仕組みがよいと思う。また、研究プロジェクトの場合の任期は、本来、大学の裁量で自由にできるはずでしょう。優秀な人材に対して、事務的に一律に処する必要はないはずなのだが。

成宮: 大学も、産学連携といいますか、特許料などで積極的に利益を上げ、研究や雇用へ資するようにしていく必要があると思います。そのサクセスモデルを作っていかないといけない。

福島: そういう意味では、本庶先生たちが発見された免疫チェックポイントPD-1とその阻害薬はサクセスモデル否、科学革命でしょう。がん治療のみならずがん研究、そして薬の開発のパラダイムを一変させましたから。早石先生も西塚先生も成し得なかったノーベル賞も当然と思います。がんにとどまらずアルツハイマー病の薬開発も一変しますよ。

成宮: 早石先生は、新しい酵素の探索が盛んに行われた生化学の黄金時代に活躍され、阪大医学部時代に学んだ細菌学を基礎に酵素研究の発展に尽くされました。しかし、もともとは医師であり、酵素反応の生理的な意義の解明や、病気や医療へ還元できるものを生み出したいといつもおっしゃっていた。ですから、本庶先生のPD-1ががんの治療に役立つことは、早石先生の夢がかなったことにもなるに違いありません。

–– ありがとうございました。

聞き手は藤川良子(サイエンスライター)。

新しい生化学を日本の若者へ

──良好な研究環境をなげうち帰国した早石修博士

握り飯より柿の種

早石修は、1920年、医師であった父の留学先米国で生まれ、ドイツに移った後、1923年に帰国して大阪で育つ。大阪帝国大学(現 大阪大学)医学部進学後は、同大微生物研究所細菌学教室の谷口腆二(たにぐち・てんじ)博士の論理的で分かりやすい講義に惹かれ、学部生のうちから研究に参加。卒業は1942年。第二次世界大戦のさなかで、海軍軍医中尉に任官され千島列島占守島に赴任。谷口博士から学んだ「発疹熱」の知識を活かし、島で流行しかけていた熱病の蔓延を防ぐなどの功績を挙げる。

終戦後、谷口博士を訪ねて帰還の挨拶をすると、博士から基礎医学への道を勧められた。しかし、衣食住にも事欠く現状が頭をよぎる。迷う早石に、医学教育再建の願いを込めて博士が一言。「握り飯より柿の種だよ」。この言葉が背中を押した。早石は再び細菌学の研究の道を志したのであった。

とはいうものの、経済状況は悪く、実験もできず文献ばかり読んで過ごす日々が続いた。そこへ、大きな転機が訪れた。それは、古武弥四郎先生(こたけ・やしろう;大阪帝大名誉教授)から、貴重な精製トリプトファン入りの小瓶をもらったことがきっかけであった。早石は、海外の雑誌で読んだ方法をヒントに、大学構内の土壌で微生物のトリプトファン代謝の研究を開始する。周囲は、トリプトファンはインドールに分解されるに決まっているではないか、今さらまた微生物で実験して何になるか、と懐疑的であったのだが、早石はトリプトファンを完全分解する細菌(緑膿菌)の代謝経路を発見。さらに、カテコールのベンゼン環を開裂させる新種の酵素(ピロカテカーゼと命名)をも発見したのである。

コーンバーグとの出会い

このピロカテカーゼの論文が、ウィスコンシン大学教授のグリーン(David Green)博士の目に留まった。1949年、同研究室に留学。ただし、この研究室での実験はグリーン博士の仮説に反する結果となった。やがて、緑膿菌を使ってトリプトファン代謝酵素を研究していたカリフォルニア大学バークレー校教授のスタニアー(Roger Stanier)博士の誘いもあって、1950年、研究室を移る。そこでスタニアー博士とともにトリプトファン代謝経路の酵素を全て抽出することに成功し(約4カ月で6篇の論文を発表)、学界の注目を集めた。

早石は、学会で偶然、米国立衛生研究所(NIH)の酵素部門部長コーンバーグ(Arthur Kornberg)博士の卓越した講演を耳にして感動し、1950年末、コーンバーグ研に特別研究員として移る。コーンバーグ研での研究生活は充実しており、またランチセミナーには感心した。1つの論文について批判的に読むセミナーで、NIHの名物となっていた。早石は後に日本でこれを踏襲する。

NIHで研究室を主宰

いったんはコーンバーグ博士とともにNIHを離れて他の大学に移ったものの、1954年にNIH毒物学部長への要請を受けて就任。34歳であった。初めて主宰する研究室で、長らく中断していたピロカテカーゼの反応機構の解明に再着手。ピロカテカーゼが、生体中でガス状酸素を直接物質に取り込むことを証明し、生体内の物質の酸化は脱水素反応によるという定説を覆したことで、再び世間の注目を浴び る。このとき、ピロカテカーゼに「酸素添加酵素(オキシゲナーゼ)」という一般名を命名し、微生物からヒトにまで存在する酵素で、アミノ酸や脂質、ホルモン類の代謝に重要であることを突き止めた。

帰国を決意

1957年、早石はNIHの毒物学部長の職を辞し、京都大学医学部の医化学教室教授の任を受けることを決意する。米国にはNIHでの安定した地位や豊富な研究資金があり、研究仲間もいる。彼らには、「米国にいれば、君だったらノーベル賞も夢ではないのに」と惜しまれた。

一方、当時の日本の研究環境の貧弱さは、学会で帰国したときに痛いほど目に焼きついていた。それでも米国を去る決断に至ったのは、京大医学部長・平澤興(ひらさわ・こう)博士からの手紙に心を打たれたからだった──「優れた素質を持った将来ある日本の学生に、京大教授として新しい生化学を教え、育ててほしい」。早石自身、終戦直後のみじめな経済状況を味わい、実験できないもどかしさを体験済みだ。平澤博士の言葉は、彼を突き動かした。

こうして日本に戻った早石だが、幸いにも、NIHをはじめとする米国の複数の助成機関は、帰国後も研究費を提供し続けてくれた。京大に研究室を構えた早石は、酸素添加酵素の反応機構の解明だけでなく、トリプトファンからNADの合成やADPリボシル化反応、インドールアミン酸素添加酵素の発見などへと研究を大きく発展させ、また、後にプロテインキナーゼCを発見した西塚泰美、脂質代謝の解明を進めた沼正作(ぬま・しょうさく)をはじめ、多くの優秀な弟子たちを育成することとなった。

京大退官後は、バイオテクノロジーの基礎研究に重点を置いた大阪バイオサイエンス研究所の設立(1987年)に携わり、初代所長を務めた。世界に先駆けて特許を取得していけるような研究所を目指し、徹底した実力主義の人事を採用。早石自身はここで、プロスタグランジンによる睡眠制御の仕組みの解明に尽くした。

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 10

DOI: 10.1038/ndigest.2016.161026