筋ジストロフィーモデルの子犬を救った予想外の変異
2003年にブラジルの犬舎で生まれたゴールデンレトリーバーのRingoは、絶対に長生きできないと思われていた。Ringoと彼の同腹子は、デュシェンヌ型筋ジストロフィー(DMD)のモデル犬で、重症の筋ジストロフィーを引き起こす遺伝子変異を受け継ぐように育種されていたからだ。DMDは、ヒトでもイヌでも、ジストロフィンと呼ばれるタンパク質をコードしている遺伝子に変異が生じて不活性化されることで発症し、難治性で、最終的には患者を死に至らしめる。
しかしRingoの筋肉は、彼の兄弟たちのように衰えていかなかった。調べてみると、Ringoが持っている別の遺伝子の変異が発症を防いでいると分かった。この研究結果はCellに発表された1。Ringoが持つその変異遺伝子はこれまで筋ジストロフィーと関連付けられたことはなく、研究者たちは新しい治療法が見つかるかもしれないと期待している。
ジストロフィンを作るdystrophin遺伝子は、性染色体であるX染色体上に存在し、この遺伝子に欠陥があるとDMDを発症する。そのため、男の子の3500人に1人が発症する一方で、女の子では2コピーとも変異遺伝子でなければ発症しない。ジストロフィンは筋繊維がしっかりと保持されるのを助けるタンパク質で、このタンパク質が欠けると筋肉組織を再建する再生サイクルに障害が起こる。最終的に、脂肪と結合組織が筋肉に取って代わり、DMDの患者はティーンエイジャーになる前に車椅子生活になることが多い。30代まで生き延びられる患者はごくわずかだ。
Ringo親子の特殊な症例
雌のゴールデンレトリーバーの中には変異ジストロフィンタンパク質を持つ犬がいる。ブリーダーは遺伝子診断でその変異遺伝子が雄の子犬に受け継がれるのを防ぐことができるが、サンパウロ大学(ブラジル)の遺伝学者Mayana Zatzの研究チームは、ヒト疾患のモデルとするためにこの変異を持つ子犬を育種し始めた。
DNAの検査でRingoがdystrophin変異を受け継いでいたことは確認されたが、重度の症状は全く見られず、Zatzのチームは困惑した。そこでZatzは、研究所の犬舎でRingoの一生を綿密に追跡することにした。「ここでは非常に手厚く世話をされ、走りまわる場所もあり、太陽を浴びることができます。暑い季節にはエアコンも効かせます」とZatzは言う。
Ringoはやんちゃ者で、「ドアが開いていると、逃げ出して交尾してしまったものでした」とZatz。彼女たちのチームの論文2によると、Ringoは「自然な交尾によって」4匹の雌に計49匹の子犬を生ませた。その中の1匹、Suflairも、欠陥のあるdystrophin遺伝子を受け継いでいたが、父親同様筋ジストロフィーを発症しなかった。
「この親子は非常に珍しかったので、変化している可能性がある遺伝子をマッピングしました」とLouis Kunkelは述べる。彼は、1980年代にDMDの原因遺伝子とタンパク質を最初に明らかにした3ボストン小児病院(米国マサチューセッツ州)の遺伝学者だ。Zatzの研究室の大学院生が、Kunkelの研究室のポスドクとなったことで、KunkelはRingoとSuflairに関わるようになった。
救済遺伝子
研究チームは、筋ジストロフィーを発症している同じコロニーの31匹と、RingoとSuflairのゲノムを比較し、Ringoと彼の息子だけに見られる発生遺伝子Jagged1の変異を突き止めた。詳しく調べると、RingoとSuflairの筋肉には、罹患している他の犬たちよりもJagged1タンパク質が多く含まれていた。ジストロフィンを欠失するゼブラフィッシュでこの形質を模倣すると、筋肉の断裂などの筋ジストロフィー症状が現れなかった。
Kunkelは、犬を筋ジストロフィーから守るにはどの程度の量のJagged1が必要かはまだ分からないと言う。このタンパク質は、筋肉の発生や再生など、多くの生物学的過程に関係する経路の1要素である。おそらく、RingoとSuflairのJagged1変異はジストロフィンの欠如によって引き起こされる筋肉再生の障害を補うのではないかとKunkelは言う。彼らは現在、マウスとゼブラフィッシュで高レベルのJagged1を作り出す薬を探しているが、Ringoたちの体で起こっている事象を薬剤で正確に模倣するのは難しいだろうと慎重だ。
ノースウエスタン大学ファインバーグ医学系大学院(米国イリノイ州シカゴ)の遺伝学者Elizabeth Mcnallyは、筋ジストロフィーに対抗する変異の発見によって新しい治療の方向性が見えてきたと考えている。老化による筋萎縮などの治療にも役立つだろう。「疾患モデル犬からこの発見があったことが素晴らしいです」と彼女は言う。
Ringoは2014年に死んだが、ゴールデンレトリーバーの寿命としては標準的な範囲内の11歳まで生きた。10歳になろうとしているSuflairも老いを見せ始めている。「Suflairは歩くことはできますが、もうジャンプすることができません」とZatzは述べる。「でもそれは、彼が老犬だからです」。
翻訳:古川奈々子
Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 1
DOI: 10.1038/ndigest.2016.160103
原文
Puppy bred to have muscular dystrophy saved by surprise mutation- Nature (2015-11-12) | DOI: 10.1038/nature.2015.18784
- Ewen Callaway
参考文献
- Vieira, N. M. et al. Cell 163, 1204–1213 (2015).
- Vieira, N. M. et al. Neuromuscul. Disord. 25, 363–370 (2015).
- Hoffman, E. P., Brown Jr, R. H. & Kunkel, L. M. Cell 51, 919–928 (2015).