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学問の自由を脅かすロシア大統領令

ロモノーソフ記念モスクワ国立大学 Credit: Bychykhin_Olexandr/iStock/Thinkstock

ロモノーソフ記念モスクワ国立大学(以下モスクワ大学)A. N. ベロゼルスキー生物物理化学研究所が、所属する科学者に対して、研究論文の原稿を学会や科学誌に提出する前に情報機関の承認を得るようにという指示を出した。対象となるのは全ての研究論文で、例外はない。この指示は、2015年10月5日に同研究所で開かれた会合の覚書に記されており、国家機密に関する法律の改正を受けて出されたものとみられる。

ロシア政府は今回の法改正について、軍事研究に当たらない基礎研究の発表は制限を受けないとしているが、科学者たちは、ロシア国内の全ての研究所がモスクワ大学と同様の指示を出したとみている。

モスクワ大学のバイオインフォマティクス研究者Mikhail Gelfandは、「ソ連時代には、国際科学ジャーナルに論文を送る前に、『この研究成果は新しいものでも重要なものでもないから国外で発表してもよい』という許可を得なければなりませんでした。今回の改正はソ連時代への逆戻りです」と言う。

1993年、ロシア議会は国内の科学者に対して、軍事・産業分野で重要になりそうな研究成果については、事前にロシア連邦保安庁(FSB)から発表の許可を得ることを義務付ける法案を可決した。この法律の対象となる研究は、主に核兵器、生物兵器、化学兵器などの兵器の製造に関係するものだった。

けれども2015年5月、ウラジーミル・プーチン大統領の大統領令によりこの法律の対象となる研究の範囲が広げられ、「新しい製品」という曖昧な言葉で定義されるものの開発に利用できる全ての科学研究が対象とされることになった。ロシアは、他にも広範な分野で締め付けを強化していて、平時におけるロシア軍兵士の死傷者数も国家機密とされることになった。これは、ウクライナでの紛争への軍事介入を非難されている同国がそれを隠蔽するために行った工作とみられている。

大統領令が発令されてから、ロシアの大学や研究機関が研究者に対し「論文を投稿する前にそれが今回の改正に違反していないという承認を得るように」と指示したらしいという噂がささやかれ始めた。冒頭で触れたベロゼルスキー研究所の会合の覚書は、この噂を裏付けるものだ。覚書には、「現在の法律は、科学者が論文を出版したり、学会で口頭発表やポスター発表を行ったりする前に、承認を得ることを義務付けている」と書かれている。そして、この規則はロシア国内外での全ての論文出版や学会発表に適用され、同研究所のスタッフ全員に「例外なく」適用されるという。

今後、ロシアの科学者は論文を投稿する前に大学の「第一部門」から許可を得なければならない。ロシア科学アカデミー(モスクワ)とモスクワ大学に所属する地理学者Viacheslav Shuperによると、第一部門はFSBの支局で、ロシアの全ての大学や研究機関に設置されているという。モスクワ大学の地理学者にも同様の指示が出ているそうだ。

覚書は科学者に「全体の状況が明らかに不合理であっても」許可を得るようにと指示している。Natureはベロゼルスキー研究所のVladimir Skulachev所長に対して、この変化が同研究所の研究にどのような影響を及ぼす可能性があると思うかと質問したが、回答はなかった。

Shuperやその他の研究者によると、ロシア各地の研究者が、研究機関から「原稿は承認を得るように」と指示されたと不満をこぼしているという。「ロシアの科学者の多くは公然と声を上げたりしません。けれども彼らは、学問の自由が損なわれたことを深く悲しんでいるのです」とShuper。

特定の研究が国家機密に当たるかどうかを役人に決めさせることは、科学者の神経に障るだけでなく大きな負担でもあると彼は言う。例えば、一部の研究機関では、外国で発表するために英語で論文を書いた科学者たちが、情報機関のチェックを受けるために論文をロシア語に翻訳させられたという。

ゲノム調節センター(スペイン・バルセロナ)のロシア人生物学者Fyodor Kondrashovは、この変化は科学にとっても好ましくないと言う。「全ての科学的成果が国家機密として扱われる可能性があるのは問題です。これにより、一部の科学者が国外の学会で発表をしなくなるなど情報の共有を避けるようになり、不健全な風潮が生まれる恐れがあります。また当局が、自分たちを批判する研究者を選んでこの法律を適用するのではないかという不安もあります」。

ロシア科学省科学技術開発部門長のSergey SalikhovはNatureに、「今回の改正は政府が基礎研究の発表を制限するものではない」と語った。彼はまた、大学や情報機関に対して、この法律を非軍事研究にも先回りして適用するように命じることもしていないという。

けれどもGelfandは、今回の改正には情報機関や科学行政担当者が恣意的な解釈を行う余地があり、彼らは職務に熱心になりすぎる傾向があると指摘する。スコルコボ科学技術研究所の分子生物学者であるKonstantin Severinovはモスクワ大学の卒業生だが、「基本的に、新しく有用そうな研究は全て、国家機密と解釈される可能性があります」と言う。

Severinovは、研究成果の発表に情報機関の承認を必要とすることは、ロシアの科学の強化と国際化を目指す政府の努力に逆行すると考えている。ロシア政府は2020年までに世界大学ランキングトップ100に自国の大学を5つランクインさせることを目標に定めて、一流の外国人研究者をロシアに引きつけようと必死になっているからだ。

Gelfandは、所属する研究機関からの指示には従わないつもりで、他の研究者にも同じように行動するよう勧めている。「多くの研究者が、役人に押し付けられたばかげた制度に従順に従っています。これは、ロシアで学問の自由が全体的に損なわれ始めた悲しい兆候です」と彼は言う。「私はこの指示を無視します。十分な数の仲間が同じように行動してくれるとよいのですが」。

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 1

DOI: 10.1038/ndigest.2016.160116

原文

Secret service to vet manuscripts
  • Nature (2015-10-22) | DOI: 10.1038/526486a
  • Quirin Schiermeier