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がん遺伝子産物Rasへの再挑戦

Credit: LAGUNA DESIGN/SCIENCE PHOTO LIBRARY/Gettyimages

Stephen Fesikは、製薬会社を辞めてヴァンダービルト大学(米国テネシー州ナッシュビル)に創薬の研究室を構えたとき、発がんに関係することで知られる最も重要なタンパク質のうち5種類を「指名手配リスト」として書き出した。これらのタンパク質は、薬剤開発者にとっては悪夢のような存在で、腫瘍の増殖を促進させることが分かっているにもかかわらず、その分子表面に起伏がなく滑らかなためにつかみどころがなかったり、あるいはひどく難しい性質を持っていたりするために、薬剤をうまく結合させて阻害することができないのだ。専門用語で言えば「アンドラッガブル(undruggable;創薬が困難)」な標的である。

Fesikが手配リストに加えたタンパク質の1つに、Rasと呼ばれるタンパク質ファミリーがある。Rasは低分子量GTPアーゼに分類される酵素であって、これをコードする遺伝子の変異が最も強力ながん化促進要因の1つであることは、すでに30年以上前から分かっている。Rasの変異は、悪性度が高く致死的ながんの一部(肺腫瘍の最大25%、膵臓腫瘍の約90%など)で見られる。また、一部の進行がんでは、Rasの変異と生存年数の短さの間に関連性が見られる。

Rasの研究は数十年にもわたるが、その働きを安全に制御できる薬剤はいまだ作り出されていない。いっこうにうまくいく気配が見られないため、研究者はこの分野からどんどん去っていき、また製薬業界は、Rasの先端的な研究計画を断念せざるを得なくなった。しかし現在、ヴァンダービルト大学のFesikの研究室をはじめとする少数の研究チームが、このタンパク質に再び挑んでいる。彼らの武器は、改良された技術と、Rasタンパク質の作用機序に関する一歩進んだ情報だ。2014年に米国立がん研究所(メリーランド州ベセスダ)は、Rasによって誘導されたがんの新たな治療法を見つけるための計画「Rasイニシアチブ」を立ち上げた。この計画には、年間1000万ドル(約12億円)が投入される。またこの計画以外にも、Rasタンパク質を標的とする初めての薬剤を最終的に生み出せそうな化合物がすでにいくつか見つかっており、微調整すれば臨床で使えるのではないかと期待が高まっている。

一方で研究者らは、まだ乗り越えるべき多くのハードルがあることも忘れていない。「Rasに対して十分に畏敬の念を持つべきです」と、ウェルスプリング・バイオサイエンス社(Wellspring Biosciences;米国カリフォルニア州ラホヤ)の社長Troy Wilsonは話す。同社はRasに照準を合わせた創薬ベンチャーで、2012年に設立された。「Rasは侮ってはいけない相手ですが、発がんに最も重要ながん遺伝子の1つであることは間違いありません」とWilson。

こうした「Rasルネッサンス」の動きを歓迎する人々は、Ras研究で何かしらの成功の兆候があれば、「アンドラッガブル」とされる他の重要なタンパク質を標的とする際の手掛かりになるのではないかと話す。ノースカロライナ大学(米国チャペルヒル)のがん研究者Channing Derは、Rasタンパク質が標的として手強すぎるという見方が定着しているからといって、研究者まで諦めるべきではないと話す。「定説というものは時とともに変わっていくのですから」。

手が届きそうにない果実

1982年、ヒトのRasタンパク質遺伝子の変異ががんの原因となり得ることが複数の研究チームによって初めて示された。Derらのチームはそのうちの1つだ1。この発見を契機に、ヒトゲノム内のがん遺伝子(がん化の原因遺伝子)を探す研究が盛んに行われるようになった。それまでがん遺伝子は、ウイルスや動物モデルでしか報告されていなかったのだ。

Rasの変異ががんの原因になるという発見は、現代のがん研究という一大事業の礎となり、遺伝子変異の追跡や変化した分子経路の解析を中心に研究が進められるようになった。またこの発見によって、がん遺伝子を標的にすることで一部のがんを治すことのできる薬剤が見つかるのではないかという期待も膨らんだ。

その後何年かは続々と発見があった。ヒトでは互いによく似た3種類のRasタンパク質(H-Ras、K-Ras、N-Ras)が作られていること、それらのRasは細胞が増殖を必要とするとき(例えば損傷した組織の置き換えなど)に活性化することなどだ。Rasは細胞内に存在していて、通常は「オフ」状態となっているが、細胞外からシグナルが伝達されると、GTPという分子と結合して「オン」状態に切り替わる。ところが、発がん性のある変異型Rasでは、結合したGTPを適切に分解できず、「オフ」状態に切り替えることができなくなる。従って、変異型RasとGTPとの結合を邪魔する薬剤を探すのが、変異型Rasによるがん化作用を止める方法として理にかなうやり方のように思えた。

しかし、Rasの生化学的特性の解明が進むにつれて悲観的な見方が強まっていった。このタンパク質ファミリーのGTPとの結合親和性が並外れて高いことが分かったのだ。このため、GTPの結合を阻止できそうな新しい化合物を見つけることも不可能に思われた。Rasタンパク質は、他のタンパク質との相互作用によっても機能するが、細胞内に入ることのできる低分子医薬にとってRasタンパク質の通常の相互作用面は広すぎて、これを遮断できない(抗体は優れた医薬品となり得る上、相互作用面を覆うことができるが、その大半は細胞膜を透過できない)。

Rasの構造も、悲観論をさらに後押しした。創薬では通常、標的タンパク質の形状を見て、重要な部位に結合する化合物が見つかる可能性を推し量る。理想的なタンパク質は、薬剤がするりと入り込んで複数の接点で結合できるような深いポケットのあるものだ。しかし、Rasタンパク質の表面にはあまり起伏がない。

20年前、この問題に解決策が見つかったように思われた。Rasがその機能を発揮するためには、脂質の尾部を使って細胞膜の内側にしがみ付く必要がある。この尾部は、ファルネシルトランスフェラーゼ(FTアーゼ)という酵素によって付加される。FTアーゼはRasタンパク質よりも薬剤の標的にしやすいため、FTアーゼを阻害する薬剤を見つけ、それによってRasの活性を抑制するというアイデアが生まれた。

初めはこの戦略が成功を収めるように見えた。FTアーゼ阻害剤により、マウスやヒトのがん細胞の増殖が低減することが報告されたのだ2。2000年代初頭まで、少なくとも6社の製薬企業がFTアーゼ阻害剤を市場に出そうと競い合っていた。この時点で大方の研究者はRasの問題が解決したと考え、それ以外のRas関連プロジェクトを中止しまったのだと、マックス・プランク分子生理学研究所(ドイツ・ドルトムント)の化学者Herbert Waldmannは話す。「この分野の関係者全員が成功を信じて待っていました」と彼は振り返る。

その期待は、薬理学史の中で最大級の失望とともに崩れ去った。ヒトでのFTアーゼ阻害剤の臨床試験が次々と失敗に終わったのだ。Derは当時もまだRasを研究していたが、この顛末は彼にも他の全ての研究者にも、Rasの生物学に関する大事な教訓をもたらしたと話す。

ヒトの3種類のRasは、構造やアミノ酸配列の点でほぼ同じであるため、それらの機能も似通っていると予想されていた。そのため、Rasタンパク質の研究用ツール(細胞培養系やトランスジェニックマウス、抗体)のほとんどが、一番扱いやすいH-Rasを使って開発された。「H-Rasの全てについて知ることができれば、他の2種類をわざわざ研究する必要はない。私自身も含めて研究者全員がそう考えていました。不幸なことに、この誤った思い込みに多額の資金が無駄に費やされたのです」とDer。

やがて、ヒトのがんでは、H-RasよりもK-RasとN-Rasの方がずっと重要なことや、細胞にはK-RasとN-Rasの働きを維持するための一種の危機管理策があることが明らかになった。Rasの尾部がファルネシル化(脂質修飾)されていない場合には、別の酵素が異なる種類の脂質尾部を付加することができるため、FTアーゼを阻害する実験薬を無効にしてしまうのだ。

研究者の間には、こうした失敗と失望が苦い記憶となって残り、Rasタンパク質を別の視点で見られるようになるまで多少の時間を要した。しかし、あれから10年ほど経ち、研究者らがRas研究に徐々に戻りつつある。「前触れもなしに戻ってきて、皆こう言うんです。『Rasはまだ、腫瘍学で最も重要な標的の1つだ。過去10年間、この分野で誰も成果を挙げていない。何とかしようじゃないか』ってね」とWaldmannは話す。そして研究者らは、RasそのものではなくRasでがん化した腫瘍の弱点を探すという新たなアプローチを取るようになった。

そうした弱点の1つが「合成致死性」だ。Rasタンパク質がずっと活性化状態になっているようながん細胞は、生存のために他の分子経路に依存するようになることが多い。こうした経路を遮断すると、正常細胞には影響がなく、Rasでがん化した腫瘍細胞だけが死滅する。この仕組みが合成致死性である。複数の研究室が現在、変異型Ras遺伝子に対して合成致死性を生じる遺伝子のスクリーニングに取りかかっているところだ。

このやり方で、新しい標的遺伝子候補を報告した論文が続々と発表されたが、その後間もなく、合成致死性に関するそうした研究結果は再現できないとする報告が続けざまに出された3。2014年10月のある会議では、スイスの製薬会社ノバルティス社の腫瘍学部門グローバル統括責任者のWilliam Sellersが、Ras合成致死性を示した報告のうち最も目覚ましい複数例について再現を試みたが、失敗に終わったと述べている。フランシス・クリック研究所(英国ロンドン)のがん研究者Julian Downwardは、合成致死性の実験では、使用する細胞種やスクリーニング条件などの実験条件が変わると、結果が簡単に変わってしまう可能性があるのだと説明する。研究者らは、報告された結果をふるいにかけ、再現実験に耐えられる標的を見つけようとしているが、Downwardは、そうした努力が実を結ぶかどうか疑わしいとみている。「再現実験を行うと、皆違う結果になるようなのです。合成致死性に関わっていると報告された遺伝子は、確実な標的とはなり得ないのではないかと思います」と彼は話す。

適した形にあつらえる

このように、合成致死性の取り組みが期待外れの結果に終わったことは記憶に新しい。その一方で、Rasそのものを標的にしようとしている研究者もいる(「Rasを攻める」参照)。「我々は、Rasに直接迫るべきだと判断しました」と話す、コロンビア大学(米国ニューヨーク州)の化学生物学者Brent Stockwellもその1人だ。

過去5年間にコンピューターモデル作成や薬剤化合物スクリーニング法が向上したおかげで、Rasタンパク質の滑らかで窪みのない表面でも標的にできるという新たな希望が生まれてきたのだと、Stockwellは話す。例えば現在では、タンパク質に対する低分子の結合親和性を高い精度で予測でき、またタンパク質動態の解明も進んでいる。

Stockwellのチームは、こうした進歩をフルに生かして、Rasタンパク質表面の形状に合わせた低分子を設計しようとしている。まずコンピューター上で分子の設計を行い、次に実験室でその効果を検証する流れだ。「Rasに関しては、おそらくこれ以外の方法で正しい解決法を見いだせないでしょう。とにかくやり遂げるしかないのです」とStockwell。

Fesikも新しい薬剤を構築中だが、その出発点は既存化合物のライブラリーだ。彼は元の職場であるアボット・ラボラトリーズ社(Abbott Laboratories;米国イリノイ州アボットパーク)で、標的に弱くではあるが結合する低分子化合物(フラグメントと呼ばれる)を複数つなぎ合わせることで、タンパク質間の相互作用を遮断する化合物を作り出すという方法を編み出した。こうして組み立てた全く新しい大型の化合物は、薬剤探索で標準的に使われる化学物質ライブラリーには存在しない類いの分子だ。

フラグメントベースド・スクリーニング(低分子化合物に基づく薬物スクリーニング)と呼ばれるこの手法を、Fesikは「1回ごとに鍵の溝を1つ刻んで、鍵穴に合わせていくようなものです。最終的に全ての溝を組み合わせれば、かつて一度も作られたことがない化合物(つまり鍵)を作り出すことができます。ゆっくりとですが着実に、目的のタンパク質に合うようにあつらえるのです」と説明する。

Fesikの研究室と製薬企業の共同研究者らは、K-Rasタンパク質に弱く結合する分子をすでに130種類以上見つけている4。それらの分子は、K-Rasの構造に変化を引き起こし、その過程で結合ポケットを開口させる。チームは現在、鍵と鍵穴の適合性を上げるため、他のフラグメント(実質的には鍵の第2の溝)を付け足そうとしているところだ。大学に移る前のFesikは、職場の製薬会社で、「アンドラッガブル」な標的を「ドラッガブル」に変える人物として評判だったとDerは話す。「こんなことをしようとする人間はFesikくらいです」とDer。

その他に、Rasの特定の変異をさらに念入りに検討している研究者もいる。Ras遺伝子の変異でがん化に関連するものはたくさんあるが、Rasによるがんの大半は、わずか3種類のアミノ酸置換(12、13、61番目)を引き起こす遺伝子変異が原因である。遺伝子の変異の結果生じた酵素は、それぞれ挙動がわずかに異なるのだとDerは説明する。「異なる変異が異なる性格を持っているなら、それぞれ固有の脆弱性を引き起こしている可能性があります」と彼は言う。

カリフォルニア大学サンフランシスコ校(米国)の化学生物学者Kevan Shokatは、6年前に「Ras狩り」に参戦した。彼は2013年に、K-Ras遺伝子変異の1つであるG12Cを標的とする化合物を報告した5。この変異は肺がんの20%で見つかっており、この変異によってアミノ酸のグリシンが、他の分子と反応しやすいシステインに置き換わってしまう。Shokatの見つけた化合物は、システインの高い反応性を利用し、K-Rasに不可逆的に結合して酵素活性を阻害する。この阻害剤は、ヒトの患者に用いるためにはさらなる調整が必要だが、Rasに真の意味で直接結合する初めての薬剤候補として期待を集めているとDownwardは話す。「Shokatの報告は、Rasの研究分野全体を再び活気づけました」と彼は言う。

Shokatは、「かなり以前から、それぞれの変異に特異的な薬剤を使えばうまくいくのではないかと考えていました。しかし、自分の研究室でそれをやることを最近まで躊躇していたのです」と言う。薬剤開発者からすると、狙っている標的をつかんで決して放さないような薬剤は恐ろしく感じるものなのだと彼は話す。そうした薬物は、体内で他のタンパク質と予期せぬ反応を起こしてしまう可能性も高いと考えられるからだ。しかし、分子標的薬の分野では最近まで、標的に不可逆的に結合するものを求めてきた。例えばリンパ腫や白血病の治療薬イブルチニブなど成功を収めたいくつかの薬剤がそうだ。

一方、製薬企業は次第に、特定の変異を持つがん患者群だけに効果のある薬剤を開発するという考え方を取り入れるようになってきた。「K-Ras変異のある患者全てに有効な薬剤などは存在しないでしょう」と、ピッツバーグ大学(米国ペンシルベニア州)のがん研究者Timothy Burnsは予想する。

Fesikは、Rasの難題の解決策がどんなものであれ、学術機関から出てくる可能性が高いと話す。彼が製薬会社から大学に移った理由の1つは、探索の難易度にとらわれずに重要な標的を探したいと思ったことにある。製薬会社にいてアンドラッガブルなタンパク質の探索を正当化することはなかなか難しい。製薬業界では往々にして目先の利益が優先され、科学的な興味は後回しにされてしまう。「ほとんどの製薬企業は、こうしたアンドラッガブルな標的を探すためのリスクを取りたがりませんし、もし取ろうという姿勢を示しても一時的なものです」とFesik。

しかし現在、基礎研究と製薬を結ぶ架け橋ができつつある。Fesikの研究室は、ドイツの製薬会社ベーリンガーインゲルハイム社と組み、その第一世代のRas結合薬を評価している。またShokatは、自身の作る阻害剤を市場に出すためにウェルスプリング・バイオサイエンス社を共同設立した。この研究はすぐに、ヤンセン・バイオテック社(Janssen Biotech;米国ペンシルベニア州ホーシャム)から支援を受けることができた。

行政もこうした動きに注目している。年間1000万ドルが投入されるRasイニシアチブは創薬を助ける目的で、Rasタンパク質構造を調べるためのツール開発や基礎研究の発展を支援していると、同プロジェクトの共同ディレクターであるカリフォルニア大学サンフランシスコ校のがん研究者Frank McCormickは話す。「我々は、Rasを標的にすることのリスクを低減させるつもりです。そうすれば、他の研究者もこの闘いのリングに戻って再挑戦しようという気持ちになってくれるでしょう」と彼は話す。

McCormickによれば、製薬業界は数年前から、キナーゼと呼ばれる別の種類のタンパク質を対象に「手の届く果実」を探してきたという。キナーゼは標的にするのが容易だったため、有用ながん治療薬が多数生み出された。しかし、この波も現在は終息し始めており、もっと高いところの果実に手を伸ばすべき時期にきているとMcCormicは話す。つまりRasタンパク質のように、手強いが非常に重要だと分かっている「果実」だ。

こうしたRasタンパク質研究の復活が、他の厄介な標的を相手にしている研究者を元気づけることになればうれしいとStockwellは話す。「Rasで多少なりとも成功すれば、その興奮の余波が他の標的の研究にも広がっていくでしょう」と彼は話す。「もし本当にがんを制圧したいなら、これまで手が出せないと思っていた領域に挑むべきでしょう。そこには莫大な標的が眠っているはずです」。

翻訳:船田晶子

Nature ダイジェスト Vol. 12 No. 7

DOI: 10.1038/ndigest.2015.150725

原文

The Ras renaissance
  • Nature (2015-04-16) | DOI: 10.1038/520278a
  • Heidi Ledford
  • Heidi Ledfordは、米国マサチューセッツ州ケンブリッジ在住のライター。

参考文献

  1. Der, C. J., Krontiris, T. G. & Cooper, G. M. Proc. Natl Acad. Sci. USA 79, 3637–3640 (1982).
  2. Appels, N. M. G. M., Beijnen, J. H. & Schellens, J. H. M. Oncologist 10, 565–578 (2005).
  3. de la Cruz, F. F., Gapp, B. V. & Nijman, S. M. B. Annu. Rev. Pharmacol. Toxicol. 55, 513–531 (2015).
  4. Sun, Q. et al. Angew. Chem. Int. Ed. Engl. 51, 6140–6143 (2012).
  5. Ostrem, J. M, Peters, U., Sos, M. L., Wells, J. A. & Shokat, K. M. Nature 503, 548–551 (2013).