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追悼・南部陽一郎博士

Credit: UNIV. CHICAGO LIBRARY, SPECIAL COLLECTIONS RESEARCH CENTER/CHICAGO MAROON

7月5日に大阪で急性心筋梗塞により死去した南部陽一郎は、20世紀の理論物理学に最も大きな影響を及ぼした科学者の1人だった。彼の洞察は非常に深く、独創的であったため、他の研究者から理解され、真価を認められるようになるまでに数年かかることも珍しくなかった。自発的対称性の破れの理論(彼はこの業績により小林 誠、益川敏英とともに2008年にノーベル物理学賞を受賞した)、クォークとグルーオンの理論、弦理論は、いずれもそうした経緯をたどった。

現代素粒子理論がどのようなものであるかは、その業績(強い相互作用、弱い相互作用、電磁相互作用の3つを記述する標準モデルとして具体化している)と目標(重力を含む全ての力と素粒子を統一的に記述する理論)によって示すことができる。そして、対称性の破れとクォークの理論への南部の貢献は標準モデルの基礎をなすものであるし、彼が創始者の1人となった弦理論は「万物の理論」への最も有望なアプローチなのだ。

南部は1921年に東京で生まれた。この年は、後に「日本の近代物理学の父」と呼ばれることになる仁科芳雄が、新しい物理学を学ぶために欧州留学に旅立った年である。英国、ドイツ、デンマークで研究生活を送り、量子力学と「コペンハーゲン精神」を身に付けて7年後に帰国した仁科は、新しい物理学の普及に努めた。彼が1931年に京都大学で行った集中講義は、若き湯川秀樹(中間子の存在を予言した業績により1949年にノーベル物理学賞を受賞)や朝永振一郎(化学反応からレーザーまで、あらゆる電磁気現象を記述できる量子電磁力学の理論への貢献により1965年にノーベル物理学賞を共同受賞)に強烈な印象を残した。

南部は1940年に東京帝国大学(現在の東京大学)に入学したが、太平洋戦争が始まり、1942年に繰り上げ卒業して陸軍に召集された。陸軍では塹壕を掘ったり、レーダー研究所でレーダー開発プロジェクトに携わったりしていたが、心は常に基礎物理学にあったという。1945年、彼は研究所で助手を務めていた飛田智恵子と結婚した。戦後、東京大学に戻った南部は、食事にも事欠くような困難な状況で、研究室で寝起きをしながら研究に励んだ。東大物理学科は物性物理学に強いことで有名だったが、南部は核物理学や素粒子物理学に魅力を感じ、近くの東京文理科大学(現在の筑波大学)で仁科と朝永が開くセミナーに参加していた。

1949年、南部は朝永の推薦により大阪市立大学の助教授となり、そこで2本の画期的な論文を発表した。1本目の論文は、場の量子論における素粒子同士の結び付きを表す、現在ベーテ・サルピータ(Bethe-Salpeter)方程式として知られる式を導き出すものだった(Y. Nambu Prog. Theor. Phys. 5, 614–633; 1950)。2本目の論文は、新たに発見されたばかりの「奇妙な(ストレンジ)粒子」が生成される仕組みを提案するものだった(Y. Nambu et al. Prog. Theor. Phys. 6, 615–619; 1951)。どちらの論文も、米国の物理学者が書いた有名な論文よりも1年早く発表されている。 1952年、東京大学で博士号を取得した南部に大きな転機が訪れた。朝永の推薦で、ロバート・オッペンハイマー(Robert Oppenheimer)が所長を務めるプリンストン高等研究所(米国ニュージャージー州)に留学したのだ。南部は後年、当時を振り返って、どの研究者も自分より賢く見え、その競争の熾烈さに圧倒されたと語っている。それでも、マービン・ゴールドバーガー(Marvin Goldberger)は彼を高く評価し、1954年にシカゴ大学(米国イリノイ州)に招聘した。

第二次世界大戦直後、素粒子物理学者が目指すべき場所はシカゴ大学だった。エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)を知的リーダーとする同大学の物理学科は、後に10人以上のノーベル賞受賞者を輩出することになる。そして南部は、学者としての残りのキャリア(それは半世紀以上に及ぶ)を同大学のエンリコ・フェルミ研究所で過ごすことになった。

1961年には、南部はジョバンニ・ヨナラシニオ(Giovanni Jona-Lasinio)とともに超伝導(物質を極低温にしたときに電流抵抗がゼロになる現象)を解明しようとする過程で、「隠れた対称性(対称性の破れ)」という概念を導入した。極低温では、マクスウェルの電磁理論の数学的対称性も、電弱理論の特徴である電磁力と弱い力の対称性も隠れていると考えるのだ。電弱対称性の破れは、2012年に欧州原子核研究機構(CERN;スイス・ジュネーブ)でヒッグス粒子の存在が確認されたことにより裏付けられた。

1964年、ジョージ・ツワイク(George Zweig)とマレー・ゲルマン(Murray Gell-Mann)は、粒子加速器により続々と発見される数百種類の新しい素粒子について説明するため、それぞれ独立にクォークの概念を提唱した。その後、各種クォークの特性を整理し、グルーオンが持つ「カラー(色荷)」の力によって3個または2個のクォークが結合して陽子、中性子、中間子などの素粒子を作る仕組みを説明するのに20年以上の時間を要した。けれども南部は韓武栄(Moo-Young Han)とともに、そのあらかたを1965年の時点でまとめていた。ゲルマンの言葉を借りると、「私たちが悪戦苦闘している間に、彼はさっさとやってしまった」のだ。さらに南部は、色荷に関する考察を深める中で、弦理論の創始者の1人となった。

私は30年以上にわたり南部の同僚として仕事をする幸運に恵まれた。彼は、あれほど賢く、重要な人物であったにもかかわらず、びっくりするほど穏やかで謙虚だった。彼が何かを語るとき、私たちは皆、一言も聴き漏らすまいと注意深く耳を傾けたが、完全に理解できることはめったになかった。以前、プリンストン高等研究所のエドワード・ウィッテン(Edward Witten)が、「南部は人よりもずっと先を見ているから、人は彼の言うことを理解できない」と言っていた。

時代の先を行き過ぎたが故に、南部の業績が人々に認められるには時間がかかった。私たちは長年、南部がノーベル賞を受賞することを切望していたので、2008年の受賞のニュースに大喜びした。彼はストックホルムでの授賞式に出席することができなかったが、駐米スウェーデン大使がシカゴにやって来て、素粒子物理学の謙虚な巨人に賞を贈った。授賞式には彼の友人や同僚200人が出席した。私がこれまで生きてきた中で、あれほど喜ばしい出来事はなかった。

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 12 No. 10

DOI: 10.1038/ndigest.2015.151009

原文

Yoichiro Nambu (1921–2015)
  • Nature (2015-08-26) | DOI: 10.1038/524416a
  • Michael S. Turner
  • Michael S. Turnerはシカゴ大学カブリ宇宙物理学研究所所長、天文学・天体物理学・物理学教授。