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「1000ドルゲノム」成功への軌跡

急激なコストダウン
DNA配列解読のコストダウンは、ヒトゲノムプロジェクト終了(2003年)から数年の間はムーアの法則に沿うレベルで進んでいた。だが2007年頃には、それを超える速度で急落したのだ。

シリコンバレーにおいて、アイザック・ニュートンが確立した自然界の法則に匹敵する地位を占めているように思われるのが「ムーアの法則」である。インテル社の共同創業者Gordon Mooreが「コンピューターの性能は2年ごとに2倍に向上し、それ故その価格は半分になる傾向がある」という特徴を観察結果から得て提唱したもので、理論のわずかな見直しは必要だったものの、コンピューター業界は今日までの約50年間、この法則に当てはまる形で急速に発展を遂げてきた。しかし、それ以上の急速な変化を体験したゲノム研究者たちはこれを鼻で笑う。

DNA配列解読の急激なコストダウンは、過去数年にわたる数十件の発表の中で、ムーアの法則のグラフの傾きと比較されてきた。しばらくの間、両者のペースは互角だったが、2007年頃から乖離が大きくなった。平均的なヒトゲノムの配列解読コストは、わずか6年の間に、約1000万ドル(約10億円)から数千ドル(数十万円)まで急落した。その変化の速度は、単にムーアの法則を越えているだけではなく、かつては限りない進歩に関する強力な予測法だったムーアの法則を、全く平板なものに見せるほどであった。そして、パソコンの普及によって世界が変わったように、猛烈なスピードで進むゲノム技術開発は、生命科学研究に革命をもたらした。同時に、医療にも大変革を引き起こそうとしている。

この成功に米国立ヒトゲノム研究所(NHGRI;米国メリーランド州ベセスダ)の助成金計画「高度配列解読技術賞(Advanced Sequencing Technology awards)」が不可欠であったと考える人は多い。この助成金は、「1000ドルゲノム」や「10万ドルゲノム」プログラムという呼び名で広く知られている。2004年に始まったこの計画は、学術界と産業界の科学者グループ97組に助成金を授与しており、受賞者には配列解読領域の各有力企業のチームも名を連ねる。

2003年のヒトゲノムプロジェクト終了に伴い、この分野はすっかり停滞してしまうことが広く懸念されていた。だが、この助成金が科学技術者の流動性と協力を促進し、数十社の競合企業の設立を後押ししたことで、ひとまずそれは回避された。「この領域の有力企業は配列解読法を一変させました。それは全てNHGRIの資金で始まったのです」とGina Costaは話す。有力な企業5社で働いた経験を持つCostaは現在、ゲノム解析を行うサイファー・ジェノミクス社(米国カリフォルニア州サンディエゴ)の副社長を務めている。

巨人伝説

目標達成が近づいている1000ドルゲノムプログラムは、2014年の助成金が最後になる。技術の虫が今後の課題に目を向ける中、米国政府は次の中間目標として、「約2億3000万ドル(約230億円)の政府プログラムがどうやって成功を収めたのか、その勝利の方程式は他の課題に応用できるのか」を導き出す必要がある。このプログラムは、思いがけず時機が一致したことと、確立された産業がなかったことが幸いした。それに対し、NHGRIのゲノム科学部門を統轄し、当初からそのプログラムを運営してきたJeffery Schlossは、その成果は官民共同事業を成功させる方法があることを示唆するものでもあるという。「難しいのは、政府の正しい役割が何なのかを明確にし、民間部門の技術開発を妨げないで前進させることです」とSchlossは説く。

最初の「ヒトゲノムを解読する」という目標は、巨大な企てだった。1990年から概要配列が発表された2001年までの間、30億ドル(約3000億円)の予算があてがわれた事業に200人を超える科学者が参加し、一丸となってヒトの遺伝物質を構成する約30億塩基のDNAの解読を行った(国際ヒトゲノム配列解読コンソーシアム;Nature2001年2月15日号860~921ページ参照)。この最初の計画は大きな成功を収めたが、反省点もあった。この計画の推進派は当初、この計画により「生命の取扱説明書」が明らかになるとうたったが、実際には、DNAにコードされた情報を生物学に転換して解釈できるようになったわけではない。DNAが実際に健康と病気に影響を及ぼす仕組みを明らかにするには、遺伝子と生物学的情報とのつながりを示す事例を、何千人、何百万人、あるいはそれ以上の人間において調べる必要があるだろう。

当時、技術の主流はサンガー法だった。この方法は、基質に仕掛け(取り込まれると鎖の伸長が止まる化学修飾と塩基を区別する蛍光標識)を施しておくことで、対象DNAがコピーされる際にさまざまな長さの断片が出来上がることを利用する。その長さをもとに塩基配列を割り出すため、労働集約型の上に時間も要した。アプライドバイオシステムズ社(米国カリフォルニア州フォスターシティー)は、少数の顧客(多くは政府が資金面で支援する大規模な研究室)に対して圧倒的多数のDNAシーケンサーを供給していたが、同社には、中核的なその技術を更新する動機がほとんどなかった。

それでも、一部の人力作業を肩代わりするロボットや、少量の液体を取り扱うことができる装置の改良などにより、一定の進歩が見られた。こうした技術革新の結果、2002年にNHGRIが主催した会議では、次の5年でコストは100分の1以下に下がるという見通しが出された。しかし、それではヒトゲノム解読を社会に浸透させるには不十分だった。

MRI検査のように、医師が患者の診断のために当然のごとくゲノム配列解読を活用するようになるには、一体どのくらいの金額に設定する必要があるのか、会議の参加者たちは議論した。「思いもよらないことでしたが、誰かが『1000ドル』と言ったのです」とSchlossは振り返る。

当時の技術水準を考えると、それはあまりに欲張りなものだった。米国政府の国防高等計画研究局を退官して現在は同国バージニア州レストンでコンサルティング活動を行っているEric Eisenstadtは、「それに伴うリスクは、普通の投資家が喜んでお金を出してくれるレベルではありませんでした」と語る。

そこでSchlossとNHGRIは一歩踏み込み、全く新しい配列解読法の基礎研究と、そうした技術を商業化するための実用開発研究に対し、資金の拠出を開始した。NHGRIの属する米国立衛生研究所(NIH)が、単一プログラムの中で応用研究と学術研究とを同時に手掛けるのは珍しいことだった。またその計画では、有望だがリスクがあると考えられる事業に対する小規模の助成を認めたため、通常のNIHの助成金プログラムよりも小回りが利いた。「NIHにとってその柔軟性は異例です」とSchlossは言う。

さらにこのプログラムでは、アプライドバイオシステムズ社と競合することが見込まれる配列解読企業に対しても支援を行った。第1回の助成金を受けた企業の1社である454ライフ・サイエンシズ社(米国コネティカット州ブランフォード、2007年よりロシュ傘下に入るも2013年10月に閉鎖が発表された)は、起業家Jonathan Rothbergの発案によるものだった。同社は、サンガー法と比較してはるかに簡単な試料調製法を利用し、固体表面上で多くの配列解読反応を同時に行うことにより、スピードと経済性に勝る方法の開発を目指した。しかし、資金をかき集めようとしたRothbergは、投資家から散々、「どうして高速でDNA配列解読がしたいのですか。ヒトゲノムプロジェクトはもう終わったのですよ、と言われ続けたのです」と振り返る。

NHGRIから700万ドル(約7億円)の助成金を得た同社は、パイロシーケンシングと呼ばれる技術の実用化に成功した。この技術は、アプライドバイオシステムズ社の独占状態にあったシーケンサー業界に初めて風穴を開けるものだった。

NHGRIによる資金拠出は、一方で、その市場に民間の投資家を呼び込むことにもつながった。パシフィックバイオサイエンス社(米国カリフォルニア州メンローパーク)の創業者で最高技術責任者のStephen Turnerによれば、同社が2005年にNHGRIから受けた助成金660万ドル(約6億6000万円)は、後続のベンチャーキャピタル資金を引き寄せるのに役立ったという。合成されるDNAをリアルタイムで観察する技術の実用化を目指していた同社は、NHGRIのお墨付きにより、必要としていた額よりもはるかに大量の資金を投資家から集めることができた。「配列解読技術の専門家が我々に好意的な評価を示してくれました。この影響がとてつもなく大きかったのです」とTurnerは話す。

通常はせいぜい数百万ドル程度、というNHGRIの投資額では、それ単独で1つの技術を実験室から市場化まで育てることはとうてい不可能であった。そこでNHGRIは、色素や回路、レーザーの改良に関する研究、あるいは構成要素の組み合わせ試験など、一部分に絞って投資することにした。

このプログラムはまた、ナノポアとナノギャップに基づく技術に対しても8800万ドル(約88億円)を投資した。この技術で市場に最も近いものとしては、ゲノムが細孔を通過するときに塩基を読み取るものがある(Nature 2008年11月6日号23~25ページ参照)。この方法は、処理中のDNAを読み取る方式のため、コストと時間を圧縮できると以前から期待が高かった。つまり、分子を大量にコピーするための高コストで時間のかかる反応を不要にするものなのだ。しかし、どうすればDNAが読み取りに十分な低速で細孔を通過できるかなど、基本的な問題を解決する必要があり、これが大きな課題となっていた。NHGRIは、パシフィックバイオサイエンス社の協力企業で現在その概念を市場に送り届けているオックスフォード・ナノポア・テクノロジーズ社(英国;Nature 2014年2月14日オンライン掲載 http://doi.org/rvm参照)に930万ドル(約9億3000万円)を提供するなど、課題克服のための研究に資金を投入した。Turnerによれば、そうした投資のおかげで配列解読コストが下がり、技術が実用化できたのだという。

1000ドルゲノム計画は極めて多くの企業と実験室を育成し、技術とともに産業そのものを定着させたと、配列解読分野の研究者たちは口をそろえる。その恩恵を受けた企業の1社であるイルミナ社(米国カリフォルニア州サンディエゴ)は現在、シーケンサー市場のトップ企業だ。短いDNA鎖の配列を大量に読み取る技術を持つ同社は、複数の企業を買収し、大勢の科学者を獲得している。それらの多くは、かつてNHGRIの支援を受けていた。同社の最高技術責任者Mostafa Ronaghiは、「企業買収と人材獲得こそ、イルミナの力の源なのです」と話す。

しかしSchlossのプログラムは資金を投下する代わりに、ライバルたちに年次進捗会議で技術交換することも求めたため、この会議は技術者たちにとって必ず出席しなければならない行事になった。「配列解読技術の開発で何が起こっているかを把握しておく上で、とても重要な場の1つです。この会議では、生まれてくる知識が惜しみなく公開されるのですから」とTurnerは言う。

コストダウンが底を打つ

科学者の間からは、そのプログラムによる選択を疑問視する声も出ている。例えばCostaは、「ナノポアの領域には多額の資金がつぎ込まれたが、ナノポアという目標は、実は的外れだ」と言う。

CostaとともにSOLiD(Sequence by Oligo Ligation and Detection ;DNA断片を結合させる酵素を用いた配列解読技術)の開発に携わったKevin McKernanは、1000ドルゲノムプログラムから資金を受けた企業の多くが最終的には失敗していることを指摘する。「おそらく、その的中率がベンチャー投資家よりもずっと高いということはないでしょう」とMcKernanは推測する。

一方、失敗に直面しながらも進歩を図るのに十分な多様さで各種の学術的・実用的研究に対して広く投資したとして、Schlossとそのプログラムを評価する声もある。NHGRIが資金を供与した企業は、前述の454ライフ・サイエンシズ社やヘリコス・バイオサイエンシズ社(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ、2012年11月破産保護申請)を含め、多くがすでに過去のものとなっているが、他の助成金受給企業がこの領域を進歩させており、消滅した企業の発想がそこで生かされていることも多い。

「NHGRIは小さな企業や学術研究グループに資金を与えて技術の供給ルートを構築しました。特定の技術を選んで資金を与えたわけではありません」とRonaghiは語る。

SchlossとNHGRIが新しい技術の実現に向けて次の策を練る中で、重要な問題が浮かび上がってきた。1000ドルゲノムプログラムが何を成し遂げたのか、明確にすることである。配列解読は、特に質の面で、まだまだ改善の余地がある。サンガー法は高コストだが、精度に関しては今なお基準となっている。そして配列解読コストは、もはや数年前ほど急速に低下してはいない。

しかし研究者たちは、別の技術が出現してイルミナ社を脅かすだろうと楽観している。この領域の重要な問題は「技術そのもの」ではなくなるだろうと考える人が、実は非常に多いのだ。現在、全患者のゲノム、あるいは少なくともそのタンパク質コード領域の検査を語るのに十分なほど配列解読コストが下がったものの、その情報を医療の改善につなげる方法はいまだにはっきりしない(Nature 2014年3月11日オンライン掲載http://doi.org/rvq参照)。そうしたより複雑な問題には、ゲノム科学の新たな大飛躍が必要だ。ムーアの法則は簡単に打ち破れる!と思わせるような大飛躍である。

翻訳:小林盛方

Nature ダイジェスト Vol. 11 No. 6

DOI: 10.1038/ndigest.2014.140611

原文

The $1,000 genome
  • Nature (2014-03-20) | DOI: 10.1038/507294a
  • Erika Check Hayden
  • Erika Check Haydenは米国カリフォルニア州サンフランシスコから Nature に寄稿している。