News

研究者の楽園スイスに垂れ込める暗雲

世界最高レベルの研究施設、豊富な研究助成金、雄大な山岳地帯と極上のチョコレートに恵まれた人口800万人の小国スイスは、長い間、科学者にとって楽園だった。しかし、2014年2月9日に右派政党の主導によって実施された「大量の移民」の規制をめぐる国民投票で過半数が規制に賛成したことで、スイスとEUの密接な関係が危機に瀕している。

スイス政府の政策立案者はすでに新しい移民制度の策定に着手している。国民投票の拘束力により、政府は3年以内に法制化しなければならないからだ。外国人の流入を規制するための「移民の年間割当枠」が定められることになる。

この動きに対して、EU本部(ベルギー・ブリュッセル)と欧州全土で抗議の声が上がった。EU非加盟国スイスは、EUとの間で研究、教育など重要な政策分野に関する二国間協定を結んでいる。スイスは、過去10年間、EUの複数年研究プログラムの共同研究参加国であった。2014年1月には、研究プログラム「ホライゾン2020」がスタートした。スイスに拠点を置く研究者は、このプログラムにおいてEUの研究助成金を申請でき、欧州での大型研究協力を主導できる。

Credit: SWISS STATE SECRETARIAT FOR EDUCATION, RESEARCH AND INNOVATION

2007年以降、スイスを拠点とする147人の研究者が欧州研究会議(ERC)の助成金を受けており、その数は欧州諸国中で5番目に多い。EUの最も野心的な研究計画の1つ、総額10億ユーロ(約1400億円)のHuman Brain Projectは、スイス連邦工科大学(EPFL;ローザンヌ)が主導している。科学研究分野全般において、スイスはその規模からは想像できない科学論文生産数を誇る国でもある(「高い論文生産性」参照)。

実は、スイスの科学者の半数以上は外国人である。スイス政府は、EUとの間で「人の移動の自由」に関する二国間協定を結んでおり、スイス国民とEU加盟国の国民は、EU加盟国(28カ国)と関連する数カ国で居住と就労の自由が与えられていることがその背景にある。

ところがスイス政府は現在、この二国間協定に違反しているという警告を受けているのだ。

今回の国民投票結果は、研究に関する協定にも影響を与えることになる。通常なら、総額800億ユーロ(約11兆2000億円)のホライゾン2020において、スイスの地位に関する合意は容易に得られると考えられ、またスイスは、このプログラムに対して35億ユーロ(約4900億円)以上の資金拠出を約束していた。しかし、国民投票の結果を受け、2月12日に予定されていた欧州委員会(EUの政策執行機関)とスイスの交渉担当者との協議が中止され、スイスのホライゾン2020への参加が危ぶまれている。

こうした状況下で、スイスで活躍する研究者は大きな懸念を抱いている。EPFLのスポークスマンJérôme Grosseは、「ショックを受けています。有権者は、この国民投票がスイスとEUの関係だけでなく、スイスでの研究とイノベーションにも悲惨な結果をもたらすことに考えが至らなかったのです」と話す。

2月9日の週に、欧州委員会は、ホライゾン2020に関する協議の再開前に、EUの新規加盟国であるクロアチアの国民が欧州内を自由に移動できることにスイスが合意するという見通しを示したが、2月16日、スイス司法相Simonetta Sommarugaが、クロアチア国民に対しスイス国内でこの権利を付与しないことを、クロアチアと欧州委員会に通告した。これを受け、欧州委員会は、スイスとのホライゾン2020に関する交渉を停止した。

スイスがホライゾン2020でのこれまでの地位を拒否されることになったとしても、スイスで活動する研究者は、米国などの科学者と同じようにプロジェクト単位でホライゾン2020に参加可能だ。ただし、スイスの主催研究機関で研究を行う際に、ホライゾン2020において交付されるERCの助成金を使うことはできなくなる。それに加え、EUの助成に基づいた研究コンソーシアムを主導することもできなくなる。欧州委員会研究・イノベーション・科学担当委員Máire Geoghegan-QuinnのスポークスマンNicholas Antonovicsは、Human Brain Projectに対する影響について現時点ではコメントできないと話す。

科学に対する悪影響を防ぐためには「トップレベルの外交努力」が必要と話すのは、スイスの教育研究イノベーション国家事務局のBruno Moor国際協力部長だ。「欧州がスイスを必要としているのと同様に、スイスも欧州を必要としています。私たちは、この危機の連鎖から抜け出すために全力を尽くす責任を負っています」とMoorは言う。

一方、EUの研究プログラムにおけるスイスの地位を維持できない場合は厄介なことになると、スイスの主たる研究助成機関であるスイス国立科学財団(SNSF;ベルン)の会長Daniel Höchliは指摘する。SNSFをはじめとするスイス芸術科学アカデミー、各大学の学長、スイスの高等教育機関の長は、移民に対する規制に明確に反対している。

「3年の猶予期間中は、スイスの科学者が、ホライゾン2020に参加する完全な資格を保持することが理想的です。その間に、共同研究を行うための新たな方法についての交渉を行うことで、二国間協定が破棄される事態に備えることができると思います」とHöchliは話す。

能力の高い研究者を世界各国からスイスの研究機関に集めることが難しくなる恐れもあると、スイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETH)に所属するドイツ人社会学者Dirk Helbingは警告する。彼は、「外国人が心から歓迎されていない国で研究生活を送ることに、二の足を踏むのではないでしょうか」と語る。

翻訳:菊川要

Nature ダイジェスト Vol. 11 No. 5

DOI: 10.1038/ndigest.2014.140509

原文

EU-Swiss research on shaky ground
  • Nature (2014-02-20) | DOI: 10.1038/506277a
  • Quirin Schiermeier