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様変わりする世界の霊長類研究

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ブレーメン大学(ドイツ)の神経科学者Andreas Kreiterが、第二子を出産した妻とともに病院から帰ってきたときのことである。彼の妻が、自宅に届いていた一通の封書を開けて読んだところ、そこには「3歳になる長男を殺害する」と書かれていた。それは、Kreiterの人生において、最も血の気の引く出来事であった。

マカク属のサルを使って脳の研究を行っているKreiterは、16年もの間、動物保護活動家から激しい非難を浴び続けている。動物保護活動家の抗議活動の中には時に暴力的なものもあった。けれども彼は、サルを使った研究をやめなかった。抗議活動がピークに達した1990年代後半にも、警察の保護下で暮らしながら研究を続けた。「私は、熟慮を重ねた上で、研究に霊長類を使うことを決意したのです。ヒトの脳を理解するためには、霊長類を使った研究が絶対に必要なのです」とKreiterは語る。

彼はその後、なじみのない敵が自分の前に立ちはだかっていることに気付いた。霊長類研究を制限しようとする地元当局である。2008年に、Kreiterがマカク属サルの研究への使用許可を更新しようとブレーメン市に申請したところ、市の役人がそれを却下したのだ。以来ずっと、彼の研究は法的に棚上げ状態にある。

動物実験をめぐって法廷闘争を繰り広げているのは彼だけではない。研究にヒト以外の霊長類を用いることは、2010年のEU指令によって正式に認められている。それなのに、欧州の一部の地域で一貫性のない規制法が制定されて、EU指令の精神が歪められているのだ。研究者の中には、EU指令のおかげでようやく安心して研究できるようになったと言う者もいる。けれども、動物保護活動家は戦略を変えて活動を継続している。研究者に嫌がらせをするのをやめて、地方の政策立案者に圧力をかけるようになったのだ。それによって、新たな障害に直面するようになった研究者もいる。

基礎研究から医療への橋渡し(トランスレーショナル研究)の際には、霊長類を使った実験的治療法の試験が必要になることが多い。EUは、こうしたトランスレーショナル研究を推進しようとしているが、霊長類を使った研究をめぐる問題はいまだに解決されていない。近年、技術の飛躍的進歩に伴い、トランスレーショナル研究の必要性は高まっているが、霊長類を使った実験が制限されることで、新しい医療技術の開発に支障をきたす恐れがある。

けれども、こうした流れを受けて、一部の研究者は戦略を変え始めている。研究に霊長類を使っている欧州の研究者は、自身の研究について口を閉ざすのが一般的だったが、研究内容をオープンに語るようになってきているのだ。しかし、サルを使う研究を完全にやめてしまった研究者や、事態が泥沼化している欧州を嫌い、共同研究という形で欧州の外、特にアジアの研究機関に研究拠点を移す研究者もいる。後述するように、後者についてはさまざまな問題が指摘されている。

ロンドン大学ユニバーシティカレッジ(英国)のRoger Lemonは、「私たち霊長類研究者は、常に圧力を感じているべきです。私たちが扱っている動物は、それだけ貴重で、傷つきやすいのですから」と言う。彼は、脳が手の細かい運動を制御する仕組みを研究しており、この研究が脳卒中後の機能回復を促す治療につながることを期待している。「欧州で動物福祉が重視されるにつれ、重要な研究が欧州の外へ、すなわち動物福祉をあまり重視しない国々に出て行ってしまうのです。悲しい皮肉です」とLemon。

研究環境の安定化のためのEU指令

霊長類研究者への圧力には、さまざまな形がある。例えば米国では、民間航空会社が国内線での霊長類の輸送を事実上停止したため、研究者は霊長類を輸送することが困難になった。欧州では、エールフランスは現在も霊長類の輸送を取り扱っているものの、多くの航空会社が輸送中止措置をとっている。

欧州委員会は、動物福祉を重視しつつ創薬研究を推進するために新指令を制定したが、欧州の一部の地域では一貫性のない規制法が制定されている。

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つい最近、EUは霊長類研究環境の安定化に向けて前進したかのようにみえた。2010年9月、10年以上にわたる公開討論を経て、EUは研究目的での実験動物の使用に関する指令を制定した。このEU指令は、動物の福祉と研究の必要性とのバランスを慎重にとることにより、霊長類研究をめぐる緊張を緩和するように思われた。例えば、全ての動物につき最低限の福祉要件を確立し、苦痛の強度を定義し、さらには大型類人猿を使う研究のほとんどを禁止した。その一方で、他の動物では実施できない研究に限り、ヒト以外の霊長類を用いた基礎研究を許可することも明記された。この条項は、生物医学コミュニティーによる必死のロビー活動の末に、土壇場になって付記されたものである。

EUは加盟国に対し、この指令を2013年1月1日までに国内法に組み込むことを要請した。さらに、国内法をEU指令よりも厳格にして動物実験の規制を強化することは禁じた。

それにもかかわらず、動物保護活動家は戦いを続けた。彼らは、効果的な活動によりマスコミの注目を集め、数カ国でEU指令の法制化を遅らせた。オランダとベルギーで活動する反動物実験連合(Coalition Against Animal Experiments;ADC)の活動マネジャーであるRobert Molenaarによると、動物保護団体は、現在、科学者ではなく政策立案者に焦点を絞って活動しているという。マスコミに取り上げられやすく、政治家に影響を及ぼしやすいという理由から、ADCは最初のターゲットに大学でのサルを使った研究を選んだ。

ADCは国際的な協力関係も築き上げようとしており、英国に拠点を置く姉妹団体の反生体解剖連合(Anti Vivisection Coalition;AVC)と緊密に連携している。AVCを率いるLuke Steeleは、医薬品開発業務受託会社であるハーラン研究所(英国ブラックソーン)のスタッフに対する嫌がらせ行為により、2012年に禁錮刑を言い渡された。9カ月の獄中生活はなかなか面白かったと語る彼は、その時間を利用して戦略を練り直したのだという。「研究者は、研究には革新を求めますが、自分自身は伝統主義的で、変化を嫌います。研究者の行動を変えるためには、彼らの思想を変えることより、政策立案者に圧力をかけて研究者を取り締まる法律を変えることの方が効果的であることに、私は気付きました」。

AVCとADCは、動物研究に関するEU指令の廃止と動物を使った研究の全面的な禁止を求める「ストップ生体解剖イニシアチブ(Stop Vivisection Initiative)」を牽引している。その嘆願書には、2012年11月のスタートから1年もしないうちに、欧州委員会に対して立法提案するのに必要な100万人以上の署名がEU全土から集まった。現在は、署名の確認作業が行われており、順調に進めば、2014年の早い時期に欧州委員会と欧州議会による聴聞会が開催されることになる。

2010年のEU指令の制定時に欧州委員会の顧問を務めたドイツ霊長類センター(ゲッチンゲン)所長のStefan Treueは、「聴聞会は、論争を再燃させるでしょう。欧州委員会、科学者、動物保護団体の三者が妥協点を見いだすために必要な労力の大きさを考えると、できれば避けたいところですが」と言う。

Treueは、「ストップ生体解剖イニシアチブ」の活動が欧州の法律を変えることはないだろうと考えている。新しい治療法の開発を求める政治的な声は非常に強いからだ。けれども彼は、サルを研究に使っている研究者は「沈黙を守る」という従来の戦術を捨てるべきであると言い、同僚の多くも彼と同じ考えであるという。研究者の沈黙は、主張を声高に叫ぶ動物保護活動家を有利にするだけであるというのだ。EU指令が採択された2カ月後、Treueは、動物実験を行う科学者によるバーゼル宣言の準備に協力した(Nature 2010年12月9日号、742ページ参照)。バーゼル宣言に署名した科学者は現時点で2500人を超えており、自身が行う動物実験についてオープンに語り、市民との対話に努めることを誓った。

バーゼル宣言は大きな変化を引き起こし、多数のイニシアチブが設立された。例えば、2013年にスイス霊長類研究開発センター(SPCCR)が設立され、霊長類を使った研究を実施しようとする科学者や技術者に訓練を行ったり、フリブール市民に教育用資料を提供したりしている。

科学者個人も、自分のウェブサイトではっきりと意見を述べるようになってきている。サルを使って研究を行っているオランダ神経科学研究所(アムステルダム)の神経科学者Pieter Roelfsemaは、同研究所の研究者が活動家に狙われたことはまだないと言うが、近いうちにこの状況が変わってしまう恐れがあると懸念している。2013年の春、オランダ動物党をはじめとするオランダ議会の少数野党が、サルを使った研究は本当に必要なのか、別の方法で研究することはできないのか、サルを使った研究を行う政府出資研究機関の数を減らすことはできないのか、などの質問を正式に行ったのだ。

こうした現状に鑑み、Roelfsemaは、マックス・プランク生物サイバーネティックス研究所(ドイツ・チュービンゲン)の所長Nikos Logothetisのウェブサイトを参考にして、霊長類研究の価値に関する広報ウェブページを作成しようと計画している。毎週数千人が訪れるLogothetisのウェブサイトは、広報戦略の失敗から誕生した。2009年、彼は、国営テレビ放送局の調査ジャーナリストからなるチームを研究室に招いた。彼は、調査チームがサル収容施設のぜいたくな仕様に感心し、そこで動物たちがリラックスし満ち足りた様子であることに目を見張るだろう、と期待していた。けれどもジャーナリストが描き出したのは、苦しむ動物たちに囲まれてご満悦な、少々イカれた科学者の姿だった。この経験は、「エスカレートする反生体解剖活動家の不条理な行動に対して、科学研究機関がしっかり反応する必要があることを、私に痛感させたのです」とLogothetisは言う。

とはいえ、Kreiterを苦しめているブレーメン市とは違い、Logothetisのチュービンゲン市の政治環境は研究者に対して協力的だ。チュービンゲンの市長は「緑の党」の党員で、緑の党が動物実験を支持している様子はないが、この市長でさえ、活動家が配布したビラは事実に反していると公然と批判し、Logothetisが受けたひどい仕打ちを「容認することはできない」と述べている。

「つまり、欧州各地において、サルを使った研究のやりやすさを左右するのは地方政治なのです」とTreueは言う。なお、彼が所長を務めるドイツ霊長類センターは、ゲッチンゲン市の政治的支援による恩恵を受けている。Treueのような環境にいる科学者にとっては、EU指令は安定感をもたらしたといえる。

締めつけが強まったイタリア

一方、イタリアでは、そのような安心感はない。2012年には、ブレシア近郊のビーグル犬繁殖施設が活動家によって攻撃される事件が発生し、施設はその後閉鎖された。2013年には、ミラノ大学での実験が活動家による妨害を受けた。同大学は2014年1月にも、一部の研究者の顔写真と住所・電話番号が掲載されたビラが、彼らの自宅近隣の家に投函される事件が起こった。

2012年には、一部のポピュリスト政治家(大衆受けを基調とする政治家)が、動物保護活動家の主張を採り入れて動物の福祉向上を訴え、イタリアでのEU指令の法制化に影響を及ぼした。提出された法案はEU指令を上回る規制を課すもので、異種間臓器移植の禁止と依存症研究への動物の使用禁止を要請するものだった。

イタリアの科学者たちがこの脅威に気付き、彼らが動物を使う研究の擁護を求める嘆願書への署名運動を始めたときには(嘆願書には数週間で1万3000人の署名が集まった)、すでに議会はEU指令よりも明らかに厳しい法案の成立に向けて動き出していた。そしてこの法案は、2013年12月に議会を通過した。

研究にサルを使っている科学者は、イタリアの国内法では、ヒト以外の霊長類の研究を許可するEU指令の条項についての解釈が曖昧なことも心配している。ローマ・ラ・サピエンツァ大学の神経生理学者で、欧州神経科学会連盟実験動物委員会の委員長を務めるRoberto Caminitiは、「基礎研究が許可されているかどうか、全く分からないのです」と懸念する。

イタリアの規制法が成立すれば、ヒト以外の霊長類、ネコ、イヌを用いる全ての研究計画につき、高等保健協議会(Consiglio Superiore di Sanita)による許可が必要になる。その要請は広範にわたり、薬物使用の許可や臨床試験計画書の承認も含まれる。地元の倫理委員会からの認可に加えて、こうした追加的な取り締まりが行われたら、さまざまなプロセスは進まなくなり、不安定になるだろう、とCaminitiは指摘する。

この規制法は3月に成立する見込みだ。Caminitiらは、そのタイミングでEU司法裁判所に提訴しようと計画している。「EU指令を上回る規制は禁じられているのですから、私たちは必ず勝つはずです」と彼は言い、規制法成立までの間、霊長類を使っているイタリアの研究室は皆、自分たちの研究は人類の健康増進に役立つものなのだ、と主張するべきだと考えている。

ベルギー政府も、イタリアと同じようにEU指令よりも厳格な法律を制定しようと急いでいる。この法案も、霊長類を依存症研究に使用することを禁止し、ヒト以外の霊長類を使う研究プロジェクトは、地元の倫理委員会から認可を受けたものであっても、国の委員会からの認可も必要としている。特定のプロジェクトにゴーサインを出すかどうかを最終的に決定するのは保健大臣になると予想され、最終的な決定が、科学や倫理ではなく政治に基づいてなされる懸念が生じている。

EU非加盟国のスイスの場合、EU指令には縛られないが、ここでも霊長類を使った研究は政治判断の影響を受けている。2000年にスイス憲法が改正されて、動物の尊厳の保護が明記された結果、裁判所は、トランスレーショナル研究にサルを使うことを制限するようになったのだ。

フリブールの研究者は霊長類の脊髄損傷修復の研究を続けることができたが、チューリヒ当局は2004年以降、基礎研究における霊長類の使用許可を更新していない。神経情報学研究所(チューリヒ)の所長Kevan Martinは、マカク属サルの脳における機能的微小神経回路のマッピングを進めていたが、2006年にチューリヒ当局による許可が切れてしまったため、研究を中止せざるを得なくなった。Martinは、彼の研究が短期間で社会に実用的な恩恵をもたらしそうにないという理由で許可の更新が却下されたと分かったとき、大きなショックを受けたという。だが、その後のスイス最高裁判所への上訴が棄却されたときの方がショックが大きかったと話す。「基礎研究なくして応用研究などできるのでしょうか」と彼は問い掛ける。

海外脱出の動き

この流れを受けて、スイスの科学者の一部は、霊長類を使った実験を行うために外国の研究機関との共同研究に頼るようになってきている。フリードリヒ・ミーシャー生物医学研究所(バーゼル)のBotond Roskaとその同僚は、失明の一般的な原因である網膜色素変性症の実験的治療法を開発しようと、マウスを使って研究を進めてきた。この治療法のヒトでの臨床試験の準備はすでに整い、Roskaが共同設立者に名前を連ねる小さな生物医学会社GenSight Biologics社(フランス・パリ)でそれを行う予定である。「けれども、マウスからヒトへと一足飛びに進むことはできません。神経回路が同じであるかどうか分からないからです。ヒトがものを見る仕組みを調べるには、マウスは良いモデル動物とは言えないのです」とRoskaは言う。

スイスで迷っていても埒が明かないため、Roskaとその共同研究者(GenSight社とパリ視覚研究所)は、動物保護活動家があまり政治的支持を得ていないフランスで、霊長類を使った研究を行っている。Roskaは、1年以内に患者への最初の臨床試験を実施したいと考えている。

一方、スウェーデンのカロリンスカ研究所(ストックホルム)でも、Per-Olof Berggrenの研究がトランスレーショナル研究の段階に来ている。糖尿病マウスの実験的治療法を開発した彼は、現在、ヒトでの臨床試験に進む前に、霊長類を使った試験を行う必要に迫られている。彼はスウェーデン国内でこの研究の許可を受けたいと考えていたが、彼には許可を受けるのに必要なだけの資金がなかった。動物保護団体が非常に強い力を持つスウェーデンでは、規制が厳しく、霊長類を使って実験を行うには、大規模で高度に洗練された(従って高価な)研究施設が必要なのだ。そこでBerggrenは、シンガポールで研究を行うことにした。彼によると、シンガポールの施設は一流で、倫理基準も欧州並みに高いという。「シンガポールは伝統的に霊長類研究が盛んなので、べらぼうな費用を投じなくても研究ができるのです」。

Berggrenと同じ決断をする研究者は少なくない。欧州の研究者の多くが霊長類研究の拠点をアジアに移しており、そのことが科学コミュニティーを二分する論争を引き起こしている。反対する科学者の中には、アジアの一部の国々では研究倫理の監視体制が十分に整備されておらず、動物福祉への配慮が不足していると心配する者もいる。そしてMartinが指摘するように、欧州で霊長類を使った研究を行うグループの数が減るにつれ、すでに目に付き始めている技術の喪失がさらに進むことも懸念されている(欧州委員会によると、EU内で科学研究に利用されている霊長類の数は、2008年から2011年までの間に25%以上も減少したという)。「失われた技術を取り戻すことは、どんどん困難になるでしょう。すでに、霊長類の麻酔専門医と外科医を見つけることが難しくなっています」と彼は説明する。

最近、中国の代表的な研究機関に2週間滞在したという欧州のある科学者によれば、そこでは大勢の欧州の科学者が共同研究を行っていたという。けれどもそうした研究者らは、中国での共同研究について公衆の前で語りたがらない。自分が所属する研究機関の評判を傷つけることを恐れているからだ。

その科学者によれば、中国における研究倫理の監視体制に対する不安は見当外れのものであり、中国の研究機関の倫理基準はドイツや米国の基準と同等であると主張する。「私たちが中国で研究を行う理由は、倫理基準が緩やかだからということではなく、研究姿勢が前向きなことにあるのです。欧州では何をしようとしても『駄目』と言われますが、中国には活気と楽観的な雰囲気があるのです」。

ブレーメンでは、Kreiterが、裁判所から「研究を許可する」という言葉を聞けることを願って待ち続けている。彼は、大学から物心両面の支援を受け、5年以上にわたって法廷で地元当局と戦ってきた。彼は今、ライプチヒ高等裁判所の判決を待っている。「これが最後になるかもしれません。けれども、次に何が起こるかは誰にも分かりません」とKreiterは話す。

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 11 No. 5

DOI: 10.1038/ndigest.2014.140514

原文

The changing face of primate research
  • Nature (2014-02-06) | DOI: 10.1038/506024a
  • Alison Abbott
  • Alison Abbott は Nature の欧州上級通信員。