「自然に存在するヒト遺伝子に特許は認められない」と米最高裁判決!
米国カリフォルニア州アリソビエホにある医療診断機器メーカーAmbry Genetics社の最高医務責任者である遺伝学研究者Elizabeth Chaoが出社すると、職場は祝賀会場と化していた。米国最高裁が2013年6月13日に下した判決で、30年来の慣行を覆し、ヒトの遺伝子に対する特許は無効との判断が示されたからだ。彼女はこの判決を長い間望んでいた。「患者側の大勝利です。皆、涙を流したり飛び跳ねたりしながら歓喜の声を上げていました」とChaoは話す。
一方、米国ワシントンD.C.にある法律事務所に所属する特許専門の弁護士William Simmonsは、Chaoとは対照的な1日を過ごした。彼は、動揺する米国バイオテクノロジー業界の顧客からの電話応対に追われた。今回の最高裁判決はヒトDNAに限定されたものではあるが、この判例が今後、タンパク質のような他の分子や他の生物、例えば、農業分野で重要な植物にも適用される可能性は非常に高い。「厄介なことになりました。どうすればいいのかと大勢の顧客から問い合わせが来ています」とSimmonsは話す。
この最高裁判決は、遺伝子検査会社のMyriad Genetics社(米国ユタ州ソルトレークシティー、以下ミリアド社)が保有する2種類のがん関連遺伝子(BRCA1とBRCA2)の特許の有効性をめぐる長期間の感情的な訴訟に、終止符を打つものだった。判決の第1のポイントは、「自然に存在する遺伝子は特許の対象にならない」という明確なもので、これによって遺伝子検査市場は拡大の方向に進むと考えられる(「それぞれの権利主張を行うライバル企業」参照)。
ところが、判決の第2のポイントとして、人工的に修飾された(modified)DNAの特許性が認められた。その結果、第1のポイントとの間にグレーな領域が生まれ、混乱が生じている。
ミリアド社をはじめとする遺伝子特許の所有者は、ゲノムからDNA断片を単離するには遺伝子とその周囲の遺伝物質との化学結合を切断する必要があるため、単離DNAは「人工的に修飾された化学物質」に当たり特許要件を十分に満たす、と長い間主張してきた。しかし最高裁の裁判官は、この主張に同意しなかった。同じ見解の科学者も多い。
とはいえ、特許専門弁護士は特許権を取得しなければならず、現在、どれだけの人工的修飾ならば特許要件として「十分」なのか、判断できずに頭を抱えている。「特許の正当化に必要な人工的な化学修飾の程度に関して、裁判官と科学者が奇妙な可変抵抗器を作り上げてしまったのです」とSimmonsは言う。
こうした混乱の一因は、最高裁の裁判官による「合成DNA」という用語の定義の仕方にある。最高裁は、発明者によって修飾されたDNAという意味で「合成DNA」という用語を使っているようであり、今回の判決では、相補的DNA(cDNA)に対して、特許による保護を明示的に与えた。cDNAは人工的に修飾されたDNAの一形態であり、RNAの鋳型からDNAを合成する酵素を使って実験室で作成される。cDNAの特許は、自然に存在する遺伝子の特許よりも商業的価値が高いと考えられている。その理由の1つは、cDNAが、自然状態の遺伝子よりも短く、実験室で扱いやすいという傾向を持つからだ。もし鋳型RNA中に興味深い変異が含まれていれば、そのcDNAを診断検査に使うことができ、実際そうした事例は多い。しかし、少なくとも既知の遺伝子については、cDNAに特許が付与される事例はほとんどなくなった。cDNAの作成は一般的に行われているため、非自明性の要件からほど遠く(要するに月並みであり)、特許権という強固な保護は与えられないと考えられるからだ。
一方、合成DNAという表現については、「何もない状態から始めて、DNAの個々の塩基を特定の配列に組み立てて作ったものであり、機械を用いて行われることが多い」という定義を用いる科学者が増えている。この種の合成DNAで、自然発生した配列をそっくり模倣したものに特許が認められうるかどうか、今回の最高裁判決では判断が示されていない。
米国マサチューセッツ州ボストンにある法律事務所Wolf Greenfieldに所属する弁護士Patrick Wallerによれば、今回の最高裁判決を受けて、ゲノムに特定の配列が含まれているかどうかを調べる場合や特定のDNA領域を複製する場合に用いられる短い合成DNA配列に対する特許も、認められなくなるおそれが生じているという。
これらの論点に対する判断は下級裁判所と特許審査官に委ねられており、そこで今回の最高裁判決の意見を解釈しなければならない。最高裁判決が下された直後、米国特許商標庁(米国バージニア州アレクサンドリア)の副長官Andrew Hirshfeldは、今後、上述した短い合成DNA配列には特許を与えないことを示唆するメモを発した。このメモは、特許商標庁が今回の最高裁判決を取り入れた政策改定を行うまでの暫定的指針として発せられたものだが、これは特許商標庁がミリアド判決を厳格に解釈する兆候だ、とトーマス・M・クーリー法科大学院(米国ミシガン州ランシング)の教授で知的財産法を専門とするDavid Berryは話す。「企業は、自らの発明に対する権利を主張するための新たな方法を考え出さなければならないのです」。
バイオテクノロジー関連企業はすでに、特許取得のための対応策をこれまでとは変えている可能性がある。Simmonsは現在、特定の発明は、特許という形より一般公開されない企業秘密として保護するよう、顧客に助言している。また、特許出願を考えている顧客に対しては、ミリアド判決が出たため、DNAまたはタンパク質に数多くの人工的な修飾を導入するか、自然に存在するものとはできるだけ異なったものとするよう指示するかもしれないとSimmonsは言う。「特許を得るために、どれだけの人為的改変が必要なのか、指針がありません。正気の沙汰とは思えません」。
遺伝子検査 それぞれの権利主張を行うライバル企業
ミリアド社のこの乳がん遺伝子検査に関する特許の請求項は、500以上ある。このことが投資家に安心感を与え、今回の米国最高裁判決が同社の特許の一部を認めないという内容だったにもかかわらず、同社の株価は急騰した(右グラフ参照)。
しかし、その後、Ambry Genetics社(米国カリフォルニア州アリソビエホ)、Quest Diagnostics社(米国ニュージャージー州マディソン)などの企業が、独自の検査法の発売計画を発表すると、ミリアド社の株価は下落した。同社の検査法のコストは4000ドル(約40万円)であるのに対して、ライバル企業のものはその半額になりうるからだ。
それに対して、弁護士の見解は分かれている。こうしたライバル企業は、ミリアド社から特許権侵害訴訟を起こされる危険を冒していると考える者や、今回の最高裁判決によって特許権の範囲が狭まったことで、ミリアド社の特許を侵害することなく遺伝子検査法を設計できるようになると考える者もいる。仮に訴訟に発展しても、決着には長い年数を要する可能性があり、その頃にはミリアド社の特許が失効してしまうことも考えられる。
H.L.
翻訳:菊川要
Nature ダイジェスト Vol. 10 No. 9
DOI: 10.1038/ndigest.2013.130907