Editorial

国境なき科学の行き着く先

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ビル・ボーンという米国のジャーナリストは、かつてこう言った。「世界のさまざまな国々は、時々、互いに歴史書を交換して、他国の人々が同じ一連の事実をどのように利用しているのか、調べてみるとよい」。

歴史が勝者によって書かれた物語であることは広く知られており、各国内で完結する傾向は強い。しかし、科学はそうではない、あるいは、そうではないと信じたいと研究者は思っている。科学は国際的に共通のプロセスであり、事実は共有され、相違点はきちんと表に出されて議論され、調整される。また、科学者は、他の科学者の活動を十分に理解・把握している。でも、本当にそうなのだろうか。

そうである場合とそうでない場合がある。Nature 2013年5月30日号557ページのComment記事の著者は、トムソン・ロイターという研究評価機関に所属していた経験を活かし、実に約2500万編の研究論文を分析して、21世紀の研究においては国際共同研究の果たす役割がますます大きくなっていることを明らかにした。例えば、過去30年間の米国と西欧での科学論文生産数の伸びた部分は、すべて国際共同研究によるものであることが判明した。これらの地域では、実は、単一国だけの著者による論文の掲載件数は、横ばい状態なのである。

英国政府は2011年の報告書で、「英国は、世界の全研究開発費のわずか4%を支出するだけで、世界で被引用数の非常に多い論文の14%を生産した」と主張した。しかし、そう言えるのは、まさに国際的なつながりがあったからであり、影響力の大きな論文の大部分には、外国の科学者の寄与があった。実際、2010年には、海外からの支援によって生産された「英国製」の論文の数が、純粋に英国だけで作成された論文の数を初めて上回ったのである。

米国立科学財団によれば、2か国以上の共著者による国際的な研究論文は、1990年には10%しかなかったが、2010年には25%近くまで増えている。また、論文当たりの平均著者数は、現在は4.5人だが、1980年と比較すれば倍増している。

Natureは、科学の国際的展開を歓迎しているが、その一方で、国際化がさまざまな境界で摩擦を起こす可能性を指摘してきた。今なお国の威信や威光は重要なものと考えられており、現実に、科学に対する資金提供や管理も、ほとんどが国単位で行われているからだ。

Nature 2012年10月18日号の科学の国際化に関する特集号では、こう記されていた(309~310ページ)。「人の流動性は無限に拡大するわけではなく、どれだけ多くの研究者がどれほどの期間移動するかは、人間関係、家族、生活の質などの制約条件が左右する」。また、特に国内の科学基盤を整備し始めたばかりの国では、国際共同研究によって自国の優先課題よりも他国の関心事を優先させてしまう危険性が生まれる点も指摘した。

開発途上の大国の一部では、科学基盤の整備が順調に進んでいる。今回のComment記事でも指摘されているとおり、中国、ブラジル、韓国での科学の成長は、ほとんど国内の研究活動が原動力となっており、研究の質も徐々に高まってきている。中国の場合、10%強の国内研究による論文の被引用数が、世界平均の2倍を超えている。これは、研究に関する国際的力学の変化を意味しており、「旧来の国々は、最高レベルの外国人研究者の来訪をあてにできなくなった」と著者のJonathan Adamsは指摘する。

この新しい世界には、あふれんばかりのチャンスがある一方で、脅威も存在している。Adamsはそのいくつかを挙げている。さまざまな国の最高レベルの研究機関による共同研究が、国際共同研究の大部分を占める傾向がすでに見られる。その結果、他の研究機関がこうした国際競争に加われないことがある。

また、国際研究と国内研究の分離・断絶が大きくなっており、このことは、各国が国際的知識基盤を利用する能力にも影響を与え、その結果として、国内の科学的資産の毀損につながる恐れがある。

したがって、科学の共有は国家間でも必要だが、それ以上に、国内でも必要となっているといえるのだ。

翻訳:菊川要

Nature ダイジェスト Vol. 10 No. 8

DOI: 10.1038/ndigest.2013.130832

原文

Without borders
  • Nature (2013-05-30) | DOI: 10.1038/497536a