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獣医療の世界で幹細胞療法が大ブーム!

痛めた腱の治癒を促進させるため、ウマに幹細胞を注入しているところ。

Credit: JESSICA CROSS/CORNELL UNIV.

米国では、治療効果の実証されていない幹細胞療法を患者が希望しても、行政上の規制に阻まれることが少なくない。しかし、米国ヴァージニア州ロベッツビルのVintage ‘Vinty’ Markが、痛めた足の腱を治療するために幹細胞療法を受けたときには、規制上の困難はまるでなかった。なぜならVintyは、競走馬だったからだ。足は劇的に回復し、Vintyは調教用の馬場に戻った。

しかし、米国食品医薬品局(FDA)が新しい指針を出せば、獣医療での幹細胞使用はじきに規制される可能性がある。米国ではこの10年で獣医療の幹細胞療法が大きく進んできたが、大半の療法は効果が実証されていないものだ。FDAは年内に幹細胞療法の指針の草案を公表する予定だが、多くの研究者や獣医師は、この指針が「先延ばしにされすぎている」と言っている。しかし一方で、FDAの介入は、動物とその飼い主に恩恵をもたらすような研究を妨げてしまうのではないかと心配する関係者もいる。

獣医療の幹細胞療法は、明確な法的規制がない中で急激に広まってきた。米国カリフォルニア州ポーウェイに本社を置くVet-Stem社は、2004年に最初の患者となる動物を治療して以来、5000頭以上のウマ、4300匹のイヌ、120匹のネコに幹細胞療法を施してきた。MediVet America社(ケンタッキー州ニコラスビル)の販売する幹細胞療法キットは、2010年以降、1万頭を超えるウマに用いられている。大学の獣医学部も独立に、もしくはスピンオフ会社を介して、数千匹以上の動物にそうしたサービスを提供してきた。獣医師たちは動物の組織標本を研究施設に送り、そこで細胞を抽出してもらっていたが、最近はしだいに、医院内で幹細胞を抽出できるキット類を使うようになってきている。

幹細胞療法の対象はほとんどがウマやイヌ、ネコだが、ベンガルトラの腰椎骨折やブタの関節炎への使用も試みられている。また、バンドウイルカの脂肪に含まれる幹細胞も見つかっており、ヒトの肝臓病や2型糖尿病に相当する海洋哺乳類の疾患を治療するのに役立つのではないかと期待が持たれている。「現在、大きな動物病院で幹細胞療法を行っていないところはありません」と、レキシントン・ウマ外科&スポーツ医学診療所(米国ケンタッキー州)の獣医師Wesley Sutterは話す。「幹細胞療法でなら何でも治せると豪語する獣医師までいるくらいです」。

獣医師の多くは要求の多い顧客を満足させるために、効果の実証されていない幹細胞療法を行っていると、カリフォルニア大学デービス校で獣医学研究をしているDori Borjessonは言う。たとえ効用を裏付ける研究がない場合でも、「獣医師は治療せざるを得ないのです」と彼女は話す。

獣医療の幹細胞療法も、大半はヒトでの幹細胞療法と同様、間葉系幹細胞(MSC)を使用する。MSCは、骨や軟骨をはじめとする多様な種類の細胞に分化することができ、抗炎症作用などの有益な作用を持つことが明らかになっている。MSCは脂肪や骨髄から抽出され、培養や調整の手順を経て濃縮した状態で患部に注入される。

FDAは、ヒトでのMSC使用に関しては明確な見解を出している。すなわち、MSCは医薬であり、したがって治療に使うには、特定の条件下でないかぎり安全で薬効があることを実証する必要がある、というものだ。これまでのところ、承認されたMSC療法はまだ1つもない。しかし、獣医療のMSC使用に対するFDAの規制はヒトの場合と異なっており、MSCに対する明確な規制はないのが現状である。つまりFDAは、獣医療での幹細胞療法をこれまで1件も承認していないが、一方でそうした療法を厳しく取り締まることもしていないのだ。これは、効果の実証されていないヒト幹細胞療法の実施者に対してFDAが見せる厳しい態度とは全く対照的である。ヒト幹細胞療法の場合、MSCを使って患者を治療したテキサス州シュガーランドのCelltex Therapeutics社などに対し、FDAは2012年9月に介入・指導している。

だからといってFDAが懸念を持っていないわけではない、と話すのは、FDAの動物用新薬評価局(ONADE;メリーランド州ロックビル)の獣医療担当者Lynne Boxerである。「どんな種類の医薬品にもリスクと利点があります。幹細胞を使うことで、病気の伝播や腫瘍形成の可能性が出てきます」とBoxerは言う。しかし彼女は、現行の幹細胞療法がFDAの規範に反するかどうかを明言することは避け、新たな指針の草案に何が含まれそうかを詳しく説明することも控えた。

「獣医療に関するFDAの指針は空虚なもので、うんざりしてしまいます」と国際法律事務所スクワイヤ・サンダース(ワシントンDC)の弁護士Karl Nobertは嘆く。彼はFDAからの指示を仰ぐ複数の企業の代理人を務めている。彼が気をもんでいるのは仕事上のことだけではない。実は彼は以前、Vintyのオーナーだったのだ。彼はVintyの治癒過程で、「信じられないような回復ぶり」をその目で見たのだという。けがをしていた場所には瘢痕組織ではなく正常な腱繊維が形成されていた。

獣医療での幹細胞療法の有効性はいくつかの適用例で裏付けられている。2007年に21匹のイヌで行われた二重盲検法による研究では、慢性の変形性関節炎がMSCによって軽減することが示された1。2010年には12頭のウマで、MSCを豊富に含む組織の注入によって、損傷した足の骨の治癒が促されたことが報告された2。また2012年の研究では、腱を損傷した競走馬に骨髄由来のMSCを使うことが腱の再損傷の回避に役立つという報告がされた3が、これは獣医療関係者の間にかなりの論争を巻き起こした。

研究者はよくわかっていることだが、獣医療で行われる幹細胞療法研究の多くには大きな弱点がある。それは、対照群や盲検法による評価がないことだ。これらの方法は、対象とする療法が本当に効果があるかどうかを明らかにするのに不可欠である。「我々の主な患者はウマなのですが、オーナーや調教師がとにかく幹細胞療法をやってくれる施設を求めて来るため、盲検法を実施することが特に難しいのです」と、2010年の軟骨に関する研究の共著者であるコーネル大学(ニューヨーク州イサカ)の獣医師Lisa Fortierは説明する。

対照群を使った試験を実施しなければ、治療群と未治療群を比較することは難しい。治療に高いお金をかけるようなオーナーは、ウマに徹底的なリハビリをさせる傾向も高い。そうしたオーナーは急いでウマをレースに復帰させる傾向も高く、そのため、報告された回復までの時間(治療の有効性の尺度になる)が歪曲されることもあるだろう。また、プラセボ効果は飼い主のほうに強く出る場合がある。「私にはひどい状態に見えるネコでも、飼い主が『この子はすごく調子がよさそう。幹細胞に感謝するわ』と喜ぶこともあるんです」とBorjessonは苦笑する。

幹細胞療法の研究を、前臨床研究すなわち動物実験でよく使われるマウスではなく、生理学的にヒトに近い大型動物で行えば、ヒト医学研究の非常に有用なモデルになるだろうと多くの獣医師が考えている。もちろん、研究が正しく行われることが前提だが。Borjessonは現在、飼い犬のドライアイや夜盲症、炎症性腸疾患を対象とする幹細胞療法の研究(可能な限り「盲険法」で)を進めているところだ。また、ヒト再生医療の研究者との共同研究も行っており、そうすることで彼女の知見をヒト再生医療の実験的治療に役立てることができる。また、コロラド州立大学(フォートコリンズ)の獣医師David Frisbieは、動物の幹細胞療法を行う中で得た教訓や情報をヒトの関節損傷の治療に応用しようと、ヒトの医師らとともに研究を進めている。

FDAが現在検討中の指針の中で、動物の幹細胞は医薬であると明確に規定した場合、幹細胞療法を展開しようと考えている獣医師や企業はまず、臨床試験を行う必要が出てくるだろう。その費用は、Frisbieの見積もりでは1回当たり少なくとも500万ドル(約5億円)に上る。一方でNobertは、獣医療用の幹細胞療法に関わる企業や大学研究者は、「創造的な規制承認戦略を組み上げて、審査・承認プロセスを効率よく円滑に進める方法を見つければよい」のだと楽観的である。そうした方法は回りまわって、ヒト幹細胞療法の規制プロセスにも影響を及ぼすことだろう。

それでも、Nobertには心配なことがある。細胞の特性解析法などについてFDAがあまりに厳しい規則を設ければ、「最終的な製品やサービスの価格が法外に高くなってしまう」可能性がある点だ。

ただ、そんなことはVintyには関係のないことだ。彼の幹細胞は抽出され、それを使って腱は治った。しかし、速く走れる状態には戻らず、レースへの復帰は叶わなかった。彼は今、子ども向けの乗馬教室で活躍している。

翻訳:船田晶子

Nature ダイジェスト Vol. 10 No. 7

DOI: 10.1038/ndigest.2013.130718

原文

Stem cells boom in vet clinics
  • Nature (2013-04-11) | DOI: 10.1038/496148a
  • David Cyranoski

参考文献

  1. Black, L. L. et al. Vet. Ther. 8, 272-284 (2007).
  2. Fortier, L. A. et al. J. Bone Joint. Surg. Am. 18, 1927-1937 (2010).
  3. Godwin, E. E., Young, N. J., Dudhia, J., Beamish, I. C. & Smith, R. K. W. Equine Vet. J. 44, 25-32 (2012).