News Feature

輝く女性科学者たち

KAY TYE:ブレイクダンスの名人

神経科学者としてテニュア取得を目指すブレイクダンサー。

BY HEIDI LEDFORD

妊娠5か月になると、我慢しなければならないものが次々と出てくる。お酒や寿司に、ダブルショットのエスプレッソコーヒーもそうだ。そして、ブレイクダンスの切れだって悪くなるが、これはやること自体あまり推奨できないものだろう。「今は自分らしい踊りがまるでできないんです」と話すKay Tyeは、ブレイクダンスのコンテストでの受賞歴を持つ神経生物学者で、現在はマサチューセッツ工科大学(MIT)ピコワー学習記憶研究所(米国ケンブリッジ)で助教を務めている。「ウィンドミル(ブレイクダンスの技の1つ)は、やらないことにしました。流産の原因になりそうなことはやらないと決めたのです。今は何をするにもこれを基準にしています」。

Kay Tye

Credit: DANA SMITH

ダンスの自粛は、31歳になるTyeが進んで受け入れた数少ない制約の1つである。彼女はこれまで、神経科学で最もホットな分野の1つである光遺伝学で業績を挙げようと努力を重ねてきた。真夜中過ぎまでの実験もいとわず、毎日4〜5時間の睡眠時間で乗り切り、大陸を横断する出張が絶え間なく入ったスケジュールもこなしてきた。しかし数週間前から、彼女はこれまでのような仕事のペースを緩めた。また、娘が生まれた後の生活についても、今以上に変わるだろうという心構えはすでにできている。「私はずっと、このための準備を重ねてきました。そして、家族持ちに優しいキャリアの道を選んだのです」。

MITでは、テニュア(大学教員の終身雇用資格)の取得率が50%前後で推移しており、いまだに教授陣の約80%が男性である。MITの助教の職は、家族持ちに特に優しいというほどではないかもしれない。だが、Tyeは理論物理学者の父と生化学者の母を持ち、母親のいた研究施設の中で育った。そこでTyeは、ピペット用チップを箱に詰めるお手伝いをして1箱当たり25セントの報酬をもらった。母親を手本としていたTyeは、10代の時にはすでに、自分の性別が昇進の壁になることに気付いていたという。「でもそれより前に、私は科学がすっかり好きになっていたんです」と彼女はにっこりしながら言った。

とはいえ、彼女は自分が科学研究に向いているという確信を持てなかった。MIT在学中にブレイクダンスを始め、卒業後にはオーストラリアへ行って畜産農家やヨガの道場に住み込んだりして、しまいにはアートコミューンのビーチテントでも生活した。彼女の目標は、その時その時を大切に過ごし、実体験に基づいた小説を書くことだった。しかし、新しいライフスタイルになっても心が満たされないことに気付いた。さらに、書いた小説の出来もあまりよくなかった。そこで彼女は帰国して、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の大学院に入った。3つの平均的な研究室を回ったが、安住の地を見いだせず、その後、彼女は神経生物学者Patricia Janakに、研究室の末席に加えてくれるよう頼んだ。「移籍 のチャンスをいただけないなら、研究を辞めるつもりです」とTyeは涙ながらに訴えた。

その結果、Tyeは研究の場を得ただけでなく、Janakという新しい指導教官も得られた。すでに2人の子を持ち、女性科学者としても成功していたJanak は、Tyeの開花を見守った。「彼女は最初、自信がないようすでしたが、それはすぐに消えました。すばらしい成果を挙げ始めたのです」とJanak。彼女の研究室に所属しているときにTyeは、合図と報酬とを関連付ける学習をしているラットでは、扁桃体という脳領域のニューロンの活動とシナプス結合の強度が高まることを発見した(扁桃体は、ヒトでは情動反応の処理と関連付けられている)。この成果は、彼女にとって初めてのNature掲載論文となった(Nature 2008年6月26日号、1253ページ)。しかしTyeは、これだけで満足しなかった。ニューロンのオン・オフを直接切り替えられるようにしたいと考えたのだ。そこで彼女は光遺伝学に目を向けた。この手法を用いれば、光を使ってマウス脳内の特定ニューロンを活性化したり抑制したりできる。

Tyeは、スタンフォード大学(米国カリフォルニア州)のKarl Deisseroth研究室で、博士研究員として過ごした2年の間に光遺伝学の手法を学び、その後ピコワー学習記憶研究所に腰を落ち着けた。動物個体は外部環境からの合図に対して正または負の情動との関連付け形成するが、彼女は光遺伝学の手法を使って、その関連付けの形成を支配する神経回路をマッピングしようと考えている。そしていずれは、積み重ねた研究成果が、不安神経症やうつ病、依存症などの精神疾患の治療法の発展に役立つことを願っている。

Credit: JOHNNY TANG

MITは、2004年に、Tyeの仕事場から通りを1つ挟んだ所に託児所をオープンし、それを看板の1つにして教職員を募集してきた。そして、ピコワー学習記憶研究所はこの5年間で、若い女性を何人も教授に就任させ、そのうちの数人は現在家庭を持っている。道を切り開いてきたのは彼女たちであることをぜひ知っておいて欲しい、とTyeは言う。

2012年にMITに戻ったTyeは、学部卒業生4人と博士研究員4人を抱え、13件の助成金申請を行い、一流学術誌への掲載論文数も増やした。そして、母親になるインパクトに備え始めた。その中には簡単に決められるものもある。例えば研究室にあるエアロバイクは、娘を連れて出勤した場合に備えて「ベビーベッドやベビーサークル」に置き換えるつもりだ。しかし、決めかねるものもある。出産予定日の1か月後に東京で開かれる会議で講演することになっているのだが、Tyeはまだ辞退できずにいる。

テニュア取得も彼女の目標リストの上位にあるままだ。「自分の人生を限定すべきではないと思います。私は娘のよい手本となりたいのです」とTyeは語った。

KEITY SOUZA SANTOS:ハチ毒の捜査人

アレルギー性のショックを研究している免疫学者が、妊娠というショックに対処する方法。

BY ANNA PETHERICK

Keity Souza Santosにとって、いつもの木曜日になるはずだった1日が、まるで違う1日になってしまった。2012年11月22日午前4時、彼女は疲れてはいたが、眠気を断ち切り起床した。彼女は数日前から、妊娠検査薬で 調べなくてはと思っていた。そしてこの日の朝、検査をもうこれ以上先延ばしにできないと思い、確かめることにしていたのだ。

Keity Souza Santos

Credit: KARINE MARAFIGO DE AMICIS

その後、サンパウロ大学医学系大学院(ブラジル)のアレルギー免疫学科の研究室に行って仕事をしたが、当時33歳のSantosは、その数時間前におめでたがわかったことを同僚の誰にも話さなかった。同僚の1人が、彼女にサンパウロ研究財団の名誉ある「若手研究者賞」が贈られることを知らせてくれたときでさえ、妊娠のことを黙っていた。受賞によって、彼女は研究室を持つことができるようになったのだが、時期を同じくして、彼女には子どもが生まれる。しかも、生まれてくる子どもは1人だけではない。お腹の中には双子がいるのだ。

Santosの研究テーマは、人命を脅かす食品アレルギーや昆虫アレルギーだ。ブラジルではこの種のアレルギーが深刻な脅威となっている。この国は生物多様性のすばらしさでよく知られており、例えばアシナガバチ類は、北半球には少ししかいないのだが、ブラジルには数百種類もいる。そのうちのPolybia paulistaというハチ種に刺されて入院する例が、ブラジルでは年に数百件もある。しかし、医師がアレルギー反応の原因を正確に特定するのに難儀する場合が多い。「患者が自分を刺したハチを病院に持参することもありますが、それでも適切に治療することはできません。そのハチの毒針の中に、どんなアレルゲン(アレルギー反応の原因物質)があるかわからないからです」とSantosは説明する。

Santosは、サンパウロ大学でのPh.D. 取得の課程で、「アフリカ化ミツバチ」もしくは「キラービー」と呼ばれるハチ(Apis mellifera L.)の針毒の抗毒素について研究した。博士研究員時代には、ブラジル北部で主食の1つになっているキャッサバ(Manihot esculenta)や数種の狩りバチの針毒に対して、アナフィラキシー反応を起こす原因となるタンパク質について研究した。その後、彼女は同僚たちと84種類もの毒タンパク質をP. paulista たった1種から単離して同定し、これらの毒タンパク質が破壊的な組織損傷を引き起こす仕組みを明らかにした(L. D. dos Santos et al. J. Proteome Res. 9, 3867–3877; 2010)。同定した毒タンパク質のうちの数種類は、これまでヘビ毒でしか見つかっていなかったものだった。彼女は現在、ほかの昆虫の毒に含まれるアナフィラキシー反応の原因タンパク質を同定しようとしている。

Santosは、研究に必要な質量分析法などの分子分析法を習得するために、米国とオーストリアの複数の研究室で何か月間かを過ごした。海外にいる間、彼女は性差別の話を何度か耳にしたが、彼女が育ったブラジルではそういうものに出合ったことはなかった。Santosによれば、彼女が(クローンヒツジのドリーの話を読んで)生物学者になりたいと言い出したとき、家族は驚いたという。しかしそれは、彼女が「女性である」という理由からではない。一族の中に科学者が1人もおらず、科学研究など別世界の話だったからだ。

Santosは現在、ほぼ自立して研究を行える立場にある。彼女の目標は、医師が患者がさらされたアレルゲンを短時間で特定してそれを解毒する方法を知るのに役立つ「キット」を作ることだ。しかし彼女はまず、この夏にやってくる「出産」というチャレンジに向けて気持ちを集中している。「私のボスはちょっと心配しています。でも、すでにPh.D.取得課程の学生1人と実験助手1人を確保しました。それにスカイプを使えば、出産休暇中でもたくさん話せますよ」と彼女は言う。

「彼女はうまくやっていけると思いますよ」と話すのは、学科主任の免疫学者Jorge Kalilだ。しかし彼は、一呼吸おいてから、「でも双子なんですよね」と付け加えた。一方のSantosには、さほどの不安はない。「研究グループに学生や共同研究者をもっと入れたいですね。出産したからといって科学者のキャリアをあきらめることなどできません」と彼女は 語った。

MÓNICA BETTENCOURT-DIAS: 細胞の技工士

細胞の複雑な仕組みを調べ、おもしろさを伝える生物学者。

BY ALISON ABBOTT

Mónica Bettencourt-Diasは、手本となる人たちに囲まれて育った。ポルトガルは、決して裕福な国とは言えないが、学術研究などの専門的な分野で女性をトップの座に据えるという点では、欧州の中でも優れた実績を残している。一部の見方によれば、こうした状況は1960〜1970年代までさかのぼることができるようだ。当時、学歴のある若い男性は戦争のためにアンゴラやモザンビークに送り込まれていたので、社会では女性が出世して活躍できる余地が生じた。その結果、研究界にも性別を問わない風潮が生まれた。それに加えて、Bettencourt-Diasは、数学者の父と社会科学者の母に支えられて育った。しかも幸運なことに、彼女が科学の道に入ったのとほぼ同じ頃、ポルトガルでは政策によって革新的な博士課程プログラムが導入され、彼女は1996年にそのプログラム課程受講者に選ばれた。「世界の一流の科学者たちが、私たちを指導してくれました。そのおかげで私は、細胞生物学と発生学の研究に従事すべきだと悟ったのです」と彼女は当時を振り返る。

Mónica Bettencourt-Dias

Credit: ROBERTO KELLER-PÉREZ

Bettencourt-Diasは、Ph.D.取得課程の一貫としてロンドン大学ユニバーシティカレッジへ行き、サンショウウオの再生能力について研究した。その後、ケンブリッジ大学(英国)で博士研究員として、細胞小器官の1つである「中心体」のマスター調節因子を発見した。中心体は、細胞内で細胞周期に関与する重要な構造や機構の一部を統制している。この因子発見の論文は、彼女にとって初のNature掲載論文となった(Nature 2004年12月23日号、980ページ)。2006年、彼女はポルトガルに戻り、グルベンキアン科学研究所(オエイラス)に自身の研究室を開設した。それ以来、欧州研究会議からの若手研究者助成金150万ユーロ(1億9500万円)をはじめとして、潤沢な研究資金を獲得し続けている。

数か月前、現在39歳のBettencourt-Diasの生活は大きく変わった。養子として1歳になる女の子が家族に加わったのだが、これは長く待ち望んでいたことであった。ポルトガルには専門の託児所が多数あり、親族も近所に住んで育児を手伝う傾向がある。また、同じく科学者である彼女の夫も、子育てに積極的に参加している。さらに夫妻は、家事をやってくれるお手伝いさんも雇っている。

Bettencourt-Diasの研究室では、今も、細胞のシグナル伝達経路と中心体による厳密なコミュニケーションや組織化という研究テーマに取り組んでいる。このテーマは彼女自身の人生にも通じるところがある。彼女によれば、上手な「組織化」は自分のキャリアにとっても必要不可欠なものだという。科学について一般市民へ伝えるための運動を展開していたBettencourt-Diasは、旧ポルトガル植民地で開催されるワークショップに定期的に参画するようになった。そして2012年、彼女はアフリカ西沖合にある島国のカーボベルデでの分子生物学ワークショップを「組織」した。同国は2008年に、政府閣僚の過半数を女性が占めるようになったのだが、これはアフリカでは初のことであった。なお、このワークショップの参加者は、男女ほぼ同数だったという。「参加者たちは私に、科学を学んで国の役に立ちたいと話してくれました。今の欧米諸国では聞けない話です」とBettencourt-Diasは振り返る。

「分かち合い」はBettencourt-Diasの人生哲学の1つであり、自分の発見について思い出すときにもその気持ちがよみがえるという。彼女がそうした瞬間を最初に体験したのは、ケンブリッジ時代のことだ。そこで彼女は、初めて受け持ったPh.D.取得課程の学生とともに、PLK4という酵素がハエの中心体の構造に重要なことを明らかにした(M. Bettencourt-Dias et al. Curr. Biol. 15, 2199–2207; 2005)。2人は一緒に、顕微鏡下で微小な中心体がいくつも形成されるようすを見つめた。「指導している学生とともにそうした瞬間を分かち合うことは、何ものにも代え難いものです」と彼女はしみじみと語った。

AMANDA WELTMAN: 前へ進む力

ダークエネルギーを探る、既成概念にとらわれない宇宙学者。

BY LINDA NORDLING

Amanda Weltmanは、ケープタウン大学(南アフリカ)の学部生時代に物理学のおもしろさを知り、そのときこう思った。「宇宙がどのように動いているかを解明するのは、人ができる仕事の中でも最高に格好いいものだわ」。

Amanda Weltman and Jeff Murugan

Credit: TONY MARKS

Weltmanは、最大級のスケールで見たときに宇宙がどう動いているかを若干24歳で提案して、一躍有名になった。「カメレオン宇宙論(Chameleon Cosmology)」という画期的な論文(J. Khoury and A. Weltman Phys. Rev. D 69, 044026; 2004)を発表したとき、彼女はまだコロンビア大学(米国ニューヨーク州)の大学院生だったが、この理論は暗黒エネルギーを説明する有力な理論の1つとなった。暗黒エネルギーとは、宇宙の膨張を加速させていると考えられている正体不明の力である。

Weltmanは同僚のJustin Khouryとともに、環境に応じて変化する新しい力を想定すれば、宇宙の膨張についての多くの観察結果を説明できることを示唆した。この「カメレオン的な力」は、地球上や初期宇宙のように粒子が密に詰まっている状態では弱いと考えられる。しかし、銀河が互いに離れていくにつれてこの力は大きくなり、それが力の増大をさらに加速させる。この理論が一躍広まった理由は、検証が可能なことにある。この理論では、光子が強い磁場内を通過するときに崩壊して「カメレオン粒子」に変わる場合があると予測されている。実験物理学者たちはこの効果を見つけ出そうとしているが、決定的な証拠はまだ見つかっていない(Nature http://doi.org/b96z3f; 2009に関連記事)。

Weltmanは、コロンビア大学でPh.D. を取得後、ケンブリッジ大学(英国)で博士研究員として過ごしていたが、2009年に南アフリカに戻った。それでようやく、夫である「ひも理論」学者のJeff Muruganとの生活を始められるようになった。夫とは10年前に出会っていたが、結婚するまで、彼らの交際はまるで宇宙研究でいう「二体問題」そのもの、つまり、惑星とその周りを回る衛星のように、ほとんど遠距離恋愛の状態だった。また彼らが南アフリカに戻ったのには、理想主義的な理由もあった。宇宙理論研究という分野で一流の研究者から数年にわたって学んだことを、母国に還元したいと考えたのである。「私たちは、この国の科学や知恵を育てるために、ここに戻って役に立とうと思ったのです」とWeltmanは言う。

ケープタウン大学に戻った彼女は現在、ある大きな研究グループに所属しているが、カメレオン理論の拡張や検証をするための自身のグループも構築中であり、すでに学部生1人と博士研究員1人を集めた。2012年、彼女は南アフリカ国立研究財団(NRF)から「P」の評定を受けた。この評定は、専念する研究分野で国際的リーダーになると期待される少数の若手研究者に与えられるものだ。

Weltmanは、女性が若いときに直面する壁が最も有害だと考えている。つまり、女の子はハードサイエンスよりもソフトサイエンスに向いているとか、数学は男の子の方が向いているという思い込みのことだ(ハードサイエンスは数量化に重点を置く物理学などのことで、ソフトサイエンスは数量化できないものを主に対象とする社会工学や情報理論などを指す)。彼女はそうした既成概念のない家庭で育ち、ありがたいことにお手本もいて、その多くは男性だった。「女の子には、女の子用のお手本が必要なのではなく、優れたお手本が必要なのだと思います」と彼女は言う。

現在33歳のWeltmanは、2人の子ども(現在2歳と8か月)を授かったが、夫のオフィスと彼女のオフィスが同じ階にあることでずいぶんと助かっているという。彼女は、4か月間の出産休暇の間も研究を続け、実際に休んだのは学生を指導する仕事だけだった。正直に言えば時にはかなりキツかった、と彼女は打ち明ける。「私が研究を続けられたのは、夫が育児のために可能なかぎり時間を割いてくれたからです。今も、日々の生活の中でそれぞれが仕事のちょっとした合間を見つけることでやり繰りし、2人で育児をこなしています」。2人は研究会議にも子連れで行き、交代で子どもたちの世話をしている。

大学は柔軟に対応してくれるが、子どもを産むにはまだ大変な場所だ、とWeltmanは言う。「妊娠したとき、少しですが、身構えた気持ちや後ろめたさを感じました。まるで、子どもを持つことで、自分には研究より私生活の方が重要なのだと公言したような気分になったのです」と彼女は打ち明ける。「物理学では、身も心も100%研究に捧げるべきだという考え方があるのですよ」。

翻訳:船田晶子

Nature ダイジェスト Vol. 10 No. 6

DOI: 10.1038/ndigest.2013.130610

原文

From the frontline: 30 something science
  • Nature (2013-03-07) | DOI: 10.1038/495028a