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時代遅れのコレステロール目標値

退役軍人保健局(米国ワシントンD.C.)で臨床分析と報告を統括するJoseph Francisは、健康診断で「悪玉」LDLコレステロール値が正常値の2倍であることを知らされ、リピトール(アトルバスタチン)の服用を始めた。この薬は、血中のコレステロール値を下げる「スタチン」の一種で、製薬史上最も売れている薬剤だ。服用開始からまもなく、彼はコレステロール低下薬の弊害と、その薬の使用法を指導する医師によるアドバイスの弊害に気が付いた。FrancisのLDL値は急激に低下したが、臨床ガイドラインが定める目標をわずかながら上回ったままなのだ。ほかの薬剤を併用しても効果がなく、リピトールの投与量を増やすと筋肉痛が生じた。まれではあるが、スタチンの副作用で筋肉が破壊される場合がある。

そのためFrancisはリピトールの量を元に戻し、高いコレステロール値と付き合っていくことにした。後にFrancisは、LDLの目標値を徹底して追求する医師たちが、患者に積極的な治療を行っていることを知った。しかし、目標値が記載されたガイドラインの科学的根拠は、驚くほど不確かであることをFrancisは発見した。「LDL値をさらに下げようとすることが患者のためになるとは必ずしもいえないのです」とFrancisは明かす。

アドバイスの標準はまもなく変わるかもしれない。米国立心肺血液研究所(メリーランド州ベセスダ)は、Francisの治療法を決定した臨床ガイドラインを十数年ぶりに改訂する(「何年続くか」を参照)。2013年中に発表される見通しの「成人治療パネル第4版(ATP IV)」は、同研究所が任命した心臓病医15人による専門家パネルによって作成された。このガイドラインは、米国内外の臨床診療の方向性を決定付け、医薬品市場にも大きな影響を及ぼすことになる。コレステロール目標値に関しては、これまで臨床試験で直接的に調べられたことがなく議論が高まっていたが、新しいガイドラインにはこうしたことも反映されると考えられる。

エール大学(米国コネチカット州ニューヘイブン)の心臓病医Harlan Krumholzは、「リスク因子をいじることでリスクが変わると決めてかかってはいけません。その思い込みのせいで、この10年間に何度も痛い目に遭ってきたのです」と説く。

2002年にATP IIIによって、LDLを目標値未満に下げることが医師に求められて以来、「低コレステロール」は「心臓の健康」と同義とされてきた。患者は自分のコレステロール値を自慢し、医師は飲み水にスタチンを混ぜると冗談を言い、一部の病院では患者のコレステロールを目標値未満にした医師に報酬を与えている。

ヘルスケアの技術と情報を取り扱うIMSヘルス社(米国コネチカット州ダンベリー)によれば、2011年に米国の医師が出したコレステロール低下薬の処方箋は2億5000万枚近くにのぼり、その市場規模は185億ドル(約1兆8000億円)という。マーシー・ヘルス(米国ミズーリ州チェスターフィールド)で転帰の研究を統括する心臓病医のJoseph Drozdaは、「とりわけ製薬業界は、目標値最優先の治療に大賛成でしょう。そのおかげで商品がどんどん利用されるのですから」と話す。

シカゴロヨラ大学ストリッチ医学系大学院(米国イリノイ州)の疫学者Richard Cooperによれば、ATP IIIは「コレステロール値を迅速に低下させれば心臓発作の危険性が低下する」という、当時医学界で強まっていた統一見解を反映したものだったという。Cooper自身が、そのガイドラインの編集委員会の一員だった。この委員会は、臨床データを重視したものの、基礎研究や臨床試験後解析からの推定も取り入れていた。Cooperによれば、LDLの目標値は、これがメッセージを発するように「特定の値よりは低くしよう」という形で設定されたという。「証拠がないわけですから、『低ければ低いほどよい』と断言したくはなかったのです。でも、『より低いほう』がめざすべき正しい方向という印象を、大半の人に強く与えてしまいました」。

それに対して今回のATP IVは、科学的厳密性を重んじ、無作為化臨床試験のデータに焦点を合わせることにしたと、委員長を務めるノースウェスタン大学医学系大学院(米国イリノイ州シカゴ)の心臓病医Neil Stoneは説明する。そうなれば、きちんと試験されたことのないLDLの目標値は葬られるだろう、とKrumholzは言う。臨床試験では、スタチンが心臓発作のリスクを下げることが繰り返し示されているのに対し、ほかの薬剤ではLDL値は下がっても心臓発作のリスク低下は今のところ報告されていない。すなわち、スタチンによって得られる効果は、コレステロール値を下げる作用とは別の作用、例えば心臓病のもう1つのリスク因子である炎症の緩和などの表れと考えられる。

KrumholzのLDLの目標値に対する疑いは、経験に基づくものだ。2008年と2010年に公表されたACCORD試験(2型糖尿病患者を対象に行われた、心血管リスクを制御する治療法を検討する試験)の結果では、血圧や血糖値を規定の目標値に下げても心臓発作のリスクが下がらないことが報告され、定説に疑問を呈すこととなった。血糖値の強化コントロール群では、むしろリスクが増大した。この結果について、コロラド大学デンバー校の心臓病医Robert Vogelは、「リスク因子が病気の原因という思い込み」のばかばかしさを示すものだったと語る。「背の低い人は心臓病のリスクが高いですが、ハイヒールを履いてもリスクは下がりませんよね」とVogel。

ミネソタ大学医学系大学院(米国ミネアポリス)の心臓病医Jay Cohnも、LDL値が偏重されるあまり患者が不要なスタチン療法を施されているのを懸念する。また彼は、心臓発作の患者に高LDLが多い訳ではないと指摘する。スタチンを用いた治療は、超音波などの非侵襲的な方法で検査可能な動脈の健康状態に基づいて行うべきだ、とCohn。「動脈と心臓に問題がなければ、LDLや血圧がどんな値でも構わないのです」。

だが、LDLの目標値を撤廃することに賛成の心臓病医ばかりではない。実際、ジョンズ・ホプキンス大学医学系大学院(米国メリーランド州バルチモア)の心臓病学特別研究員のSeth Martinは、ATP IVではLDLの目標値をさらに下げるべきだと考えている。目標を簡明化することで重要なメッセージが伝わりやすくなり、スタチン療法が必要と考えられる患者の多くが治療に前向きになるのだという。「目標値をただ放棄することが最良のシナリオだとは思えません」。

市場調査を行うディシジョン・リソーシズ社(米国マサチューセッツ州バーリントン)のアナリストDonny Wongは、決定がどうあれ、製薬業界は注視し続けるだろうと推測する。スタチン類の多くは特許が切れているので、製薬大手は次世代LDL低下薬の上市でしのぎを削っている。特に、コレステロール合成に関与するPCSK9という酵素を阻害する薬剤には、何百万ドルもの資金が投入されている。だがこの薬剤による治療法では、LDLは低下するものの、心臓発作が減ることはまだ示されていない。

Francisは、新しいガイドラインで目標値が緩和されることを期待する。Francisのチームは昨秋、独自に臨床基準値を変更することを決め、LDLの目標値のみに頼るのではなく、ほかに問題のない患者でLDL値が高い場合に適量のスタチンが処方されるようにした。Francisは、退役軍人保健局で基準値を見直す際、ATP委員会にも所属している複数の外部専門家の意見を聞いたと打ち明けた。そして、ATP IVのガイドラインも退役軍人保健局と似た方式になると予想する。

Francisの食生活はますます野菜中心になっているのに、LDL値にはいっこうに変化がない。「主治医に『あんな目標値なんか気にするな』と言ってやりたくなるときがあります。もうじき変わるのですから」とFrancisは言う。

翻訳:小林盛方

Nature ダイジェスト Vol. 10 No. 5

DOI: 10.1038/ndigest.2013.130512

原文

Cholesterol limits lose their lustre
  • Nature (2013-02-28) | DOI: 10.1038/494410a
  • Heidi Ledford