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カエルを愛したスパイ

100年ほど前、野外調査と諜報活動の二重生活を送った悪評高き爬虫両生類学者がいた。現代の若い科学者が彼に関心を持ち、その足跡をジャングルの中に追ったところ、このスパイは、分類学者として、きちんと仕事を残していたことが判明した。

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SPENCER RESEARCH LIBRARY/UNIV. KANSAS LIBRARIES

Nature ダイジェスト Vol. 10 No. 12 | doi : 10.1038/ndigest.2013.131222

原文:Nature (2013-09-12) | doi: 10.1038/501150a | The spy who loved frogs

Brendan Borrell

1992年、学部生だったRafe Brownは、フィリピンに旅立つ前に、これから出会いそうな生き物についてできるだけ多く知っておこうと、指導教官の本棚を探しまわった。そして、爬虫両生類学者として多くの業績を残したEdward Taylorが1922年に発表した研究論文を見つけた。その写真複写版をパラパラとめくるうちに、フィリピン産のトビヤモリの一種(Ptychozoon intermedium)にすっかり心を奪われてしまった。表皮は大理石模様で、指の間に水かきがあり、胴体の両脇には樹上から滑空できるようフラップ状の構造が付いていた。Brownにとって、こんな奇妙な動物を見たのは初めてのことだった。

Taylorは1912年にブナワンの町の近くで、このトビヤモリの最初の個体(タイプ標本と呼ばれ、新種の学名の基準となる)を採集し、それをマニラのフィリピン科学研究所(Philippine Bureau of Science)に預けた。しかし、その標本は第二次世界大戦で研究所の建物と一緒に破壊されてしまい、以後、このトビヤモリの目撃情報はなかった。「世界で最も希少なヤモリの1つを目にするチャンスは、どうすれば得られるだろうか」とBrownは思案した。

彼は、単なる好奇心だけに突き動かされたわけではなかった。フィリピンでは森林伐採が進んでおり、今のうちに、このトビヤモリがまだ生息しているのかどうか、そしてまだ生息しているなら、他の地域で採集されたトビヤモリとどれくらい似ているのかを明らかにしたいと思った。つまり、70年前にTaylorが残した分類学が今も有効なのかどうか、知りたいと思ったのである。

野外調査の最初の夜、Brownは同僚たちと森の端までドライブして、ヘッドランプの光が照らす中に2つの赤い眼を見つけた。それはトビヤモリの仲間だった。ホテルに戻って採集したヤモリを写真に撮り、DNA解読のために組織試料を採取し、慎重に調整してそれを瓶に収めた。その個体は、Taylorの失われた標本に代わって新しい基準となる「ネオタイプ」標本となった。1997年、Brownはその種に関する新しい記載論文を発表した1。これは、彼の執念を示す最初の証しであった。

爬虫両生類学者でありスパイでもあった Edward Taylor。1912年撮影。

Credit: CLOCKWISE FROM TOP LEFT: SPENCER RESEARCH LIBRARY/UNIV. KANSAS LIBRARIES; COURTESY JOHN TEWELL/PHOTOGRAPHER UNKNOWN; US NATL ARCHIVES; RAFE BROWN; SPENCER RESEARCH LIBRARY/UNIV. KANSAS LIBRARIES

こうしてBrownは、約20年にわたってフィリピンの生物多様性を研究してきたが、その間、常にTaylorの影を感じていた。Taylorは一生のうちの23年間を野外調査域で過ごし、世界各地で7万5000体以上の標本を採集し、数百もの新種を命名した。

しかし、Taylorについて伝えられている話には暗い側面がある。彼は人種差別主義者で気難しく、被害妄想に悩まされていた。それはおそらく、米国政府のスパイとして謎めいた二重生活を送っていたためと思われる。1978年に死ぬまで、彼は周囲の人間を次々と敵に回していった。彼の死亡記事の1つには、多くの人々にとって彼は「まさに鬼であり、その怒りを買った人間は誰もが災いを被った」と書かれている2。それよりも彼の評判を落としたのは、研究業績に対する批判であろう。フィリピンにあった彼の標本コレクションが消失した後、彼が命名した種の多くが無効もしくは重複だとされた。分類学の研究水準が上がって、Taylorの記載論文は古めかしくなってしまい、参照すべき標本も失われ、根拠が薄弱と思われたのである。

にもかかわらず、Brownはこの悪評高き先達との因縁を感じていた。それは、Brownが2005年にカンザス大学自然史博物館(米国ローレンス)で爬虫両生類学の学芸員になって一層強まった。ここは、Taylorが研究者人生の多くを費やした場所だったのだ。Brownはこの博物館で、Taylorの標本コレクションの一部を何年もかけて復元し、彼の記載した種の多くを復活させた。現在、彼はフィリピン産のカエルの一群に関する本格的な研究論文を仕上げつつあり、以前にも増して「Taylorは正しかった」と信ずるようになっている。

Brownの再検討は、今後ますます重要な意味を持つに違いない。Taylorの時代以降、分類学は単なる命名作業ではなくなっている。ある生物集団を新種として指定したり、あるいは既存の種にまとめるのもその仕事であり、それによって、法律による動物保護や保全用リソースの配分に影響することもあるのだ。特に両生類の減少は世界中で大きなニュースとなっており、存続の危うい生物種の純然たる割合を見ると、フィリピンはスリランカに次いで2位なのだ。

フィリピンの両生類の79%は地球上でこの地域にしか生息しておらず、46%は絶滅の危機に瀕している。しかしBrownは、Taylorの足跡を実際にたどることで楽観論の根拠を手に入れた。「多くの懸念が解消されました。Taylorが言った場所へ正しく行けば、今でも目的の種を見つけることができるのです」と彼は言う。

冒険への渇望

Credit: RICHARD GWIN/LAWRENCE JOURNAL-WORLD

Brownは、カンザス大学自然史博物館の4階に保管されたTaylorの爬虫両生類学コレクションへと案内してくれた。黄色味がかったアルコールの中にはトカゲが逆さまに漂っており、ヘビはコルクの栓抜きのように、らせん状に体を巻いている。また、ある標本瓶には20匹余りの小さくて黒っぽいカエルが詰められていた。棚に並んでいる瓶の蓋には、中身がタイプ標本であることを示す赤いリボンが巻かれていた。

見つけた個体が新種なのか、それとも既知の種の一形態なのかについて統一見解が得られない場合、タイプ標本を参照して再検討するか、その個体が採集された場所に戻る必要がある。Brownは1つの瓶を開け、胴体に小さいタグがひもで付けられた小型のトカゲを取り出した。それはTaylorのオリジナルの標本コレクションの1つで、カリフォルニア科学アカデミー(米国サンフランシスコ)からの借り物だ。

博物館への収蔵は、全ての分類学者が憧れる研究業績の残し方であり、Taylorも例外ではなかった。彼は1889年4月23日に米国ミズーリ州メイズビルで生まれ、まだ10代の頃から、カンザス大学自然史博物館に標本を収め始めた。やがて23歳で行政職員になり、当時は米国植民地だったフィリピンで、1人だけの平和部隊としてミンダナオ島中央部で首狩り族のための学校を作った。彼はこの地域で、例のトビヤモリや別のトビヤモリ種を採集した。次に彼は、マニラにある漁業関係の役所で働き、その後、フィリピン産哺乳類に関する研究でPh.D.を取得したが、彼が最も強い情熱を注いだのは常に爬虫類と両生類だった。爬虫両生類学の研究のために、彼は人生のその他全てを犠牲にした。「私は約500種に命名しましたが、自分の子どもたちの名前を思い出せないときがあります」と後に記者に語っていたらしい。妻だったHazelは夫の長期不在に耐えきれず、2人は1925年に離婚している。

その頃までに、Taylorは、両生類42種、トカゲ類40種、ヘビ類30種をすでに報告していた。この数は、同じ分野の研究者の多くが一生の間に見つける数よりも多い。彼は標本の一部を米国内の博物館へ売却したが、多くはマニラの科学研究所に置いたままだった。彼は標本がそこで永遠に安全に保管されると思っていたのだ。1926年に彼はカンザス大学の教授陣に加わり、その後20年にわたって、メキシコやコスタリカからアフリカのいくつかの地域まで、世界各地を歩き回った。折りたたみ式の軍用簡易ベッドを持ち歩いて、米と練乳を常食にしながら標本を採集したのだ。

しかし60代を迎えて、Taylorは自分が批判されていることを知った。1954年、フィールド博物館(米国イリノイ州シカゴ)の爬虫両生類学者Robert Ingerは、フィリピン産両生類の分類に関する辛辣な再考察を発表した3。Ingerは、博物館に保管された標本だけを調べた上で、Taylorが個人的に命名もしくは認めた87種のうち、44種を否定したのだ。「Taylorが命名したカエルの種どうしの差異は、個体差として想定される範囲内であろう」とIngerは書いた。これでTaylorのプライドはズタズタにされた。彼はIngerの文を複写して、「こんちくしょう!」と殴り書きした。

さらに最近になって、爬虫両生類学者からTaylorの品性に対して重大な疑惑の声が上がっている。1993年、カンザス爬虫両生類学会は、Taylorが1916年に発表したカンザス産爬虫類に関する修士論文を公表した。そしてそのただし書きとして、彼の教え子だったHobart Smithは、Taylorが論文の大部分を19世紀の古生物学者で爬虫両生類学者でもあったEdward Drinker Copeの論文から盗用していたことを明らかにしたのだ。それは、Taylorがきちんと原則を守る人だと思っていた人々にとって、まさに衝撃の新事実だった。しかし、これで、Taylorが修士論文を決して公表しようとしなかった理由が分かった。2002年には、マイアミ大学(米国フロリダ州コーラルゲーブルス)の爬虫両生類学者Jay Savageが、Taylorの別の悪行を公表した。コスタリカへの採集旅行でライバル研究者を出し抜くため、Taylorは、そのライバルの野外調査ノートをひそかに複写していたのだ4

Taylorには他にも人の道を外れた部分があった。彼は優生学プログラムへの支援を訴え、伝えられるところによれば、ユダヤ人学生の指導を拒否したという。BrownはTaylorのことを詫びる立場にはないが、Taylorの良い評判も悪い評判もカンザス大学自然史博物館の歴史の一部として捉えている。「結局のところ、彼は我々自身でもあると思っています」とBrownは言う。

遺産の再検討

Brownは、1990年代後半にテキサス大学オースティン校(米国)で大学院に進んでから、Taylorに対する興味をいっそう強めた。彼はTaylorの研究論文をむさぼるように読み、自分なりの採集計画を立てた。また、博物館の記録を探してTaylorの標本がある場所を見つけ出し、それらを見るためにフィールド博物館やカリフォルニア科学アカデミーを訪れた。Brownは、Taylorがフィリピン科学研究所に収めたタイプ標本に関する情報を求めて探しまわった。しかし何度も行き詰まった。

そして、その科学研究所の悲劇的な結末を知った。1945年2月、米国陸軍元帥だったダグラス・マッカーサーは、日本軍を一掃するためにマニラに全面攻撃を仕掛けた。このとき、科学研究所はがれきと化して、そこにあった動植物の標本は全て破壊されてしまったのだ。そこにはTaylorの収めた32体のタイプ標本も含まれていた。「この損失は取り返しのつかないものです」と、Taylorの友人で伝説的な植物学者でもあるElmer MerrillはScienceに書いた5。植物標本については徐々に補充されていったが、Taylorのやった仕事を系統的に再現しようとする者はいなかった。生物種の豊富な地域に非友好的な部族が住んでいたからだ。1990年代にはテロの脅威があり、Taylorが十数種のタイプ標本を採集したスル諸島などに近づくことは難しかった。このような危険はあったが、BrownはTaylorの足跡をたどってみようと決心した。

1998年7月、ガイドの少年を1人雇い、調査チームはルソン島北部の山々に分け入った。そこは、Taylorが、腰布を付けてマチェーテ(ナタのような山刀)を振り回す原住民に迎撃された場所であった。Taylorの足跡を探してBrownが河川を歩き回っているとき、下流の町では、西洋人たちが少年を誘拐したという噂が広まった。10人余りの地元民が、たいまつや杖やマチェーテを持って、誘拐犯たちを見つけようと村長の家へ集まってきた。Brownが村に戻ったとき、彼の獲物がたくさんのカエルだけだったことから、混乱はさらに拡大してしまった。ちなみにTaylorのときは、待ち伏せ攻撃を受け、ライフルを取り出す羽目になった。

1998年の調査旅行で、Brownと同行者たちは、何十年もの間目撃情報のなかった爬虫類や両生類を5種見つけた。また、おそらく新種と思われる13種と、この地域ではそれまで未報告の30種も見つけた6。ある夜にBrownは、樹上の高いところで甲高く鳴くヒラタガエル属(Platymantis)のカエルを数匹捕まえた。それらは、Taylorが1920年に捕まえて種小名をrivularisと命名した種であることが判明した。そのタイプ標本はまだ存在していたが、色があせて形もかなり変わっており、種を検討するための他の標本例もあまりなかった。そのためIngerは、1954年に別のhazelaeという種(Taylorの妻の名をとったもの)とrivularisを一緒にまとめてしまったのだ。

しかし、実際にその求愛の鳴き声(求愛音)を聞いたり、生存個体の体色を見たBrownは、P. rivularisを独立の種として復活させようと判断した。Brownによれば、Ingerは分類群のくくりを大きくしたがる傾向があり、また、その判断は厳格過ぎたという。「少しでも疑問がある場合、新種としては認めませんでした」。

フィリピン国立博物館(マニラ)の爬虫両生類学者Arvin Diesmosは、Brownと親しい共同研究者だ。2人は20年にわたって1万5000体以上のフィリピン産標本を収集してきたが、これはTaylorが生涯で集めた標本数の5分の1にすぎない。Brownは、進化的な類縁関係をはっきりさせるためにDNAも採取した。Taylorのホルマリン漬けの標本からはDNAを抽出できないからだ。またBrownは、カエルの種を特定するための重要な特徴の1つである求愛音も記録している。彼は、フィリピン産のヒラタガエル属に関する自身の再考察を2003年から進めているが、それが完了すると、種の数は30から60に倍増し、Taylorの付けた学名の多くが復活するだろうと予想している。

カエルの鳴き声と短刀

BrownのTaylorに対する特別な関心は、分類学の範疇にとどまらなかった。Taylorの不正な活動にも興味を抱くようになった。Taylorは、野外調査のために紛争地帯も訪れたようで、回想録の中で科学研究以外の任務のことも、それとなく触れている7。Taylorはマニラで漁業関係の役所で働きつつ、英国人男性が殺害された事件の調査を手伝ったり、スウェーデンの諜報員との情報交換や、第一次世界大戦中に軍需物資として使われた可能性のある水銀の探索などを進めていた。彼は川旅をしながら時折日本人を見つけては、現地の知事に「日本人がこの国のことを探っている」と警告していた。

Taylorが、野外調査のために立ち入る口実として戦争を利用していたのか、それとも逆に、野外調査を口実にして戦争に関わっていたのか、彼の少ない友人たちにも分からなかったようだ。追悼記事の中で教え子の1人は、Taylorの第二次世界大戦中の後半の活動は「おそらく決して詳細に分かることはないでしょう」と記している2

しかし、ようやくTaylorの仕事の実態が明らかになりつつある。当時の諜報活動記録が機密扱いから外れ、研究資料が表に出てきたからである。それらによって、Taylorが本当にスパイであったことや、彼が第一次世界大戦後にシベリアに派遣されたときも諜報活動を続けていたことが明らかになった。表向きの目的は、赤十字に加わってチフスの流行を止めることだったが、ロシアの共産主義革命や、その後、殺された皇帝ニコライII世の娘、アナスタシア皇女の安否についての情報も集めていた。

Taylorは1944年に再び召喚されて任務に就いた。そのとき彼は54歳で、太平洋は戦場と化していた。米国の国立公文書館にある記録によると、Taylorは、中央情報局(CIA)の前身である戦略諜報局(OSS)に入り、スリランカで工作員の訓練に当たった。その当時、スリランカは英国の植民地で、日本が進軍していたミャンマー、マレーシア、インドネシアその他の地域に容易に接近できる位置にあった。「科学的調査はこのうえない隠れ蓑になる」と、あるOSS職員はTaylorの上司に説明したという。

Taylorは、沿岸の湿気の多い開拓地「キャンプY」でジャングルでの生存術を教えた。彼は目つきが鋭く、下顎が突き出ていて、1.8 mの身長よりも大きく堂々として見えた。彼は暇があれば時々銃声をかいくぐって標本用の動物を捕らえ、戦争が終わった後に、それらに関する研究論文を2本発表している。「この島で見つかった新しいメクラヘビを5種類報告した」と、若い鳥類学者のS. Dillon Ripley宛てに手紙を書いている。RipleyはTaylorとともにOSSで働き、その後、スミソニアン研究所(ワシントンDC)の所長となった。Taylorはその後の手紙で、「約500種」の軟体動物の殻をスミソニアンに献呈することを伝えた。

第二次大戦後、Taylorはマレーシア滞在の英軍を手伝って、日本軍が市民に対して行った戦争犯罪を調査した。強姦や拷問、殺人を記録する仕事をしたことは、彼の日本人に対する嫌悪感をさらに強めたと思われる。彼は鷹揚なところのない人物で、戦争での体験は彼を蝕んだようである。彼はカンザス大学自然史博物館の館長になりたかったが、就任することはかなわず、日々の生活の中で次第に被害妄想を膨らませていった。また、ロシア語を勉強し、CIAのために働けないか問い合わせたりもした。

今年3月に亡くなった教え子のSmithはNatureに、Taylorは自分の不在時にオフィスに侵入者があったかどうか分かるよう、床に小麦粉を振りまいていたと話した。カンザス大学の爬虫両生類学者で、1951年にTaylorに初めて会ったWilliam Duellmanは、Taylorの症状は、現在なら心的外傷後ストレス障害(PTSD)に当てはまると考えている。しかし、そんな状態でもTaylorは研究を続け、その後の数年で、アシナシイモリと呼ばれる一般になじみの薄い両生類の仲間を研究している。1968年には、アシナシイモリの分類を再考察した800ページもの大部の本を出している8

絶滅寸前

Taylorがフィリピンに残した爬虫両生類学の遺産は、この国が天然林の95%以上を失った現在、新たな重要性を帯びている。Brownをはじめとする生物種コレクターは、そうした仕事が生物保全にも関係することを承知しているが、科学研究の結果と保全のための分類は、異なる場合も多い。例えば、国際自然保護連合(IUCN)は1990年代後半に、フィリピンのポリロ島のカエル(Platymantis polillensis;Taylorが最初の報告者である)を「絶滅寸前(CE)」に分類した。ポリロ島の森林域のうち4 km2の範囲を除く全てが、ココナツ農園のために伐採されていたからである。

しかし2004年、Brownは記録した録音を聞いていて、そのポリロ島のカエルの求愛音が、ルソン島で彼が採集したカエルの求愛音と似ていることに気付いた。許可を得て採集し、解析すると、予想どおり、そのカエルは広く生息していることが確認された。昨年、彼は、かつてはIUCNが「危急(VU)」もしくは「絶滅危機(EN)」と判定したカエル7種が、実際にはルソン島内に広く生息していることを報告した9

分類学者にとって難問なのは、地球全体の生物多様性が危機にあることを大勢が認めているにもかかわらず、さまざまな保護団体が勝手に声を上げ、現実のデータも乏しいため、危機的状況の程度をなかなか正確に測定できないことである。「大きな生物分類群の危機的状況を地球全体で捉えて評価することは、現時点では科学的な厳密さが非常に乏しいのです。我々はもっとしっかりと地に足を着ける必要があります」と、エール大学(米国コネチカット州ニューヘイブン)の生態学者Walter Jetzは話す。

Brownは一般的な生物保全の評価については懐疑的だが、フィリピン産両生類に対するカエルツボカビ(Batrachochytrium dendrobatidis)の脅威には不安を抱いている。このツボカビは、世界各地に生息する数百種の両生類で個体数の減少や絶滅を招いていると考えられているNature 465, 680–681; 2010)。2009年にBrownは、フィリピンのカエル5種にこのツボカビが感染していることを確認し、それ以降、確認例はさらに増えている。カエルツボカビの脅威は、生息域の破壊や気候変動と相まって、フィリピンの両生類を絶滅寸前に追いやってしまう可能性があると彼は懸念する。

フィリピンの生物多様性を記録するための時間はもうあまり残されていないが、Taylorの歴史上の位置付けを確認できる時間も同様である。Taylorによる種の記載論文は短いが、多くの場合、近縁種と見分けるのに的確な形質に的を絞っていることに、Brownは気付いた。「彼は鋭い観察眼を持っていました」とBrownは話す。Ingerによって学名を剥奪された十数余りの種やその他の種が、結局は妥当であったことが今では明らかになった。

Ingerは現在93歳になり、新たに得られた証拠やBrownが対象に迫った方法に感心している。「彼はおそらく正しいと思うよ」と言いつつ、Ingerは「分類群を細かく分け過ぎている気がするけれどね」と付け加えた。

Brownは自然史博物館を案内してくれた後、カンザス大学校舎に戻って古文書図書館内の席に座り、Taylorの研究資料が入った保管箱に手を入れた。その中には、Taylorが野外調査ノートや標本カタログとして使ったボロボロの革表紙の本もいくつか入っている。Brownは、標本カタログの1つを初めてパラパラとめくり、あることに気づいて驚いた。Taylorが、ミンドロ島で捕まえたアジア産スキアシガエルの学名を、バツ印で消していたのだ。この奇妙なひょろ長いカエルは飛び跳ねずに這ってのろのろ進む。そのバツ印の隣にはTaylorの字で「新種だ!」とあった。実は2009年、Brownはそのカエルを新種としてLeptobrachium mangyanorumという学名を付けていた10。新種としたのは、それまでに報告されていた近縁種とあまりに違っていたからだ。

「エド(Taylor)は我々よりもずっと先を行っていたのです」とBrownは言う。「彼はなぜこのカエルに学名を付けなかったのでしょうか。その理由は永遠に分からないかもしれませんが、この書き込みから90〜100年後に同じ結論に到達できたことを、私はとてもうれしく思っています」。

(翻訳:船田晶子)

Brendan Borrell は、生物学者から転身したニューヨークを活動拠点とするジャーナリスト。滑空動物に関する2007 年の概説論文に関わり、その中にBrown の研究が含まれていた。

参考文献

  1. Brown, R. M., Ferner, J. W. & Diesmos, A. C. Herpetologica 53, 357–373 (1997).
  2. Webb, R. G. Herpetologica 34, 422–425 (1978).
  3. Inger, R. F. Fieldiana Zool. 33, 183–531 (1954).
  4. Savage, J. M. The Amphibians and Reptiles of Costa Rica (Univ. Chicago. Press, 2002).
  5. Merrill, E. D. Science 101, 401 (1945).
  6. Diesmos, A. C., Brown, R. M. & Gee, G. V. A. Sylvatrop 13, 63–80 (2003).
  7. Taylor, E. H., Leonard, A. B., Smith, H. M. & Pisani, G. R. Monogr. Mus. Nat. Hist. Univ. Kansas 4, 1–160 (1975).
  8. Taylor, E. H. The Caecilians of the World (Univ. Kansas Press, 1968).
  9. Brown, R. M. et al. Check List 8, 469–490 (2012).
  10. Brown, R. M., Siler, C. D., Diesmos, A. C. & Alcala, A. C. Herpetol. Monogr. 23, 1–44 (2009).

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Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

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