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霊長類の脳で、“下等な”動物の神経回路が果たしていた役割とは?

–– “古い脳”とは何のことですか?

伊佐: 動物の進化の過程で、古くから存在する機能やシステムという意味です。

ヒトの脳神経系は、進化によって獲得した複雑な神経回路で構成されています。では、高度な機能を発揮する新しい神経回路を獲得したとき、古い回路はどうなるか。その疑問に、今回の私たちの研究は、1つの答えを出すことができました。

–– 具体的には、何を調べたのですか?

伊佐: 手の指が1本1本独立して動き、物をつかむ、という運動について調べました。この動きは、ヒトやニホンザルなどの霊長類だけが持つ、きわめて高次な機能です。ほかの動物は、このように手指を使うことができません。

–– どのような回路が関与しているのですか?

伊佐: 霊長類の器用な指の運動を司る神経回路は「直接経路」と呼ばれ、大脳皮質(運動野)から脊髄の運動神経細胞へ直接つながり、さらにそこから手の筋肉に向かっています。

ほかの哺乳類、例えばネコなどには直接経路が存在しません。存在するのは、脊髄内の介在ニューロンを介した「間接経路」です。このようなことから、霊長類の直接経路は進化的に新しく、指の器用な運動をもたらしたと考えられています。

 

–– ネコの古い回路は、霊長類ではどうなっているのですか?

伊佐: 私たちは、サルにも間接経路があることを見つけました。直接経路の脇に、分岐したバイパスのように、介在ニューロン(脊髄固有細胞)からなる間接経路が存在するのです。ただしその機能については、10数年来の議論の種でした。つまり、この古い回路は抑制されているのか、あるいは何らかの機能を果たしているのか……。そこで今回、私たちは、間接経路を一時的に遮断する実験を行ったのです。

–– その結果は?

伊佐: 直接経路はそのままに、間接経路を遮断してみると、なんと指の動きが少し不器用になったのです。指の器用な運動には、古い経路も重要な役割を果たしていることが明らかになりました1

–– それは、どういうことを意味するのでしょう?

伊佐: 脊髄の役割を見直させたといえるでしょう。単なる信号の通り道か、反射の経路程度に見なされていた脊髄ですが、今回、精緻な運動を制御する高度な働きに関与していることが示されました。これは、教科書を書き換えるような発見です。

また、脊髄損傷後などのリハビリテーションに、理論的な基礎を与えることにもなります。

–– リハビリの理論的基礎ですか?

伊佐: 脊髄損傷や脳梗塞によって大脳皮質からの直接経路が切断されると、運動能力が損なわれます。実はその場合でも、間接経路が残っていると、1〜2か月の リハビリで器用な指の運動が回復することを、以前私たちはサルの実験で発見しました。こうした機能回復のメカニズムを研究していくうえで、健常時における間接経路の働きを明らかにすることは重要です。

–– 古い神経回路がリハビリで活躍しているなんて、驚きですね。

伊佐: 新旧両回路が普段から共に機能しており、新しい回路が障害されたときには、古い回路が代償してくれるのですね。臨床上たいへん意義深い研究成果だと思っています。

また、脊髄損傷後の神経再生の研究が活発に行われていますが、再生メカニズムの研究上、重要な手がかりになるのではないかと思います。

特定の神経経路だけを調べる方法

–– 画期的な神経回路の遮断方法も、開発されたのですね?

伊佐: はい。福島医科大学の小林和人教授、京都大学の渡邉大教授と、共同開発しました。霊長類の複雑な脳神経系については、特定の神経回路だけを厳密に選択し、しかも可逆的に遮断するという方法が、これまで存在しませんでした。その開発に成功したのです。研究や実験に、広範囲に利用可能な優れた方法と自負しています。

この方法の開発は、文部科学省の脳科学委員会が10年後の到達目標と考えていたほどのチャレンジでしたが、わずか3〜4年で達成することができました。実験に携わってくれた特任助教の木下正治君のハードワークに感謝しています。

–– どのような仕組みなのですか?

伊佐: 破傷風毒素、改変したレンチウイルスとアデノ随伴ウイルスを用いて、神経回路を遮断する方法です。「2種類のウイルスベクター使った遺伝子導入法」という手法なのですが、目標の神経回路内で、特定の条件がそろったときにだけ、破傷風毒素遺伝子の発現がオンになって回路を遮断する、そのような仕組みを設計したのです。実際にうまく機能させるために、破傷風毒素遺伝子の発現を高めたり、神経回路を逆行してそれを運ぶウイルスベクターを調整したりする工夫が必要でした。

図1:特定の神経回路を遮断する仕組み。
(A)互いに進む方向の異なる逆行性ベクター(赤:狂犬病ウイルスの性質を持たせたレンチウイルス)と順行性ベクター(青:アデノ随伴ウイルス)を神経細胞の両端に注射する。両者が出会った場所(細胞体)では、ベクターに含まれる遺伝子がそろう。
(B)遺伝子発現を可逆的にオンにする仕組み(TETシステム)。2つのウイルスベクターに感染した神経細胞に破傷風毒素(Dox)が投与されたときにだけ、遺伝子発現がオンになり、毒素が発現し、シナプス伝達が遮断される。

伊佐 正

–– 巧妙な仕組みが実現できたのですね。

伊佐: はい。しかも応用が利くのです。破傷風毒素遺伝子の代わりに、治療効果を持つタンパク質を発現する遺伝子を使えば、目標の神経回路を治療する薬となりうるでしょう。もちろん、サルに限らず、マウスや他の動物種にも利用可能です。

“生理学の時代”が巡ってきた

–– 今回の方法以前には、神経回路の研究はどのように行われてきたのですか?

伊佐: 電極を刺して電気生理学的に測定したり、脳が損傷を受けたときの症状から機能を推測したりしていましたが、必ずしも科学的に厳密な方法で検証されていたとはいえません。

最近はMRIを用いたイメージングも盛んに行われていますが、これも、血流を測定しているのであって、神経回路の神経伝達そのものを測定している訳ではないのです。

–– 脳神経系の研究は、アプローチが難しかったということですね。

伊佐: これまでに考えられてきた神経回路機能が本当に正しいのか、それを検証しようとするプロジェクトが、欧米を中心に、巨額な予算を費やして、マウスを用いて進められています。

一方私たちは、それとは独自に、ヒトに近い霊長類のサルを用いて神経回路を調べていくつもりです。特に、脳の局所機能の解析は進んできているので、私はその先を見越して、脳神経系の全体像の正確な把握に重きを置いています。それには、今回開発した手法に加えて、イメージングやオプトジェネティクス(光の刺激で神経活動を刺激する方法)なども総合的に利用します。

––先生は学生時代から、生理学に重きを置いて研究してこられましたね。

伊佐: 生理学は、機能を直接観察する学問です。分子レベルの研究だけでなく、きちんと行動レベルにまでつなげることが重要だと考えています。

脊髄の神経経路や生理学は、時代遅れのテーマだと言われたこともありましたが、私はそのおもしろさに惹かれ、研究を続けてきました。

大学院のときに恩師から、「流行に乗るのではなく、流行は自分で作りなさい」と言われました。今、脊髄損傷の機能回復や再生医療、あるいはBMI(ブレーンマシーンインターフェース)といった研究分野の活発化とともに、脊髄の神経回路や生理学に注目が集まりつつあるのを感じると、自分で流行を作った訳ではないですが(笑)、恩師の言に添えたかなと思えてきます。

–– 伊佐先生にとって、研究のおもしろさは?

伊佐: 高次な脳機能の研究は、アプローチが難しい分だけ、逆に、研究方法の自由度が高いといえます。お決まりのプロトコルなどないのです。想像力を駆使して、分子、回路、個体レベルをつなげる大胆ともいえる仮説を立て、実験を通して確認していく。自分なりのやり方で試せる余地があって、それが何よりも楽しいのです。

–– ありがとうございました。

聞き手は藤川良子(サイエンスライター)。

Author Profile

伊佐 正(いさ・ただし)

自然科学研究機構 生理学研究所 教授。1985年に東京大学医学部卒業。同大博士課程修了後、88年スウェーデン・イエテボリ大学留学、東大医学部助手、93年群馬大学医学部講師・助教授を経て、96年より現職。2006年、塚原賞受賞。

伊佐 正氏

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 11

DOI: 10.1038/ndigest.2012.121118

参考文献

  1. Kinoshita, M. et al. Nature. 247, 235-238 (2012)