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古代機械は何を語る

Credit: THE ANTIKYTHERA MECHANISM RESEARCH PROJECT

2000年前のギリシャ。名もなき1人の機械工が、天体の運行を再現する模型を作ろうと思い立ち、複雑な装置を製作した。それは、正確に目盛を刻んだ表示盤の上で太陽と月と惑星の運行を表示する装置で、ハンドルを回すと、小さな天体がうねるような軌跡を描いて空を横切っていくようすを再現することができた。

その後、歴史の中に埋もれ、忘れ去られてしまったこの装置は、1901年、アンティキテラ島の沈没船から現代に引き上げられた。「アンティキテラ島の機械」と名付けられたその機械は、ずば抜けて洗練された古代の技術が生み出した遺物として評価されており、現在、アテネ国立考古学博物館に保管されている。

X線撮影技術の向上とともに、腐食した金属塊の内部に隠された歯車機構の解明が進み、2006年にはカーディフ大学(英国)の天文学者Mike Edmundsら1が、2007年にはロンドン在住の学芸員で機械修理工のMichael Wrightが2、それぞれ装置を復元した。人々は、その精巧な動きに驚嘆し、古代へ思いを馳せた。この装置は、古代世界における技術発明に革命をもたらし、古代ギリシャ人の科学的偉業の極みであると。

けれども今回、このきわめてギリシャ的な装置の根拠となっている天文理論について調べていた研究者たちは、それがギリシャではなくバビロニアの理論であるという結論に達した。バビロニアは、「アンティキテラ島の機械」が製作された時代より何世紀も前に栄えた帝国である。つまり、歴史学者は、天文学の発展を決定付けた時期について再考を迫られているのだ。ひょっとすると、「アンティキテラ島の機械」をはじめとする歯車を利用した各種の装置は、ギリシャ人の幾何学的宇宙観を体現しているのではなく、むしろ、ギリシャ人にインスピレーションを与えて、そうした宇宙観が発展するきっかけを作ったのかもしれないのだ。

復元された装置

Credit: A. THORNDIKE & J. EVANS

「アンティキテラ島の機械」は、紀元前2世紀または紀元前1世紀初頭に製作されたと考えられる。発見されたときは、高さ約30cm、幅約20cmの木製の箱の中におさめられていた。装置には30個以上の青銅製の歯車が使われていて、ギリシャ語がびっしりと刻んであった。表側には大きな円形の表示盤が1つあり、同心円状の目盛が2種類刻まれていた。外側の目盛は円周を365分割して1年365日を表し、ひと月ごとに区切って月の名前が書いてあった。内側の目盛は円周を360分割して1周360度を表し、これを30度ごとに区切って黄道十二宮の星座の印を付けてあった。

この表示盤の上を動く針は、日付のほかに、その日の太陽、月、そしておそらく、当時知られていた5つの惑星の位置を示していたと考えられる。月の針には、半分が黒、残り半分が銀色に塗られた球がついていて、月の満ち欠けを表していた。黄道十二宮の目盛に記された文字は見出しのような役割をしていて、1年の各時期に主な星が昇る時刻と沈む時刻に関する説明文を参照できるようになっていた。

一方、装置の裏側には上下に2つの表示盤が並べてあり、それぞれらせん状の目盛が刻まれていた。上の表示盤は、235朔望月(月の満ち欠けの1周期)を周期とした暦を表していた。太陽年における新月の日付は19年周期で完全に同じになり、19太陽年は235朔望月に相当するため、この暦は広く用いられていた。下の表示盤は223朔望月の食の周期を表していて、そこに刻まれている記号を見れば、食が起こる日時のほかに、その食の種類や詳細な経過についての情報が得られた。

2006年に装置を復元したEdmundsらは、235朔望月の周期も223朔望月の周期も、ギリシャ人ではなくバビロニア人が導き出したものであることに気付いていたが、意外とは思わなかった。聖職者でもあるバビロニアの天文学者たちは、天文現象を強力な前兆と見なし、何世紀もかけてそうした周期を数多く特定していた。そして、「アンティキテラ島の機械」が製作された当時のギリシャの天文学者たちは、しばしばバビロニア人が発見した周期を利用していたからだ。

しかしながら、「アンティキテラ島の機械」がバビロニア人の観測結果を利用しているというこうした事実があっても、この装置がギリシャ人の独自の幾何学的宇宙観を体現しているという中心的結論が揺らぐことはなかった。このような球や円を用いる模型が製作され始めた当初は、三次元空間における惑星の運行を厳密に再現することは重視されず、運動の性質を表現することができ、哲学的に満足のいくものであれば、それでよいとされていた。しかし、「アンティキテラ島の機械」が製作された時代になると、バビロニア人の厳密さに感化されたギリシャの学者たちは、宇宙モデルに数字を持ち込むようになり、観測値との一致を重視するようになっていた。紀元前2世紀に活躍したヒッパルコスも、その1人である。現代の専門家たちは、「アンティキテラ島の機械」の中心に位置する黄道十二宮の表示が、ギリシャの最新幾何学的理論を反映していると確信していた。

彼らのこうした主張は、「アンティキテラ島の機械」の内部に隠された機構が月のみかけの運動速度の変化を再現していることが、X線撮影によって明らかになったことで、裏が取れたと考えられた。月が地球の周囲を巡る軌道は円ではなく楕円であるため、月が軌道上のどこにあるかによって、動きが速くなったり遅くなったりするように見える。ギリシャ人の哲学者たちは、すべての天体は完全な円軌道を描くと考えていた。そこでヒッパルコスは、地球を中心とする円軌道と、地球から離れたところを中心とするもう1つの円軌道を考えることで、月の運動速度の変化を説明しようとした。これが「離心円」理論である。

「アンティキテラ島の機械」では、1つの歯車がもう1つの歯車をわずかにずれた軸の周りで動かす「ピンと穴の機構」を利用しているため、ヒッパルコスの離心円理論を見事に実践しているように見える。実際、Edmundsらが2006年にNature に発表した論文では1、この機構はヒッパルコスの月の理論を「機械的に具現化したもの」であると評されている。Edmundsのチームもほかの研究者たちも、「アンティキテラ島の機械」の製作者は、同様の技術を用いて太陽の運行のモデルを製作したに違いなく、ひょっとすると、惑星運行のモデルも製作していたかもしれないと推測した。これに相当する歯車機構は失われているが、この推測には説得力がある。惑星のみかけの運動は、速くなったり遅くなったりするだけでなく、向きを変えることもある。ギリシャの天文学者たちは、離心円モデルと数学的に等価な理論を用いて、惑星のこうした動きを説明していた。この種の理論としては、紀元2世紀にギリシャの天文学者プトレマイオスが完成させたものが有名だが、基本的な考え方は、それぞれの惑星が「周転円」とよばれる小さな円の上を運動していて、その周転円の中心は大きな円を描いて地球の周りを運動しているとするものだ。

「アンティキテラ島の機械」の動作を実証するため、Wrightはこの装置の実用模型を製作した。この模型の大きい歯車の上には、水星、金星、火星、木星、土星の周転円に相当する小さい歯車が載せてあり、太陽のみかけの運動速度を変化させる機構もついていた。「アンティキテラ島の機械」が本当にこのような構造であったとしたら、古代ギリシャ人たちが独自の名高い天文理論を、青銅製の歯車機構として具現化した方法の巧妙さに驚かされるばかりである。

目盛りの幅が違う

ところが今回、新しい研究チームが発見した新事実は、こうした見方を完全に覆してしまうかもしれない。表側の表示盤に刻まれている同心円状の2種類の目盛のうち、円周を360分割する黄道十二宮の目盛の間隔は、その外側の円周を365分割する暦の目盛の間隔よりもわずかに広くなければならない。しかし、ピュージェット・サウンド大学(米国ワシントン州タコマ)の天文歴史学者James Evansらが、Edmundsのチームから提供されたX線スキャンデータを利用して表示盤残存部分の88度分の目盛の間隔を正確に測定したところ、黄道十二宮の目盛の間隔のほうが狭いことが明らかになった3。ということは、表示盤の失われた部分では、その分、目盛の間隔が広くなっているはずだ。

Evansらは、目盛の間隔は、太陽のみかけの運動速度の変化を表すために、故意に変えられたと考えている。従来は、表示盤の目盛はぐるりと均等に刻まれていて、周転円的な歯車機構を使って針が動く速度を変えていたと考えられていたが、Evansは、表示盤は同じ広さの2つのセクションに分かれていて、針は等速で動いていた可能性が「きわめて高い」と考えている。2つのセクションでは目盛の間隔が変えてあり、1つは目盛の間隔がわずかに狭い「高速セクション」に、もう1つは目盛の間隔がわずかに広い「低速セクション」になっていたという。この機構は、バビロニア人が太陽の運行を説明するのに用いていた「システムA」という理論と同じである。この解釈が正しいならば、「アンティキテラ島の機械」の歯車機構に反映されている天文理論は、当時のギリシャの最新理論ではなく、完全にバビロニアの理論であったことになる。

この主張を立証するのは非常に困難だ。黄道十二宮の目盛がこのように不均等に分割されているのは製作者のずさんな仕事の結果なのかもしれず、それがバビロニアの天文理論に似ているのは偶然の一致にすぎないのかもしれない。周転円的な歯車機構を使って太陽と惑星の運行を表示する模型を提案したWrightは、月の運行を機械的にモデル化している装置が、太陽の運行については抽象的な数値的枠組でモデル化していると考えるのは「非常に落ち着きが悪い」という。

しかし、古代世界研究所(米国ニューヨーク市)の天文歴史学者Alexander Jonesは、Evansの仮説を真摯に受け止めている。彼は、ギリシャの天文学者たちは、整合性よりも利便性に興味をもっていたと主張する。Evansによれば、幾何学的なアプローチと算術的なアプローチをそのように大胆に組み合わせることは、当時の時代精神に合っているというのだ。「彼らは、2種類の道具箱を同時に使って遊んでいたのです」。

カギとなる天文現象

Evansの仮説によれば、「アンティキテラ島の機械」のほかの部分についても再考が必要となる。研究者たちはこれまで、太陽と月と惑星の位置は、すべて同じ黄道十二宮の目盛の周りで表示されると考えていた。しかし、太陽のみかけの運動速度の変化に対応させるために黄道十二宮の目盛の間隔を変えてあるなら、ほかの天体の位置を正確に示すことはできなくなる。

Evansは、5つの惑星の運行は、5つの小さい表示盤の上で別々に表示されていたと考えている(上図参照)。彼はまた、これらの小さい表示盤で、惑星のみかけの位置を表示する必要はなかったと考えている。なぜなら、この装置を製作した機械工は、それぞれの惑星の運行周期における重要な出来事のタイミング(例えば、進行方向が変わるとき、夜空に最初に現れるとき、最後に現れるときなど)を表示することのほうに、より強い関心をもっていたに違いないと考えているからだ。そうであるなら、これらの小さい表示盤の針は、バビロニア人が導き出した周期の関係を表現する単純な歯車機構を使って等速で動かせばよいことになり、周転円的な歯車機構は不要になる。

Jonesは、Evansのこの推測については慎重な態度をとっているが、「当時、惑星運動について語られていたことを考えると、理にかなっています」という。彼もEvansも、装置前面の蓋に刻まれた文字から、さらに手がかりが得られることを期待している。腐食した残骸部分の内部には、文字が隠されている。現在、アテネ歴史古文書センター所長のAgamemnon Tselikasとアテネ大学の物理学者Yanis Bitsakisが、X線スキャンによりこれらの文字を丹念に復元し、翻訳している。2人はこれまでに、火星、水星、金星についての記述と、惑星のみかけの運動方向が変わるときの「停留点」についての記述を解読している。

Evansは、月の運行を表示する明らかに周転円的な歯車機構さえ、ギリシャの幾何学ではなくバビロニアの算術をモデル化している可能性があると主張する。「ピンと穴の機構」から得られる変化の大きさは、ヒッパルコスが離心円モデルで用いていた変化よりも大きく、バビロニアの月の運行のアルゴリズムで使用されていた変化に近いという。おそらく、「バビロニアの天文理論に基づく月のみかけの運動速度の変化を、歯車を用いて表す方法を考えていた機械工」が、周転円的な歯車機構を思いついたのだろうと、彼はいう。

換言すれば、周転円は哲学的な革新ではなく、機械的な革新であったということだ。ギリシャの天文学者たちは、「アンティキテラ島の機械」のような装置を見て、周転円的な歯車機構が天体の運動の周期的変化を見事に再現できることを知り、その概念を独自の幾何学的宇宙モデルに取り入れたという考えだ。

「これは、新しい可能性であり、非常に魅力的な可能性だと思います」とJonesはいう。周転円の概念を思いついたのは紀元前3世紀のギリシャの幾何学者「ペルガのアポロニウス」であるとされることが多いが、実際のところ、証拠はほとんどない。興味深いことに、歯車と周転円はほぼ同時期に発明されたが、歯車のほうがわずかに早かったようである。紀元前3世紀には、アルキメデスが単純な歯車を利用して、かけた力の大きさを変えてみせている。その約2世紀後には、ローマの政治家であり、哲学者であり、文筆家でもあるキケロが、アルキメデスが真鍮製の天体観測装置を製作したと記している。もしかすると、この装置は「アンティキテラ島の機械」に似ていたのかもしれない。

「我々は、工学と天文学とのつながりについて再考する必要があるのかもしれません」とEvansはいう。「これまでは完全に一方通行の関係しか考えられていませんでしたが、相互作用とよぶべき関係だったのかもしれません」。

2000年前、名もなきギリシャ人の機械工が「アンティキテラ島の機械」の複雑な歯車機構を製作した。だがそれは、青銅製の模型以上のものだった。彼は、その後現代まで通説として認められることになる宇宙観の誕生に手を貸したのだ。

海底に眠っていた天の鏡

「アンティキテラ島の機械」はどこから来たのか?

1900年に、地中海で海綿を採集していた潜水夫たちが嵐に遭った。彼らはアンティキテラ島という小島に避難し、古代の沈没船を発見した。船からは、彫像、宝石、武器、家具などが発見され、その中に、時計のような奇妙な装置があった。

沈没船の調査から、船はローマのもので、紀元前70~60年に地中海東部からアンティキテラ島にやってきたものと考えられている。ローマは当時、小アジアでポントスの王ミトリダテス4世と戦っていたので、沈没船はその戦争での戦利品を運んでいたのかもしれない。

「アンティキテラ島の機械」は当初、ロードス島で製作されたと考えられていた。船がロードス島に立ち寄っていたのはほぼ確実だし、ここではギリシャの天文学者ヒッパルコスが活躍していたからである。しかし、記されている月の名は、ギリシャ北西部からシチリア島にかけて広がっていた都市国家コリントスで用いられていたものと最も関係が深いことが明らかになった4。また、この装置にはオリンピア競技をはじめとする各種の競技会の開催時期を示す4年周期の小さい表示盤がついているが、そこに「ナア」という小規模な競技会が含まれていた。ナアは、ギリシャ北西部のドドナの周囲に住む人々しか関心をもっていなかった。つまり、「アンティキテラ島の機械」がこの付近で製作されたか、この付近で使用するために製作されたことが示唆される。テッサロニキ大学(ギリシャ)のMagdalini Anastasiouらは、装置の星暦に列挙されている天文現象の順序から、装置を使用するはずだった場所の緯度を導き出そうとしている。彼らの研究から、この推理を裏付ける結果が得られるかもしれない。

一方、ヴェローナ大学(イタリア)の歴史学者Attilio Mastrocinqueは、黒海南岸にあったポントスの首都シノーペから略奪されたと考えている5。古代ギリシャの地理学者ストラボンによると、ローマの将軍ルクルスが紀元前72~71年にシノーペを征服したとき、神秘的な「ビラルスの天球儀」を入手したという。この天球儀がその後どうなったのか、記録は全く残っていない。Mastrocinqueはその理由を、船で運ばれる途中にアンティキテラ島の付近で海底に沈んでしまったからだと考えている。

J.M

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 2

DOI: 10.1038/ndigest.2011.110216

原文

Ancient Astronomy: Mechanical Inspiration
  • Nature (2010-11-25) | DOI: 10.1038/468496a
  • Jo Marchant
  • Jo Marchantは、ロンドン在住のライターであり、「アンティキテラ島の機械」に関する著書がある(邦訳『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』ジョー・マーチャント著 木村博江訳 文藝春秋)。

参考文献

  1. Freeth, T. et al. Nature 444, 587-591 (2006).
  2. Wright, M. T. Interdiscipl. Sci. Rev. 32, 27-43 (2007).
  3. Evans, J., Carman, C. C. & Thorndike, A. S. J. Hist. Astron. 41, 1-39 (2010).
  4. Freeth, T., Jones, A., Steele, J. M. & Bitsakis Y. Nature 454, 614-617 (2008).
  5. Hojte, J. M. (ed.) Mithridates VI and the Pontic Kingdom 313-320 (Aarhus Univ. Press, 2009).
  6. 参考ビデオ:
    https://www.youtube.com/watch?v=DiQSHiAYt98
    https://www.youtube.com/watch?v=znM0-arQvHc
    (本記事の直接関連動画ではありませんが、機械の仕組みがわかります。)