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イレッサで患者が救えることを信じ続けた医師 (萩原 弘一)

––Natureダイジェスト:イレッサは、どんな薬なのですか?

気管支鏡で得た肺がんの細胞。

萩原:肺がん患者さんに驚くほどよく効く薬です。肺がんで寝たきりだった患者さんが、歩いて帰れるほど元気になる例もあります。

肺がんのうち80%を占めるのは、「非小細胞性肺がん」と呼ばれるタイプなのですが、イレッサはこのタイプに対する治療薬です。日本では2002年に、米国では2003年に認可されました。

––まるで夢のような薬なのですね。

ところが残念ながら、予期せぬ副作用が出たのです。不幸なことに、劇症の間質性肺炎を起こして急死する人が相次ぎ、薬害訴訟問題に発展しました。

さらに、2004年に発表された国際的な臨床試験の暫定的な結果では、東洋人を除くと、イレッサの明確な延命効果が実証されなかったのです。ヨーロッパでは認可申請取り下げ、米国では使用停止になりました。

––日本の医療現場では、どうでしたか?

日本の医師の間では、その薬効が実感されていましたから、何とか使い続けられないかという要望が強かったですね。副作用を避けようと、それが出るタイプの患者さんを見分ける努力が続けられました。

––萩原先生は、イレッサが効く人と効かない人の判別に有用な遺伝子変異検査法を開発されたのですね?

はい。まず、ハーバード大学や名古屋市立大学などの研究者たちにより、イレッサの作用についての重要な発見があったのです。それを利用して、イレッサが効く人と効かない人を見分け、効く人たちにだけイレッサを投与すれば、有効な治療ができるだろうと考えました。

––どんな発見だったのですか?

細胞の表面には、細胞増殖を制御するEGF(上皮細胞増殖因子)受容体があります。イレッサは、この受容体を標的にした薬なのですが、イレッサが効く患者さんの場合、この受容体を作る遺伝子に変異が生じていることがわかったのです。

がん化した細胞には、さまざまな遺伝子変異が発生します。けれども、どんな遺伝子にどんな変異が生じるかは一様でなく、人によって違いがあるので、イレッサの効果も、人によって変わるのです。

臨床と基礎研究では検査法に違いがある

––それで、EGF受容体(EGFR)の遺伝子変異の検出に着目されたわけですね?

そうです。しかし、患者さんを検査して、つまり臨床で遺伝子の変異を調べるとなると、そう簡単ではありません。実験室の実験ならば難しくはありませんが。

––どのように調べたのですか?

まず、患者さんから検体を得なくてはなりません。検体としては一般に、組織、細胞、血液の3つが考えられます。

組織を得るためには手術が必要ですが、手術をしておきながら、遺伝子検査の結果が陰性で治療ができなかったら、患者さんに与える心理的影響はとても大きなものになります。そこで、肺がん患者さんすべてに組織検査を行うのは難しいと考え、これは、検討対象から外しました。

血液検体の場合、検査の感度を満たすためには、がん細胞が血液1ml当たり数十個必要です。これがどのくらいの量かを計算すると、心臓が毎分5000mlの血液を送り出すとして、1日当たり5gものがん細胞が血液中に流出することに相当します。こんな大量のがん細胞が、初期のがん患者の血液中に存在するとは考えられません。そこで血液も検討対象から外しました。

––では、細胞検体を用いたのですね?

はい。細胞の入手は、診療の流れにうまく組み込むことができると判断しました。肺がんの診断では、気管支鏡を挿入して患部の細胞をこすり取り、その細胞を顕微鏡で見て判断します。その際に、こすり取った細胞検体を2つに分けて、半分を診断用に、残りの半分を遺伝子変異の検査に用いる方法が、現実的だろうと考えたのです。

遺伝子変異の検出は、遺伝子を増幅するPCR装置を利用すれば可能であることがわかりました。

––ほかにはどんな点を工夫されましたか?

患部から得た細胞検体には、がん細胞だけでなく正常細胞も混ざっています。ですから、正常細胞の遺伝子は検出せず、がん細胞の遺伝子だけを検出する「高感度な検査」にする工夫が必要でした。そのためには、正常細胞とがん細胞がどのくらいの割合で混ざっているかを知る必要もありました。

そこで、病理診断で使用された検体写真中に含まれるがん細胞の数を実際に数えました。その結果、病理医ががんと診断している検体では、正常細胞100個に対し、がん細胞が1個(1%)以上あることがわかりました。これが臨床での病理診断の感度です。この数字を目安に、遺伝子検査の感度を決めました。こうして、2004年の夏頃に、検査法が完成しました1

実際の患者さんで効果を試す

––次に臨床の現場で試されたのですね?

この検査法が患者さんの治療に有効であることを実際に確かめるため、臨床試験を行いました。2004年の秋から東北大学病院、宮城県立がんセンター、日本医科大学付属病院、北海道大学病院などの医師たちとともに、患者さんの同意が得られた場合に、検査を実施することにしたのです。

臨床試験結果。手術ができない肺がんの治療で、EGF受容体の遺伝子変異陽性の患者(230人)にイレッサを用いた。対照群の5.4か月に対し、イレッサ使用では10.8か月後まで悪化せず、がんの進行が1/2倍遅かった。

そして、遺伝子変異を持つことがわかった患者さん約230人にイレッサを投与した結果、がんの進行速度が遅く(平均で2分の1に)なる効果が得られるとわかったのです。日本人の肺がん患者さんで、このEGFR遺伝子に変異を持つ人は、約30%(2万人以上)に達します。

私たちの検査法を含め、複数の検査法が商業化されました。いずれも臨床検体を2つに分け、片方を病理検査、片方を遺伝子検査にする手順を採用しています。実績は徐々に増え、2009年の時点で日本人の肺がん患者の約65%がEGFR遺伝子変異検査を受けています。臨床で使用可能な検体を考え、手順を決め、検査方法を確立したことがよかったと思います。

臨床試験の成果は2010年に論文として報告しました2。現在は、米国、英国、ヨーロッパのがん学会のガイドラインや、英国、仏国、オランダなどの国のガイドラインに、EGFR遺伝子変異検査の重要性が記載され、実際のがん治療に利用されています。

––多くの患者さんが、この遺伝子検査の恩恵を受けたのですね?

そうです。臨床の現場で実際に使用可能な遺伝子検査を実現できたと思います。ただし、ごくわずかですが、イレッサの副作用の出る方がまだいらっしゃいます。投与後の経過を慎重に観察する必要があります。また現在、患者さんのQOL(生活の質)の向上という観点からも効果を調べています。

––臨床の医師と基礎の研究者が協力することが重要に思えます。

そのとおりです。人間を対象にする場合、いろいろな制約があります。制約をクリアし、臨床の現場で実施できるものでないと、役には立たないのです。また、臨床医と基礎研究者が協力する場合には、両者を橋渡しする人の存在も重要です。臨床医と基礎研究者が議論できないといけませんし、研究者からの提案が臨床の現場で実施可能なものなのかを見極めたり、臨床医からの提案を研究者に伝える場合もあるでしょう。

––萩原先生は、その役割を果たしていらっしゃるのですね。いろいろなアイデアはどうやって生まれるのですか?

最先端の手法だとか流行のテーマにそれほどこだわらず、自分の頭で考えてアイデアを出すようにしています。予算がないときに、使えるのは頭しかないですから。

若いときには研究に専念したい思いもあったのですが、そのときよりも、今のほうが充実しているかもしれませんね。

––ありがとうございました。

Nature ダイジェスト Vol. 8 No. 12

DOI: 10.1038/ndigest.2011.111226

参考文献

  1. Nagai Y et al. Cancer Res 65, 7276-7282 (2005).
  2. Maemondo M et al. New England J Of Medicine 362, 2380-2388 (2010).