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科学は時代と共に変わらねばならない

Credit: ILLUSTRATION BY SEÑOR SALME

Nature が創刊される3年前の1866年、大西洋横断電信ケーブルによって英国と北米の間に高速通信が確立された。このケーブル敷設の成功を受け、ウィリアム・トムソン(William Thomson;後のケルヴィン卿)は敷設計画への科学的助言の功績によりナイト爵位を授与された。トムソンはそれ以前の1858年の敷設工事にも助言をしていたが、その時の通信ケーブルは敷設当初からほとんど機能せず、数週間足らずのうちに使い物にならなくなった。

この多大な損失をもたらした失敗への反省もあり、1870年代に入ってケンブリッジ大学(英国)にキャベンディッシュ研究所が設立された。英国の将来を担う、物理学の基礎知識を十分に備えたエンジニアを育てようとしたのである。初代所長にはジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell)が就任した。彼の1860年代中頃の電磁気理論は、やがて1887年の電磁波の発見につながり、これにより間もなく「無線」通信が可能となって、ケーブルによる電信は1世代前のものになった。

このように、明らかに西欧社会、もっと具体的に言えば英国社会では、基礎科学研究が社会を変革する産業革命の原動力だと見なされ、そうした時代背景の中でNature が創刊されたわけである。ノーマン・ロッキャー(Norman Lockyer)がロンドンで創刊したこの雑誌は、19世紀末までに世界人口の約5分の1を包含するほどに拡大した大英帝国の視点から、基礎科学研究の発展を紹介した。Nature の読者たちは、学術研究機関および科学の体系的組織化が、学術界においても産業界においても利益をもたらすことを確信した。

80年後、この英国の科学振興を手本にして、1945年にバニバー・ブッシュ(Vannevar Bush)が米国大統領フランクリン・D・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)宛てに報告書を提出した。『Science — The Endless Frontier(科学 — 果てしなきフロンティア)』と題したこの報告書は、政府に基礎科学研究を支援し、国の安全保障、公衆衛生および福祉を促進するよう訴えたものであり、米国立科学財団(NSF)の設立にもつながった。この報告書には、科学とは、好奇心に促され、探究の自由が保証された中で国家および人類の利益に貢献しようとするある種の冒険だという、楽観的で非常に単純な展望が述べられている。

マクスウェルの電磁気学にせよ、ブッシュに着想を与えたマンハッタン計画にせよ、あるいはヒトゲノム計画にせよ、科学というものには確かに社会を変えてしまう大きな力がある。進歩とは、科学により成し遂げられるものではないのだろうか。それとも、結局それではまずいのだろうか。

この質問に答えようとすると、よくある二極化した議論が引き起こされる。一部の評論家は、自由な科学の発展という見識に疑問を呈し、気候変動や環境略奪、核兵器、抗生物質耐性の問題を挙げたり、人工知能やロボット工学、情報技術、遺伝子操作の持つ功罪両方の影響を指摘したりしている。一方、Nature 創刊以降の期間とほぼ重なる現代科学の時代では、生活の質の指標(寿命や乳児死亡率など)が着実に向上し続けている(地理的・時期的に不均一ではあっても)と指摘する評論家もいる。

しかし、善悪二元論的な見方や「軍民両用」という言葉のあやでは問題の核心を見失ってしまう。マクスウェルの時代からごくわずかずつ変化を続けながら進んできた科学の手法や実践、精神は、我々が現在直面する概念的および実際的な課題と照らし合わせたときに、果たして目的にかなうものなのだろうか。現代の科学に立ちはだかる重要な問題の一部がそこにある。科学は、その社会契約を満たし続けながら、今までと同じ歩み方で前進し、新たな地平に到達することができるのだろうか。あるいは何かを変える必要があるのだろうか。

外部に目を向ける

我々の現在の立ち位置を考えてみよう。過去1世紀ほどの慣例では、知識の未踏分野は非常に大きいスケールと非常に小さいスケールの2つに分けられる傾向があった。現在の我々には、そこに非常に複雑なものを加える傾向もあるかもしれない。これは通常、ヒトが直接経験するような中間のスケールと関連する。

現在では、両極端のスケールの分野(基本粒子と宇宙論)は関連していることが分かっている。知識の島が大きくなるにつれて、知識が途絶える地平線の外周も広がっていると、ダートマス大学(米国ニューハンプシャー州ハノーバー)の素粒子宇宙論研究者Marcelo Gleiserは話す。「知れば知るほど我々は自分の無知を知ることになり、問うべきことも増えていくのです」と彼は記している1

暗黒物質(ダークマター)の重さが全ての可視物質の重さの5倍になることが判明してから、まだ数十年しか経っておらず、暗黒物質が何でできているかを知るところまでは達していない。また、宇宙の膨張を加速させる暗黒エネルギー(ダークエネルギー)と呼ばれる謎に包まれた存在が、宇宙のエネルギー総密度の3分の2以上に当たることが認識されてからも、わずか20年しか経っていない。宇宙に関する我々の知識がこれほど不完全に思える時期は、これまで一度もなかった。

最大スケールのこれらの空白を埋めるには、最小スケールの物理世界の解明に頼ることになるだろう。現在その見通しはかなり暗く、絶望や憎悪すら感じるほどだ。スイス・ジュネーブ近郊にある欧州原子核研究機構(CERN)の世界最大の粒子加速器「大型ハドロン衝突型加速器」は今のところ、既知の物理学をどのように越えて進むかについて何の手掛かりも提供できずにいる。エレガントな発想というものは、事実が欠如した残念な状況に直面して消えかかっているように見える。一方で、モデルをアイデアへと推し進める動きもある。例えば、ビッグバン理論のインフレーション・モデルで現在認められている「多数の宇宙(マルチバース)」だ。一部の批判的な人々の目には、これは科学の実証的基盤そのものを捨て去っているかのように映る。

ただし、我々の宇宙観は次第に難解になる一方で、かつてないほど具体的にもなっている。1860年代には、宇宙の他の世界にも生命体が広く存在していると普通に考えられていた。1897年に連載開始されたH・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』(ウェルズが着想を得たのは、Nature に掲載された論文であった)は、人々の恐怖心を大いにあおったが、そうなったのは、火星には実際に生命体が存在すると広く信じられていたためだった。この俗信は、その後も半世紀にわたって続いた。火星の表面の色調が季節ごとに変化するのは、植物の成長だと解釈された。また、天文学者ジョバンニ・スキアパレッリ(Giovanni Schiaparelli)が記載した火星表面の線状模様は、他の人々によって人工的な水路とされてしまったことで有名である。

しかし、1976年にバイキング1号と2号の火星着陸船が、殺風景で荒涼とした火星の景観を明らかにしたため、宇宙は寒々しく生命体のいない空間であり、人類は孤独な存在だという意識が強まった。アポロ計画による何度かの月着陸でこの意識はいっそう強まり、物理学者エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)の「異星人の来訪がないように見えるのはなぜか」という有名な問いにもそれが反映された。ただし、今ではもうそんなことはない。太陽に似た恒星の周りを回る太陽系外惑星が初めて見つかり、1995年にNature で報告された2(この業績に対して2019年のノーベル物理学賞が贈られた)。現在では、確認された系外惑星は約4000個にもなる。

ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡に取り付けられた反射鏡セグメントの最初の6枚。 Credit: NASA/MARSHALL SPACE FLIGHT CENTER/DAVID HIGGINBOTHAM

どうやら太陽以外の恒星にも惑星系がごく普通にあり、地球型の惑星もかなりありふれた存在だと思われる。そうした惑星の一部ではすでに、大気についても少しだけ分かっている。じきに、もっと多くのことが分かるだろう。2018年にNASA(米航空宇宙局)のトランジット系外惑星探索衛星が打ち上げられており、2021年にはジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が打ち上げられる予定なのだ。研究者らは現在、地球外の生命体が存在するか否かを近い将来(自分の生きている間にも)推測できるかのような話しぶりだ。

では、これで我々の存在はどう位置付けられるのだろうか。宇宙論的な見方をすれば、人類を宇宙の中心から外すというコペルニクス的転回を理解した時のような感覚が続くことだろう。我々がいる場所は、広大な宇宙の中のちっぽけな点であるどころか、もしかすると、潜在的に果てしなく存在するマルチバースの中のちっぽけな宇宙の1つなのかもしれない。これ以上の極端な格下げがあるとは想像しにくい。

コペルニクス的転回ではない別の見方もある。その考え方では、至る所に居住可能な世界があり、我々は依然として、ひどく居心地悪そうに物事の中心にいる。インフレーション・マルチバース論(インフレーション理論で生じる多宇宙)では、我々の存在が、自然の基礎定数を説明することになる。それらの定数は、他の宇宙では違う値を取る可能性があるが、我々の存在に必要な条件が、我々がいる宇宙を我々自身が見ることを保証するのである。

量子力学(かつては評判がさえなかったが今では流行のテーマ)の基礎が、この描像の混乱ももたらしている。「多世界」という解釈は現在、1950年代に米国の物理学者ヒュー・エベレット(Hugh Everett)がこれを提案した当時よりも人気がある。この解釈では、宇宙の数を(宇宙論的なマルチバースとは異なる形で)増やし、「我々」のそれぞれも計り知れないほど増やす。一方、米国の理論物理学者ジョン・ホイーラー(John Wheeler)の「参加型宇宙論」や、QBイズム(QBism;量子的ベイズ確率)3などの新しい解釈では、量子論には、科学が通常提供するような概念的で客観的な枠組みではなく、観察者の存在が必要だと考える。

これらの考え方はまだ理論の域を出ないが、ニュートン学説の約束事である無機的な力学に疑問を投げ掛けている。

内部に目を向ける

言い換えると、我々はいつ科学の枠組みから自身を除外できるのか、また、それが果たして可能かどうかはまだ不明である。これは、マクスウェルにとって何ら驚くことではなかっただろう。彼の物理的実体に関する考え方は、人類に特別な地位を与えたある種の宗教的存在を(ニュートン学説以上に)前提としたものだった。

この場合、もちろんチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)もその枠組みに入る。『種の起原』(1859年)の中で公表された、自然選択による進化に関する彼の考え方は、Nature 創刊時にもまだ衝撃の波紋を広げていた。その2年後、ダーウィンは『人間の由来』(1871年)で最後の爆弾を投下した。彼の考え方が重要なのは、教会を根底から揺るがす爆薬となっただけでなく、何をもってヒトであるとするのかという1世紀半にわたる議論の火蓋を切る役目もした点だ。もし闘いがあったとすれば、それは、どの本をよりどころにすべきかについてではなく、誰が最も決定的な権威を持つかについてだった。科学の世界ではまず進化論、続いて精神分析学、そして今は遺伝学と神経科学が領有権を主張している。

Nature の創刊100周年の頃は、遺伝学と神経科学に肩入れした人もいたかもしれない。その半世紀後の現在、それら2つの領域から「決定的な一言」が聞けるかどうかは分からない。ゲノムワイド関連解析4などの急増するデータセットに強力な新手法を用いることで、研究対象に選んだほぼ全てのヒトの行動形質に対応したり、健康および疾患に影響を及ぼしたりする、確実で時には強力な遺伝的要素が明らかになってきた。しかし多くの場合、遺伝的影響の機構解明には依然として程遠い段階にある。そして、多数の(時には恐らく数千の)遺伝子が関与する形質については、我々が認識や測定できるものの原因であると断定できるレベルにあるのかどうかさえはっきりしない。

発生や組織機能の全体像が単一細胞の転写レベルで(そして恐らく、じきに翻訳レベルでも)明らかになってくることで、新たな階層の複雑性も加わる5。同じ組織内にある一見同じような細胞が、さまざまな遺伝子発現動態を示す場合もある。ゲノムは、生物個体が自身の体を構築し維持する仕組みについて、物語を読み解くのに使う辞書以上には我々に教えてくれない可能性もある。新しい手法は、最終的に何とか古い疑問に答えるのではなく、単にそれらの疑問を無効にして、ゴールポストをそっくり移動させるだけなのかもしれない。これは、ゲノミクス自体が人種の概念に対して行ってきたのと同様である。

神経科学は遺伝学と同様、収集可能なデータが限られるため、問える疑問にも制限があった。機能的磁気共鳴画像法はいまだに切れ味の良くないツールであり、脳内のどこが活性化しているかを粗い解像度で捉えはするが、何が起こっているかは捉えられない。ヒトの脳は、ニューロンの結合や発火パターンを包括的に描き出し、おそらくシミュレーションすることで解明できるのではないかとする考え方は、(問題の多い欧州の「ヒト脳プロジェクト(HBP)6」によって)議論の俎上に載るとすぐに異論が投げ掛けられた。

いまや我々は、「複雑性」の未開拓分野に一足踏み入れたところに到達している。こうした複雑系の理解は、たとえ歴史を指針にしたとしても、最先端技術で類似性を引き出すことでは得られないと考えるべきである。脳が(19世紀初期に考えられていたように)バッテリーなどではないように、脳はコンピューターでもなく、ゲノムはデジタルな一連のパーツでもない。また、たとえリソースとしての価値が極めて高いデータがあったとしても、新しい着想がなければ役には立たない。供給不足なのは新しい着想なのである。マンチェスター大学(英国)の神経生物学者で歴史学者のマシュー・コブ(Matthew Cobb)はこう書いている。「脳がどのように働くかに関する我々の全般的な理解には、半世紀にわたって概念上の大きな変革がありません」7

従って、意識という「難問」への言及がほとんどないのは当然であり、まして解明などは程遠い段階だ。このテーマについて真面目に考える人たちは、意識を錯覚と見なす立場から、ヒトの経験に関する理論を構築する際の唯一の有効な出発点だと考える立場までさまざまだが、我々はまだ、ありとあらゆる立場を受け入れる段階にある。後者の立場は、1915年にNature が紹介したように8、米国の心理学者ウィリアム・ジェイムズ(William James)が「実在と表象の間にある伝統的なアンチテーゼ」をどのように無視したかを思い出させる。神経科学が自由意志を消し去った(例えば「脳スキャン像から、意識の表明より前に意思決定を予測できる」ため)という主張に関して言えば、「あなたが意思決定する前にあなたの脳が意思決定している」というだけでは、単に英国の哲学者ギルバート・ライル(Gilbert Ryle)の「ホムンクルスの誤謬」9という有名な無限後退に回帰するにすぎない。

新しい見方

科学が過去1世紀半にわたって変化してきた道のりには、大きく立ちはだかるものが3つある。第1に、科学はもはや、研究室にいる研究者が単独で進めるものではなく、研究室や学部・学科、学問領域、研究機関、大陸をまたぐ共同作業となっている。第2に、多くの場合、頼りとするデータセットはあまりに膨大で、ヒトの脳では全てを保持もしくは解析できない。第3に、科学は、気候温暖化やカーボン・ニュートラルな経済の必要性から感染症流行や水の安全保障まで、世界的広がりや存亡に関わる緊急性のある問題にますます直面している。

しかし、こうした必要性の変化は、報奨金や、資金提供の仕組み、賞の授与、そして一般向けのメディアには反映されていない。それに、科学のシステム上の偏向は依然として根強く存在する。例えば女性やマイノリティーの人々の参加や昇進を阻む障壁、医療データベースの人口統計学的範囲の偏り、アルゴリズムの設計者から引き継ぐ先入観などだ。科学の国際協力でさえも、現行の政治の流れによって脅かされる。生物学者トーマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley)がNatureの最初の号で「科学の進歩」と呼んだものを、止めようのない勝者の前進だと見なすことは、危うい自己満足だと現在では思われている。

そうした問題が、科学におけるシステムの不完全性ではなくシステムのもたらした結果なのかどうかを問い掛けるべき時である。実践者を単一の思考モードに向かわせることは、科学の妨げになる可能性がある。19世紀に社会のごく限られた層から晶出された、伝統や慣習、研修、分野の境界、手法、責任、社会契約がいまだに研究の最良の在り方に違いないという前提には、思い上がりがある。こう言ったからといって、ポストモダニズムの流行の風刺画に屈しようというのではない。そうではなく、モデルを開発し、暗喩を展開し、優先順位を分け合い、業績を認めて報奨し、被験者を募る際、その方法に組み込まれていて多くの場合は見えない、疑うべき前提が存在していることを認識しようということだ。

標準的な科学論文は、統一された受動態や、門外漢には分からない自己完結的な文章展開、目を引きつける確信的な表現の図表、標準化された形式を備えており、最終的にはその影響が数値で定量化される。しかし論文は、現在の科学研究を社会に役立てたり広めたりするための唯一の手段でも最良の手段でもない。論文とは、疑問を提起し、答えるためのものだ。科学を社会に役立てる人間や方法については多様性を増やす余地がある。例えば、気候の科学が最終的に公の議題に盛り込まれるために必要だったのは、自閉スペクトラム症の少女の率直さと勇気だったなどと誰が予想していただろうか。

科学の歴史は我々に、最も難解な疑問の一部は、答えを得ようとするのではなく、もっと良い疑問で置き換えようとすることで対処できるだろうと教えてくれる。現在の我々を悩ませていて、こうした対処の運命をたどりそうな疑問といえば、まず、生命とは何か、そして意識とは何か。また、個人を個人たらしめているものは何なのか。我々の宇宙が我々の存在に合わせて調整されているように思えるのはなぜなのか。いったい全体、宇宙はどうやって始まったのか、といった疑問だ。これらの疑問に磨きをかけるには、創造的で多様な思考が必要となるだろう。なぜなら、新しい地平からの眺めは、我々が予測したものとは恐らく異なっているだろうから。

翻訳:船田晶子

Nature ダイジェスト Vol. 17 No. 1

DOI: 10.1038/ndigest.2020.200112

原文

Science must move with the times
  • Nature (2019-11-05) | DOI: 10.1038/d41586-019-03307-8
  • Philip Ball
  • Philip Ballはサイエンスライターであり作家。 最新の著書は『How To Grow a Human(ヒトの作り方)』。

参考文献

  1. Gleiser, M. The Island of Knowledge: The Limits of Science and the Search for Meaning (Basic Books, 2014).
  2. Mayor, M. & Queloz, D. Nature 378, 355–359 (1995).
  3. Mermin, N. D. Nature 507, 421–423 (2014).
  4. Tam, V. et al. Nature Rev. Genet. 20, 467–484 (2019).
  5. Pennisi, E. Science 362, 1344–1345 (2018).
  6. Abbott, A. Nature 511, 133–134 (2014).
  7. Cobb, M. The Idea of the Brain (Profile, in the press).
  8. Crawley, A. E. Nature 95, 200–201 (1915).
  9. Ryle, G. The Concept of Mind (Hutchinson’s, 1949).