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欧州の10億ユーロの量子技術研究計画

量子コンピューターなどの量子技術は、欧州の次の大きな研究プロジェクトだ。 Credit: ION QUANTUM TECHNOLOGY GROUP, UNIV. SUSSEX

中国と米国が量子技術の市場を独占する恐れがある中、欧州も独自に量子技術への研究投資を始めようとしている。欧州委員会は2016年4月、量子技術研究に10年で10億ユーロ(約1300億円)を投じる大型研究プロジェクトをスタートさせることを発表した。しかし、計画の詳細はまだ明らかになっていない。このほど英国・ロンドンで開かれた会議での、計画を推進する研究者らの発言から、計画の進め方のほか、課題や懸念も浮き彫りになった。

この研究計画は「量子技術フラッグシップ」と呼ばれる。欧州連合(EU)の行政機関である欧州委員会は、10年間で10億ユーロ規模の大型研究計画、「グラフェン・フラッグシップ」と「ヒト脳プロジェクト」を進めているが、それに続くものだ。通信、計算、計測、シミュレーションの4つの量子技術と、量子分野の基礎科学の研究に助成する。量子系が示す奇妙な振る舞いを利用し、例えば、安全性の非常に高い通信システムや、小型の超高精度センサーなどの新技術の開発を目指している。

量子技術フラッグシップは2016年4月、クラウド・コンピューティングに関する、一見関連の薄い計画の一部として、あまり目立たない形で公表された。欧州委員会の広報担当者Nathalie Vandystadtはこのとき、「量子技術フラッグシップが具体的にどのような形態になるかはまだ決まっていません」と話していた。

計画の運営委員会は2017年2月、この計画に関する中間報告書を発表したが、計画の管理形態についてや、EU加盟国、欧州委員会、出資組織が計画にどう関わるかについての具体的な記述は最終報告(2017年9月予定)に見送られた。2017年秋に研究提案の募集が発表され、2019年1月に助成を受けた研究が始まるというスケジュールが提案されている。欧州委員会によると、10億ユーロは、欧州委員会の他、EU加盟国、参加企業などが負担する見込みだという。

産学の温度差

実のところ、この計画は他国を追いかける立場にある。グーグルやマイクロソフトなどの大企業を含め、欧州以外の地域の多くの研究機関がすでに量子技術の開発を進めている。欧州委員会上級研究フェローのMartino Travagninは、量子技術における特許権取得を分析した。彼は「欧州は量子技術分野で優れた研究結果を出してはいますが、他の地域はより多くの特許を申請しています」と指摘する。

中国は現在、量子通信の分野で最も多くの特許を持ち、この分野で優位を占めている。量子通信の典型例は、暗号化のための共有秘密鍵を粒子の量子もつれなどの量子的性質を使って配送するものだ。中国は、すでに長さ2000kmの地上量子通信路の試験を行っていて、2017年6月には量子通信衛星から地上へもつれた光子を送ることに成功したと発表した。一方、米国は、量子計算と超高感度センサーでの特許権取得でリードしている。

2017年4月7日、英国・ロンドンのロシア科学文化センターで開かれた会議で、量子技術フラッグシップ運営委員会の委員らが、計画の進め方について説明した。運営委員会の一員で、スロバキア科学アカデミー量子情報研究センター(同国ブラチスラバ)の物理学者Vladimir Buzekは、「欧州の産業界はあまりに長い間、動き出さないままでした。もはや、この計画に乗り遅れることはできません」と訴えた。

産業界は、運営委員会に加わる12人の委員を通じて計画の運営に参加している。しかし、運営委員会の科学者たちは、産業界が研究投資に消極的だと感じている。Buzekは「産業界は、学術研究グループがもたらす成果をただ待ち、機が熟したら成果を手に入れようとしているように思えます」と釘を刺した。この背景について、日本のある研究者は「欧州の学術界は、量子技術を実用化する戦略を示す努力をしていません。だから、産業界は、学術界主導で基礎研究寄りのこの計画を冷めた目で見ています。助成額も企業にとっては小さい」と話す。

先行計画の轍

EUのグラフェン・フラッグシップとヒト脳プロジェクトはいずれも2013年に始動したが、今のところ、成果を十分に出しているとはいえない。ヒト脳プロジェクトは、その進め方について研究者からの批判が相次いだ(go.nature.com/2pbjuufNature ダイジェスト 2016年7月号「ヒト脳プロジェクトが計算ツールを公開」参照)。また、どちらの計画も加盟国から補足的な出資金を集めることに苦労しているという。

ドイツのウルム大学とシュツットガルト大学に付属する統合量子科学技術センター(IQST)の物理学者で、運営委員会の一員であるTommaso Calarcoは、「量子技術フラッグシップは、これらの先行計画のようなことにはならないでしょう」と話す。量子技術フラッグシップは、スタート時に選ばれた研究プロジェクトだけの閉じた共同体として進むのではなく、計画の全期間を通して、公募された研究を行うことになるという。「この進め方は、高いレベルの競争を保証し、常に最も優れた研究者に研究資金を供給する柔軟性をもたらすはずです」とCalarcoは話す。そして、こうした進め方なら、加盟国がさらに研究資金を得るために、自国レベルでも量子技術研究に投資することを促すだろうと彼は期待する。

欧州の一部の国は、量子技術フラッグシップを支持する姿勢を示している。フラッグシップの発表後、ハンガリー、オーストリア、ドイツは自国の量子技術研究計画を公表した。「QUTEGA」と呼ばれるドイツの計画は現在、試験的計画段階にあるが、10年間で約3億ユーロ(約400億円)を投じるだけの価値がありそうだ。マックス・プランク光科学研究所(ドイツ・エルランゲン)の物理学者で、QUTEGAの責任者でもあるGerd Leuchsによると、最初の研究プロジェクトには、微小な電流を検出し、手術時の脳の観察に使われる可能性がある小型磁気センサーや、小型で輸送可能な高精度原子時計などの研究が含まれているという。

英国のEU離脱

量子技術フラッグシップが直面する問題の1つは、量子技術における欧州最強の研究者集団の1つである、英国を失う可能性があることだ。英国は、EU離脱を決めた国民投票に従い、2019年にEUを離脱する見込みだが、フラッグシップの最初の研究プロジェクトはこの年に始まる。「英国は、国の研究予算で関連企業を量子技術研究に巻き込んでいる数少ない国の1つです」とCalarcoは指摘する。英国の計画は「英国国家量子技術プログラム」といい、総額は3億5000万ポンド(約510億円)に上る。英国は、EU非加盟国のスイスのようにEUの研究資金に拠出するか、マッチ・ファンディング(助成金を、助成される側が自ら集めた金額に応じて決める仕組み)の形によってか、何らかの立場でEUの研究計画に参加し続けることができるだろうとCalarcoは期待する。

計画のタイミングも有利に働くはずだ、と彼は指摘する。英国政府は、既存のEU計画への資金拠出に同意することを表明しており、研究計画の初期の間は英国からの出資は保証されるだろう。英国の離脱交渉の後、研究計画の次の段階が始まるまでに、英国の参加に関する問題の打開策が作られる時間は十分にあるはずだ。「そうした状況を考えれば、現在の計画のタイミングは考え得る限りでベストといえます」とCalarcoは話す。

翻訳:新庄直樹

Nature ダイジェスト Vol. 14 No. 8

DOI: 10.1038/ndigest.2017.170810

原文

Europe’s billion-euro quantum project takes shape
  • Nature (2017-05-04) | DOI: 10.1038/545016a
  • Elizabeth Gibney