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容疑が晴れたHIVペイシェント・ゼロ

Gaétam Dugas 1980年頃 Credit: Rand Gaynor

1982年、社会学者William Darrowと米国疾病予防管理センター(CDC)の共同研究者たちは、同性愛男性たちの間で爆発的流行を見せていたカポジ肉腫と呼ばれる皮膚がん症例について、ジョージア州からカリフォルニア州にわたって調査を行った。Darrowは、がんの原因となっている病原体は性行為によって広がるのではないかと考えていたが、確証はなかった。後にカポジ肉腫は、HIV感染の合併症の1つであることが判明する。突破口が開いたのは、4月のある日のことだった。Darrowは、3つの異なる郡に住む3人の男性が性交渉の相手として挙げた人々の中に、共通する1人の男性がいることが分かったのだ。その人物とは、Gaétam Dugasという名前のフランス系カナダ人のフライト・アテンダントだった。

CDCの研究者は、Dugasがニューヨーク市にいることを突き止めた。彼はそこでカポジ肉腫の治療を受けていた。そしてDugasの協力により、HIVと性行為の決定的な関係が明らかになった1。CDCの研究者たちは、当初Dugasに、カリフォルニア州外部のエイズ発症者であることを示す「O(オー)」という分類記号を付けていたが、調査の過程で「0(ゼロ)」と読み違えられ、Dugasは「ペイシェント・ゼロ」と呼ばれるようになった。すると、ジャーナリストと一般大衆は、「HIVを米国に持ち込んだのはDugas」であると誤解し、この悪評が広まったために、Dugasと彼の家族は何年にもわたり中傷に苦しめられた2

しかしこのたび、数十年前の血清試料を使ったHIVの分析結果がNature 2016年11月3日号に報告され3、1984年に亡くなったDugasの容疑が晴れた。分析の結果、少なくとも1970年にはHIVウイルスがすでに北米で広がっていたこと、そしてこのウイルスはアフリカからカリブ海を経由して北米に上陸したことが明らかになった。

ケンブリッジ大学(英国)の歴史学者で今回の研究の共著者でもあるRichard McKayは、「科学者たちは以前からずっと、HIVの流行がたった1人の『ペイシェント・ゼロ』に由来するという考え方に疑問の目を向けていたのです」と言う。HIVウイルスは数回にわたって北米に入ったことを示唆する証拠が複数報告されていたからだ。

McKayとアリゾナ大学(米国トゥーソン)の進化生物学者Michael Worobeyが率いる研究チームは、HIVがどのように米国に入ってきたかを明確にしたいと考えた。そこで、医療機関でB型肝炎検査のために採取された同性愛男性の血清試料のうち1978年と1979年のものについて2000以上を調べた。すると、サンフランシスコの3つ、ニューヨーク市の5つの試料に、HIVの塩基配列解読をするのに十分な遺伝的痕跡が見つかった。

上陸はもっと早かった

研究チームがそれらの試料の遺伝子配列を詳細に調べたところ、1970年代初期のカリブ海地域、特にハイチで見られたHIVの株に類似していることが分かった。しかし、それらの株は互いに異なっており、このためHIVは、1970年頃にはサンフランシスコとニューヨーク市ですでに広まっていて、流行の間に変異したことが示唆された。

さらにWorobeyがDugasの血液を分析したところ、彼の死因となったHIV株とこれらの株との間に一致が見られないことが分かった。つまり、「Dugasは、エイズ(AIDS;後天性免疫不全症候群)という病気が認識される前にすでに感染していた多くの患者の1人にすぎないということを、全ての証拠が示しているのです」とWorobeyは説明する。

Natureに掲載された最新の研究は、病気をすぐに引き起こさないウイルスに関しては、結論を拙速に出してしまいがちであることを示しています」とペンシルベニア大学(米国フィラデルフィア州)の微生物学者Beatrice Hahnは話す。1980年代の研究者たちはまだ、HIVに長い潜伏期間があることを知らなかった。HIVは発病までに平均して10年間、人体に潜伏している。エイズと関連する症状が多様なことも診断を難しくしてきた。

悲惨な結果を招いた一般認識

「さまざまな疾患の歴史の中で、その疾患の責任を、ある程度誰かに負わせることが必要とされてきたのです」と米国立アレルギー・感染症研究所(メリーランド州ベセスダ)の所長、Anthony Fauciは言う。1980年代に、一般市民の怒りが「相手を選ばない」同性愛の男性に向くのはひどく容易なことだった。

DugasはHIV研究のカギとなっていたし、「何かただならぬことが起こっていると、一般の人たちは感じていました」とWorobey。Randy Shiltsが1987年に著した『And the Band Played On』(邦題:そしてエイズは蔓延した)で、Dugasが故意に病気を広めたとほのめかされたことは、とりわけ破滅的だった。

「Dugasはそれでもまだ病気を広め続けていました」と彼のカポジ肉腫を治療したニューヨーク大学ランゴン医療センター(米国)の皮膚科医Alvin Friedman-Kienは当時を振り返る。「Dugasは、『同性愛者のがん』を自分が広める可能性があるという確かな証拠はないことを引き合いに出し、病気が重くなり過ぎてできなくなるまで無防備な性行為を続けていました」。

1983年、ニューヨーク市で行われたゲイ・プライド・パレードにおいて、エイズに関するパニックに抗議する参加者たち。 Credit: Barbara Alper/Getty Images

多くの同性愛の男性たちは当時、無防備な性行為がHIVを広めるという考えに抵抗していたと、Friedman-Kienは言う。「同性愛者たちはセックスの自由と、同性愛者として認められ受け入れられることを目標に闘ってきたので、彼らにとって、全ての同性愛男性がこの恐ろしい病気のキャリアーの可能性があると言われることは非常に耐えがたいことだったのです」。

「今回の研究は、『ペイシェント・ゼロ』を特定することは科学的にも倫理的にも非常に困難だということを教えてくれました。Dugasの物語は、HIVが単に永遠の虚空の中で変異を続けるレトロウイルスではなかったことをはっきりと示しています」とMcKayは述べる。この病気を科学的に理解するための探求は、この男性とその家族にこの上なく深刻な影響を及ぼしたのだ。

翻訳:古川奈々子

Nature ダイジェスト Vol. 14 No. 1

DOI: 10.1038/ndigest.2017.170107

原文

HIV’s Patient Zero exonerated
  • Nature (2016-10-26) | DOI: 10.1038/nature.2016.20877
  • Sara Readon

参考文献

  1. Auerbach, D. M., Darrow, W. W., Jaffe, H. W. & Curran, J. W. Am. J. Med. 76, 487–492 (1984).
  2. McKay, R. Bull. Hist. Med. 88, 161–194 (2014).
  3. Worobey, M. et al. Nature 539, 98–101 (2016).