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DNA鑑定の死角

2012年12月、Lukis Andersonという名のホームレスの男がDNA鑑定に基づき、シリコンバレーの大富豪Raveesh Kumra殺害の容疑で起訴された。量刑は最大で死刑だが、Andersonは無罪となった。確かなアリバイがあったためだ。11月の事件当夜、彼は酔いつぶれて意識を失い、病院でずっと医師の管理下にあったのだ。

Andersonの弁護チームは後日、現場にあった彼のDNAはKumra邸に到着した救急隊が持ち込んだことを知った。救急隊は事件当日、先にAndersonの介護に当たり、その3時間以上後に、彼のDNAを犯罪現場に“移植”してしまった。2016年2月に米国法科学会年会で報告されたこのケースは、DNAの移転が無実の人を巻き込んだ数少ない実例であり、DNAを絶対確実な証拠として扱うことが実際に重大なリスクをはらんでいることを示している。

決定的で客観的だが…

近年、歯型の比較や顕微鏡による毛髪分析など犯罪捜査に使われる技術が科学的に厳しく問い直される中で、DNAの証拠能力が高まっている。DNA鑑定は統計学的モデルに基づいており、他の科学捜査技術よりも決定的で主観性が低いためだ。ヒトゲノムの特定の領域を調べることで、証拠のDNAが被害者や容疑者の既知の遺伝子プロフィールと一致する、あるいは一致しない確率を決定できる。一致した場合にはさらに、そのDNAパターンの人口集団中での頻度をもとに、それが証拠としてどれほど強力かを評価できる。ニューヨークを拠点とする非営利法律組織イノセンス・プロジェクトが1990年代半ば以降、有罪判決を受けた人のDNAを解析・再解析して200件近い冤罪を晴らしたことで、刑事司法システムの改革を求める声が高まった。

だが、「DNAが窮地を救ってくれることを切に願ってはいるが、今のところ欠陥のあるシステムだ」と、ニューヨーク大学の法学教授で2015年に著書「Inside the Cell: The Dark Side of Forensic DNA」を出版したErin E. Murphyは言う。例えば生体試料は劣化や不純物混入の可能性があるし、裁判官や陪審員が統計的確率の解釈を誤るかもしれない。そしてAndersonの事例が示したように、皮膚細胞は移動し得る。

タッチDNAは移転し得る

物体に残された皮膚細胞から遺伝情報を収集できることが初めて示されたのは1997年で、それ以降、ドアノブや銃のグリップなどの表面からこうした「タッチDNA」が採取されることが多くなった。現在では、民間企業が、わずか3~5個の細胞から個人の完全な遺伝子プロフィールを割り出せる検査キットを警察当局に販売している。死亡から長時間が経過した遺骸の身元特定などに関わっている科学者たちも、こうした検査キットを使っている。

最近まで、タッチDNAは直接接触の動かぬ証拠だと考えられてきた。だがDNAが常に動かないわけではないことを示す研究が増えている。今年初めにInternational Journal of Legal Medicineに報告された研究によると、例えば誰かの首を拭いた布が別の人によって運ばれ、当人が全く触れたことのない物体にDNAが移る可能性がある。同様にインディアナポリス大学で人間生物学を専攻する修士課程の大学院生Cynthia M. Caleは最近のJournal of Forensic Sciencesに、誰かと握手した後にステーキナイフを使うと、握手相手のDNAがナイフの柄に付着することを報告した。それどころか、Caleが集めたサンプルの1/5では、付着したDNAの持ち主として特定された人は実は1回もナイフに触っていなかった。

冤罪を避ける姿勢

カリフォルニア州サンタクララ郡の公選弁護人Kelley Kulickは2月の米国法科学会年会で、AndersonのDNAが救急隊員の制服に付着して移動したという見解を述べた。DNAの移転がどれだけの誤った告発につながっているのかは不明だ。「明らかな例は非常にまれだとしても、誤告発は想像以上に多いのではないでしょうか」とロサンゼルスの公選弁護人でDNAの専門家でもあるJennifer Friedmanは言う。「ここで問題なのは、DNAの移転が起きたことを確実には証明できない場合が多いことです」。

AndersonのタッチDNAについての誤解は、Kumra殺人事件裁判の2人の共同被告人にとっても厄介な問題だとKulickは言う。DNA鑑定が非常に重要な捜査ツールであることに疑問の余地はないが、有罪・無罪の決定にはこれを補強する他の証拠がさらに必要だと法科学者も法学者も強調している。DNAは状況証拠の1つにすぎない。Andersonのケースは、気まぐれなわずかな皮膚細胞を重視しすぎてはならないという警告だ。

翻訳:粟木瑞穂

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 7

DOI: 10.1038/ndigest.2016.160707a