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ヒトゲノム編集の世界情勢

Credit: SOURCE: M. ARAKI & T. ISHII REPROD. BIOL. ENDOCRINOL. 12, 108 (2014)

研究者を集めた会合が中国や英国、米国で相次いで開かれた。ヒト胚のゲノム編集の有望性と危険性について、世界中の研究者らが議論を重ねているのだ。果たして、ゲノム編集は許されるべきなのだろうか。もしそうなら、どのような状況下であれば許されるのだろうか。

このように次々と会議が開かれる背景には、遺伝子工学に前代未聞の容易さと正確さをもたらしたCRISPR/Cas9という強力なゲノム編集技術の登場がある。例えば、ヒトの胚発生の研究では、実験室での胚DNA操作にCRISPR/Cas9や類似のツールを使うことで、胚発生の最初期の情報を得られると考えられる。さらには、ヒトの遺伝疾患の原因となっている変異を「修復」することも理論的には可能だ。もし胚の段階でこの種の修復を行えば、子孫に遺伝疾患が受け継がれないようにできる可能性がある。

ゲノム編集に見込まれるこうした可能性が、科学者や倫理学者、患者の間に広く懸念と議論を呼んでいる。もし、病気を回避するためのゲノム編集が医療機関で受け入れ可能となれば、これを使って治療以外の目的で形質を導入したり、増強あるいは除去したりするようになることは必至である。誰もがゲノム編集技術を利用できるわけではなく、そうした不平等が遺伝学的な階級差別主義につながってしまうのではないかと、倫理学者らは懸念している。また、1人のゲノムに生じさせた変化は、生殖系列(精子や卵)を介して何世代も先まで受け継がれると考えられるため、胚のゲノム編集が意図せぬ永続的な影響を及ぼすのではないかと危惧する声も多い。

これらの懸念に加えて、多くの国では法的規制がゲノム研究のスピードに追いついていないという問題もある。

Natureでは、ゲノム編集に関連する法的規制の世界的状況を把握するために、十分な資金の下で生物学研究が行われてきた12カ国を対象に、専門家や政府当局関係者に質問表を送った。それらの回答から、各国の方針が多岐にわたることが明らかになった。ヒト胚を使う実験自体が犯罪行為に当たる国もあれば、ほぼ全て容認されている国もあるのだ。

ヒト胚の操作をめぐる懸念は何も今に始まったことではない。マギル大学(カナダ・モントリオール)の法学者Rosario Isasiは、この種の懸念が生まれてから現在までに、法的規制には重要な動きが2つあったと指摘する。1つは、胚性幹(ES)細胞の樹立方法に関する懸念が引き金となって起こった動きで、結果的にこうした樹立方法はほぼ許容可能と見なされた。もう1つは、生殖目的のクローン作製に関する懸念からの動きで、これは安全性の理由からほぼ禁止された。

現在の法的規制がモザイク状になっているのは、そうした過去の動きの名残である。北海道大学(札幌市)の生命倫理学者である石井哲也は、39カ国のゲノム編集関連の法的規制や指針を1年近くかけて分析し、そのうち29カ国が、臨床用途のゲノム編集を制限していると解釈される規制を設けていることを明らかにした(M. Araki and T. Ishii Reprod. Biol. Endocrinol. 12, 108; 2014)。しかし、そのうち数カ国(日本や中国、インドなど)では、「禁止」はしているが法的拘束力はない。「実態を言えば、我が国に指針はあるが、それに決して従わない人間が一部にいるのです」と、中国科学院動物学研究所(北京)の発生生物学者Qi Zhouは、2015年10月上旬にワシントンD.C.で開かれた米国科学アカデミー主催の会議で述べている。石井は、残り10カ国のうち9カ国(ロシアやアルゼンチンなど)の規制は「曖昧」だと考えている。そして米国は、ヒト胚を扱う研究に連邦政府の資金を提供することを禁止しているため、ヒトの遺伝子編集には規制当局の承認がおそらく必要だろうが、医療機関でこの技術を使うことを公的に禁止しているわけではないと、彼は指摘する。臨床用途が禁止されているフランスやオーストラリアなどの国では、特定の制約に従い、かつ遺伝子編集技術を施した胚を出生に至らせようとしない研究であれば、通常は許可される(「CRISPRによる胚操作と法規」を参照)。

Credit: Sebastian Kaulitzki/Hemera/Thinkstock

多くの研究者は、たとえ法的強制力がなくても、自国の立法府に方向性を示してくれるような国際的指針ができることを切望している。各所で目下進められている議論の目的の1つは、そうした指針の枠組みを作ることだ。例えば米国科学アカデミーは、2015年12月に国際サミットを開催し、2016年にはゲノム編集技術の責任ある利用に関する勧告を出す予定である。

しかし、ゲノム編集技術を用いたヒト胚研究はすでに始まっており、今後さらに増加すると予想される。2015年4月に中国の研究チームが、CRISPRを使ってヒト受精卵(ただし出生に至ることのできない異常な受精卵)のゲノムを改変したと発表した(P. Liang et al. Protein Cell 6, 363–372; 2015)。CRISPRをサルに使ったことのあるエモリー大学(米国ジョージア州アトランタ)の神経科学者Xiao-Jiang Liは、中国では他にも複数の研究チームがすでにこの種の実験を実施中だという噂を耳にしたと話す。また2015年9月には、フランシス・クリック研究所(英国ロンドン)の発生生物学者Kathy Niakanが、不妊症や流産に関係していると思われる胚発生異常を研究するためにゲノム編集技術を使いたいとする申請を、英国の生殖医療規制機関である「ヒト受精・胚機構(HFEA)」に提出している。これまでのところ、編集したゲノムを持つ子を誕生させたいと明言した研究者は皆無であり、当初の複数の実験から、そうした用途に用いるにはまだ安全性に問題があると考えられる。しかし、それも時間の問題だと予想する向きもある。

石井は、ゲノム編集の臨床応用を世界で初めて試みるのは体外受精率の高い国だろうと予想している。彼によれば、日本は世界でも不妊治療クリニックの数が最も多い国の1つであり、生殖系列の改変に対して法的強制力を持つ規制もない。同じことはインドにもいえる。

マサチューセッツ工科大学(米国ケンブリッジ)の神経科学者Guoping Fengは、ゲノム編集技術を改良して使えば、遺伝疾患をいずれ予防できるのではないかと期待している。ただし、この技術を医療機関で使おうとするのは、あまりに時期尚早だと彼は話す。「今はまだヒト胚の操作を行うときではありません。もし間違ったことをすれば、一般社会に誤ったメッセージを送ってしまいかねません。そうなれば、一般の人々は科学研究をもはや支持しなくなるでしょう」。

翻訳:船田晶子

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 2

DOI: 10.1038/ndigest.2016.160230

原文

The landscape for human genome editing
  • Nature (2015-10-15) | DOI: 10.1038/526310a
  • Heidi Ledford
  • Heidi Ledfordは(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ在住のリポーター)