News

生命科学界の頭脳が続々とテクノロジー企業へ

Nature ダイジェスト Vol. 13 No. 1 | doi : 10.1038/ndigest.2016.160119

原文:Nature (2015-10-22) | doi: 10.1038/526484a | Tech titans lure life-sciences elite

Erika Check Hayden

グーグル社などの巨大テクノロジー企業が、ヘルスケア事業参入のために生物医学分野の一流研究者を引き入れている。

グーグル本社では、従業員に敷地内移動のための自転車が用意される。 | 拡大する

JUSTIN SULLIVAN/GETTY

無料のおいしい食事、明るく彩色された自転車、そして高給。これらは、「グーグルプレックス」という愛称で親しまれているグーグル本社(米国カリフォルニア州マウンテンビュー)の特徴として有名だ。しかし、心臓病を専門とするJessica Megaが、ハーバード大学医学系大学院(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)での学術研究者としての華々しいキャリアを中断して2015年3月に同社の生命科学部門の最高医学責任者に転じたのは、そうした特典のためではない。彼女を引きつけたのはその事業の野望だ。この生命科学部門は、データ解析とデータ工学に関するグーグル社のノウハウを生かして小型の電子デバイスを作り出すこと、そしてそれらを利用して現在ではあり得ない量の健康関連データを連続的に収集・解析できるようにすることを目指し設立された。この目標は、同社の親会社であるアルファベット社の傘下にも近々組み込まれることになっている(編集部註:この生命科学部門は2015年8月に独立が発表され、12月7日に「Verily」という名称で始動した)。

「目を見張ったのは、ハードウエアやソフトウエア開発技術者たちの熱中ぶりです。私たちのすぐ隣に、そうした技術者たちが座っているのです。衝撃的でした」とMegaは話す。

Megaのように、グーグル社のミッションに加わり、その中で新しいタイプのキャリアパスを切り開こうという決断をする一線級の科学者や医師は引きも切らない。「グーグルグラス」などの革新的なプロジェクトは、コンピューター科学やコンピューター工学などの学術研究者が牽引してきたが、同社をはじめとするテクノロジー企業は事業をヘルスケア領域へと広げる中で生命科学者の引き入れを進めており、スクリプス・トランスレーショナル科学研究所(米国カリフォルニア州ラホヤ)の所長Eric Topolは、「優れた研究者の勧誘はまだまだ続く」とみる。

2015年9月、国立精神保健研究所(米国メリーランド州ベセスダ)の所長Thomas Inselは、「私は間もなくグーグル社の生命科学企業に加わり、精神衛生にテクノロジーを応用する方法の開発に参画する」と発表した。2014年には、グーグル社が設立したバイオ技術企業カリコ社(米国カリフォルニア州サンフランシスコ)に、加齢研究の第一人者であるカリフォルニア大学サンフランシスコ校の分子生物学者Cynthia Kenyonが加わっている。

シリコンバレーの中央に所在するスタンフォード大学(米国)の心臓病専門医Euan Ashleyによれば、大学のデータ科学者が絶えず引き抜かれているという。「グーグルなどのテクノロジー企業との競争で、たいていは向こうの方がはるかに高い金額を提示する」とAshleyはこぼす。

しかし、魅力はお金だけではない。Topolによれば、シリコンバレーは、学術研究界ではなかなか利用することができない「強力な技術資源」と「達成が困難な目標を追求する機会」も与えてくれるという。学術研究界では、実世界的な応用を追究しても報われないのが普通だ。「その技術資源は、学術研究の世界で得られるものとは比べものになりません。そして、評価基準も違います。論文ではなく、『仕事を成し遂げる』のみなのです」とTopolは語る。

電子工学者Brian Otisは、2012年にワシントン大学(米国シアトル)の終身在職権の地位を離れてグーグル社に転じた。そのとき脳裏を占めていたのは「仕事を成し遂げること」だった。新しい職場に移ったのは、涙に含まれるグルコースの量を測定する糖尿病患者用のスマート・コンタクトレンズを開発するためだった。そのプロジェクトは、最初に2つの大きな問題にぶつかった。1つ目は、きちんと動作するワイヤレスのグルコースセンサーを作るのに必要な電子部品を、装着可能なコンタクトレンズに埋め込むことができるかで、2つ目は、その装置で適切なグルコース測定値が得られるか、であった。Otisによれば、そうした未知の問題にどうしたら答えを出せるかという目的意識が強力な刺激材料だったという。彼は、「グーグルに行けば、この2つの問題の答えを得るための助走路と技術資源を全て手にすることができる」と考えていたという。

そのプロジェクトは実際に成功を収めた。2014年には、製薬大手ノバルティス社(スイス・バーゼル)とのライセンス契約が成立し、実用化を目指しているところだ。Otisは現在、グーグル社の生命科学部門のハードウエアおよび医療装置開発の責任者となっている(編集部註:Verily設立と同時に、最高技術責任者に就任した)。「基本となる第一原理からビジョンの実行まで全てをやることが最初の約束でしたし、そのために私はグーグルにとどまり続けたのです」とOtisは言う。

アップル社(米国カリフォルニア州クパチーノ)もヘルスケア市場に参入した。2015年3月、同社は「リサーチキット(ResearchKit)」を発表した。このフレームワークを利用すれば、研究者は患者のスマートフォンからデータを収集するアプリを作成できる。そして同年4月には、IBM社(米国ニューヨーク州アーモンク)が、IBMワトソンヘルスとワトソンヘルスクラウドを立ち上げた。これは、同社のコグニティブ・コンピューティング技術ワトソンを利用して、多様なソースからの大量の健康関連データを処理するサービスだ。このサービスを用いれば、医師は患者個人の電子デバイスからデータを呼び出して健康状態を管理できるようになる可能性があり、製薬会社はクラウドコンピューティングによって臨床試験の管理効率を改善することができるかもしれない。一方、インテル社(米国カリフォルニア州サンタクララ)は、高度に個別化されたがん治療を提供するためのクラウドコンピューティングサービスを開発中で、フェイスブック、マイクロソフト、アマゾンの各社も参入を計画している。

しかし、グーグル社の取り組み方は別格だ。同社は健康関連の潜在的な応用先へ投入する資源が多く、他社と比較して探索の方向性が多彩だ。生命科学研究への投資は年間10億ドル(約1200億円)を超えると推測されている。

グーグル社の生命科学チームは、健康状態の新モニタリング法の開発などにも取り組んでいる。スマート・コンタクトレンズ事業に並ぶものとして「ベースラインスタディー(Baseline Study)」がある。これは、人々のデータを大量に収集して健康と疾患の定量化を改善することを目的としており、目標は予防的ケアの早期化と有効性向上だ。同社は、学術研究界とのさまざまな社外共同研究にも資金を投じている。例えば「グーグルゲノミクス」では、ゲノミクスにクラウドコンピューティングを導入する方法を研究しており、カリコ社はさまざまな共同研究で企業や学術研究機関と契約を結んでいる。バック加齢研究所(米国カリフォルニア州ノバト)の細胞分子生物学者Judith Campisiは、「グーグルは、バイオ技術企業があまりやらない方法で学術研究界に手を伸ばしています」と話す。それにより科学者は、グーグル社に完全移籍しなくても同社と共同研究することができるのだ。

ブロード研究所(米国マサチューセッツ州ケンブリッジ)の医師Steven Hymanは、「テクノロジー企業に加わることを新しい機会として喜ぶ学術研究者もいると思いますが、リスクの軽減に関心がある研究者にとってそれはよい選択肢ではありません。最終的に、世界的企業であるグーグル、アップル、マイクロソフトの生命科学事業の目標は、新規事業分野の探索が進む中で短期的に変化するでしょう」と語る。

(翻訳:小林盛方)

キーワード

Nature ダイジェスト Online edition: ISSN 2424-0702 Print edition: ISSN 2189-7778

プライバシーマーク制度