Turning Point

網膜の再生研究との出会い

京都大学医学部の卒業と同時に結婚されたのですね。

高橋 政代
理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター 網膜再生医療研究開発プロジェクト プロジェクトリーダー

高橋: 同級生と結婚しました。仕事に全力を注げるように、結婚は就職する前に片付けてしまおうと思っていたのです(笑)。幸い、学生の間に相手を見つけることができました(笑)。仕事と結婚を両立させるための人生設計というか、このような計画は、高校時代から考えていましたね。

卒業後、私は眼科に、夫は脳外科に進みました。まずは研修医として修行しますが、2人とも忙しくて、すれ違い生活。手術室で偶然会うといった感じでした。

そもそも、いろいろな臨床科の中で眼科を選んだ理由は?

高橋: 目の網膜は中枢神経であり、学問的に興味深い分野だと思いました。でも、そういったことの他に、仕事と結婚を両立しやすい科だと思えたことも、大きな理由です。特に、子育ての時期をどう乗り越えるかについてよく考えました。例えば、夜中に急に呼ばれることが多い臨床科は避けたかった。それから、眼科の教授が女性を特別視しなかったことや、出産を控えた女性医の仲間がいたことも心強く感じました。

とはいえ、今から思えば、仕事と2人の娘の子育てを、よく頑張ったなと思います。8週間の産後休暇の後は、娘は保育園に預けて働きました。給料のほとんどが、ベビーシッターや家政婦さん代に消えましたね。主人も協力的でしたが、脳外科医はなにしろ忙しくて、あまり時間がとれず、子どもの顔を見るのがやっとというところでした。

計画どおりに行かず、苦労したことはありますか?

高橋: 娘がまだ授乳中だった時期の当直はたいへんでしたね。当時は産後の当直免除の制度がなかったのです。しかたなく、赤ちゃんをこっそり連れて当直をしていました。他の人に知られないように、エレベーターは使わず、赤ちゃんを抱いたまま8階まで階段を上って当直室へ直行。重たくて腕も痛くなりました(笑)。診察に呼ばれたときは、当直室のベッドに赤ちゃんを寝かしておきましたが、泣かないかとドキドキしたのを覚えています。

私自身が本当に泣きたくなるほどつらいと思った時期が、一度だけあります。後に病棟医長を任されたときのことです。外来と手術・病棟勤務・研究に加え、増えてくる講演・執筆、さらに30人以上のスタッフのまとめ役となりました。仕事は多忙で責任は重い。毎朝が手術スケジュールなどを調整する怒声で始まり、戦場のようでもありました。さらに、娘の反抗期も重なったのです。この1年頑張ろうと思い、もう1年がんばってほしいと言われ、3年経った頃、日曜日などにふと訳もなく涙が出てくるのです。限界だと思い、異動を申し出て、病棟医長の任を解いていただきました。

脳の神経幹細胞研究の草分けのラボに留学をされていますね。

高橋: 夫と子連れで、米国のソーク研究所へ留学しました。病棟医長になる前のことですね。夫の先輩がゲージ博士の研究室に留学しており、夫がまずそこへ行くと決め、私も客員研究員で行くことになったのです。

私自身は、自分が研究にそれほど向いているとは思っていませんでしたので、夫のパーキンソン病研究の手伝いでもしようと思っていたのです。でも夫に反対され、自分自身のテーマとして網膜の再生を研究し始めました。そうしたら、実におもしろい。

脳の分野では幹細胞の研究が進んでいるのですが、そのデータや手法を網膜の分野に応用すると、次から次へと成果が挙がるようになったのです。

網膜の再生研究との出会いが研究活動に比重を移すきっかけに?

高橋: そうですね。留学先で神経幹細胞と出会い、「これを使えば網膜の病気の治療ができる、それをやるのは私だ」と思って興奮しました。そういうとき、私には10年後に治療法が完成したときの様子が頭の中に描け、まず先行して喜んじゃうんです。あとは、その大きなゴールに向かって、やるべき課題を見つけ、次々に解決していくだけ。

今は、申請中の臨床試験を進めることと、その治療を多くの人が利用できるようにする仕組みを作ることを、夢に思い描いています。

聞き手は藤川良子(サイエンスライター)。

Nature ダイジェスト Vol. 10 No. 7

DOI: 10.1038/ndigest.2013.130707