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科学者が、インサイダー取引に巻き込まれる!?

心臓専門医Jean-Luc Vachieryは、重要な医学的成果が出そうになると、決まってヘッジファンド・マネジャーたちが自分に電話をかけてくることを知っている。それは、彼の心臓が鼓動しているのと同じくらい確実なことだ。ブリュッセル自由大学(ベルギー)で肺動脈性高血圧症というまれな疾患の実験的治療テストを進めているVachieryは、臨床試験に関する機密情報に通じている。

Credit: istockphoto

彼が握る情報は、違法に利用して投資を誘導しようとする人間にとっては、きわめて貴重なものである。そのため、彼と金融業界の人々とのやりとりは、緊張したものになることがある。「彼らは口では『機密事項については何も言わないでください』と言いながら、そうした情報が欲しいと暗に匂わせるのです」とVachieryは言う。

Vachieryは、Gerson Lehrman Group(米国ニューヨーク)というエキスパート・ネットワークに登録する約3万5000人の学者の1人である。エキスパート・ネットワークとは、専門的な情報を求める多くは金融業界の顧客に、それぞれの分野の専門家を紹介する企業のことだ。こうした企業は米国などに約40社あり、近年、増加しつつある。

Gerson Lehrmanには多くの学者が登録しているが、昨年、はからずも大きな注目を集めてしまった。同社に登録していた専門家の中でも特に有名な、当時ミシガン大学アナーバー校に在籍していた神経学者のSydney Gilmanが、臨床試験に関する発表前の情報を、あるヘッジファンド・マネジャーに提供していたことを認めたのだ。ヘッジファンドは、その情報を利用して2億7600万ドル(約260億円)もの違法な利益をあげていた。この事件は、米国証券取引委員会(SEC)がこれまでに扱ったインサイダー取引事件の中で最大金額のケースとなった。

SECは2009年以降、エキスパート・ネットワークが金融業界にインサイダー情報を提供していないかどうか探り続けており、Gilmanの事例はそうした調査の1つにすぎない(「インサイダー取引に利用される専門知識」参照)。エキスパート・ネットワークの関係者はすでに30人近く告発されているが、新たな調査対象となる者は、特に健康産業に多い。Gilmanの事例は、研究者が1時間あたり1000ドル(約9.5万円)とも言われる相談料のために金融業界のコンサルタントになることの危険性を浮かび上がらせた。「金融会社の人間がわれわれと話をしたがる理由はただ1つ、インサイダー情報が欲しいからです」と、ニューヨーク大学ランゴン医療センターの生命倫理学者Arthur Caplanは断言する。「それがすべてです」。

これだけ大きな危険があるにもかかわらず、所属スタッフが金融業界のコンサルタントになることを制限する規定を定めた研究機関はほとんどない。多くの大学や米国立衛生研究所(NIH)をはじめとする研究機関は、研究者がコンサルタントとして一定の金額以上の相談料を受け取ったときには、その金額を明らかするよう要請しているが、製薬会社のコンサルタントとしての報酬と金融業界のコンサルタントとしての報酬とを区別しているところはほとんどない。しかし、マサチューセッツ総合病院(米国ボストン)で医学における利益相反について研究しているEric Campbellは、両者を区別することが重要なのだと主張する。「インサイダー取引は、少数の人間が莫大な利益を短期間に手にする賭け事です」と彼は言う。「医師や研究者は、こんなことにかかわるべきではありません」。

それでも、エキスパート・ネットワークと彼らにスカウトされた専門家たちは、自分たちは何も違法なことはしていないと主張する。ほかの多くのエキスパート・ネットワークと同じく、Gerson Lehrmanも、紹介した専門家が顧客に機密情報を提供してしまうのを防ぐため、オンライン訓練課程の受講を義務づけたり、特定分野のインサイダー情報をもつ専門家が、まさにその情報を求めている顧客に紹介されるのを防ぐため、面談前アンケート調査を実施したりしている。Gerson Lehmanの最高経営責任者Alexander Saint-Amandは、「こうした対策をとっているので、法律に違反することは困難です」と言う。

しかし、Natureがコンタクトをとった専門家たちは、たいていの場合はごくふつうの医学情報を求められるが、ごくまれに秘密を漏洩するよう依頼されることがあると言う。もちろん、Vachieryを含め、そうした依頼をされたことのある専門家全員が、秘密を漏洩することは絶対にないと言う。エキスパート・ネットワーク産業を追跡するIntegrity Research社(米国ニューヨーク)という投資調査会社の最高経営責任者であるMichael Mayhewは、「おそらく、エキスパート・ネットワークの利用機会の99%は、合法でしょう」と言う。

それでもVachieryは、百戦錬磨のヘッジファンド・マネジャーたちが、高度な技術を駆使して自分の答えを分析しているのがよくわかると言う。面談や遠隔会議で顧客からの質問をはぐらかしても、相手は、こっちのボディーランゲージや表情から小さな手がかりをかき集め、同じようにしてほかの専門家から得た手がかりとを組み合わせている可能性があるという。「彼らは小さな断片から自分たちの大きな物語を組み立てるのです」と彼は言う。「我々の反応はもちろん、無反応だということまで、評価されているのです」。

Mayhewは、こんなに大きなリスクがあるのに、病院や大学がスタッフ職員のエキスパート・ネットワークへの登録を禁じていないことを意外に思っている。「機密情報が漏れるおそれがあるのですから、事前に対策を講じるべきなのです」。

クリーブランド・クリニック(米国オハイオ州)は、金融業界のコンサルタントになったスタッフを監視している数少ない医療機関の1つである。このクリニックは、2005年以降、スタッフが金融業界と関係を持つときには、必ず弁護士による審査を受けなければならないとしている。そして現在、金融業界と関係を持つことを全面的に禁止することを検討している。Caplanは、専門家が金融業界のコンサルタントになることを思いとどまらせるためには、学会が主導的な役割を果たすべきであると言う。しかし、米国医科大学協会(ワシントンDC)の科学政策部門長であるHeather Pierceは、自分が知るかぎり、そのような役割を果たしている学会はないと言う。

タフツ大学医学部(米国ボストン)で医師の利益相反行為の監視にあたっているMarcia Boumilは、同大学では研究者が金融業界のコンサルタントになることに対して改めて開示を求めたり、研究者がコンサルタントになれる範囲を制限したりする計画はないと言う。「立派な専門家の行動を取り締まることは、私たちの仕事ではないからです」。とはいえ、彼女は、もしGilmanがタフツ大学に在籍していたとしたら、自分のオフィスは何かがおかしいと気付いただろうと言う。Gilmanはコンサルタントとして1時間当たり1000ドルの相談料を得ており、1年間に10万ドル以上も稼いでいたが、タフツ大学のスタッフは、この2点については報告を行うことになっているからだ。そんな報告を受けたら、当然、危険を察知するはずだ。

しかし、タフツ大学の放射線腫瘍科医のDavid Wazerは、Gerson Lehrmanが決めた1時間当たり1000ドルという相談料は妥当な金額だと主張する。「私はそれに値します」と彼は言い、自分は顧客の勤務先を知らないことが多いが、機密情報を漏らすよう依頼されたことは一度もないと言う。彼がこの仕事で1年間に稼いだ金額は最も多いときでも4000ドルだ。「この程度の見返りのために危険な橋を渡ることなど、あり得ません」と彼は言う。

Wazerは、自分が金融業界のコンサルタントを引き受けるのは、投資に影響を及ぼすことで、放射線治療の進歩を促したいからだと言う。「技術の進歩は、資本の流れの関数になっていることが多いのです」と彼は言う。「金融会社の人々が資本の流れを決定しているという事実は、直視しなければなりません」。

別の説明をする人もいる。「報酬がよいのです」と、ペンシルベニア大学アブラムソンがんセンターの腫瘍専門医Donald Tsaiは言う。彼は1時間当たり約300ドルの相談料をとるが、彼の顧客が求める医学情報はたいてい「幼稚園レベル」であると言う。「楽しくて、片手間にできる仕事なのですよ」。

しかし、一部の研究者は、エキスパート・ネットワークがSECの調査を受けているという不名誉は、相談料よりも重大だと考えている。シカゴ大学(米国イリノイ州)の腫瘍専門医Mark Ratinは、SECがエキスパート・ネットワークの調査を行うと発表したときに、Gerson Lehrmanとの関係を断ち切った。「こんなことに自分の名前をかかわらせたくありませんから」と彼は言う。

エキスパート・ネットワークとかかわり続けている研究者の中にも、以前より用心深くなったと言う人がいる。Vachieryは、機密情報が欲しいとほのめかされたことがある顧客からの招待は、二度と受けないようにしている。楽しく会話できた顧客もいたが、今では、機密情報を守るというプレッシャーのせいで、プロセス全体が不愉快なものになってしまった。「自分が口に出す一言一句の重みをはかるようになり、相手を信用できなくなりました」と彼は言う。「要請を受けるたびに、『自分はなぜこんなことをしているのだろう』と考え込んでしまうようになりました」。

(翻訳:三枝小夜子)

インサイダー取引に利用される専門知識

2009年以降、米国証券取引委員会(SEC)は、エキスパート・ネットワークの専門家が関与するインサイダー取引の取り締まりに力を入れている。

2012年11月20日

SECは、Gerson Lehrmanから紹介された神経科医Sydney Gilmanから得た機密データに基づいてインサイダー取引を行ったとして、ヘッジファンド・マネジャーMathew Martomaを告発した。
違法な利益:2億7600万ドル(約260億円)

2012年2月17日

SECは、12のテクノロジー企業に関する内部情報を提供したとして、オレゴン州に本拠地を置くエキスパート・ネットワークBroadband Research社とそのオーナーであるJohn Kinnucanを告発した。
違法な利益:1億1000万ドル(約105億円)

2011年2月3日

SECは、テクノロジー企業に関する秘密情報をヘッジファンドに違法に提供したとして、6人のコンサルタントとPrimary Global Research社(米国カリフォルニア州マウンテンビュー)の社員を告発した。
違法な利益:600万ドル(約5.7億円)

2010年11月2日

SECは、エキスパート・ネットワークに紹介されたヘッジファンド・マネジャーに臨床試験に関する詳細な情報を提供したとして、フランス人肝臓専門医Yves Benhamouを告発した。
違法な利益:3000万ドル(約28.5億円)

2009年10月16日

SECは、Raj Rajaratnamと、彼が率いるヘッジファンド助言会社Galleon Management社(ニューヨーク)をインサイダー取引で告発した。これをきっかけに、以後、エキスパート・ネットワークの関係者が相次いで告発されることになる。
違法な利益:5300万ドル(約50.4億円)

翻訳:三枝小夜子

Nature ダイジェスト Vol. 10 No. 4

DOI: 10.1038/ndigest.2013.130410

原文

Insider trading sparks concerns
  • Nature (2013-01-17) | DOI: 10.1038/493280a
  • Heidi Ledford