干からびたネムリユスリカの幼虫が生き返る鍵
2008年7月11日
農業生物資源研究所 昆虫科学研究領域 乾燥耐性研究ユニット
奥田 隆 ユニット長

当たり前のことだが、生物は水がなくては生きていけない。ところが地球の陸地面積の約3分の1は、年間降水量が200ミリに満たない砂漠。このような乾燥地帯で生きる生物は、長い進化の果てに実に巧妙な耐乾燥性を身につけている。農業生物資源研究所 昆虫科学研究領域 乾燥耐性研究ユニットの奥田 隆ユニット長は、アフリカ中部に生息するネムリユスリカという昆虫の幼虫が、全く水のない乾季を干からびた状態で過ごし、雨季になると生き返るしくみを明らかにした。
ネムリユスリカは蚊の仲間で、乾燥状態にない環境では2〜3週間の幼虫期間、数日の蛹期間を経て羽化する。成虫は数日しか生きられず、生殖直後に一生を終える。卵は岩盤の上の小さな水たまりに産み付けられ、そこで孵化した幼虫は水中の細菌類や有機物を餌に成長する。乾季がやってくると水たまりは干上がり、幼虫は、雨季が訪れるまでの8か月を脱水状態のまま休眠(クリプトビオシスという)する。やがて雨季が来ると、吸水して成長を再開し、終令幼虫は体長8ミリにまで成長する。
奥田ユニット長がネムリユスリカの不思議な耐乾燥性について知ったのは、大学院時代。1960年に発表されたNature の論文を目にしたのだという。「その後、ナナホシテントウなどを対象に、昆虫が夏に休眠するしくみについて研究し始めたが、1990年の国際学会である研究者が『何らかの現象を突き止めるには、その現象のチャンピオン動物を使うべきだ』と話したのを耳にし、ネムリユスリカを使おうと思いなおした」。奥田ユニット長は、当時をそう振り返る。
ネムリユスリカの幼虫は乾燥下では全く代謝を行わない。幼虫はまるでガラスのような状態になるという。奥田ユニット長らのグループは、ネムリユスリカの幼虫体内ではトレハロースという糖が大量に合成されることを確認していたが、トレハロースが体内のどこに蓄積され、どのような物理的状態になっているのかは不明だった。そこで、すでに提唱されていた「トレハロースが水分子のかわりに細胞膜などの生体物質と結合し保護する」との水置換仮説と、「ガラスのように固くなることで生体物質を封入して保護する」とのガラス状態仮説の両者が実証できるかどうかを、東京工業大学の研究チームと共同で検討しはじめた。
解析には物質科学の手法を用いた。まず、ゆっくりと乾燥させた幼虫と、急速に乾燥させた幼虫を作り出した。「赤外吸収スペクトル測定によってトレハロースが体内のどこに分布するかを調べたところ、ゆっくり乾燥させた個体には体内にまんべんなく大量のトレハロースが蓄積していることがわかった。一方、急速乾燥させたものにはトレハロースが認められなかった」と奥田ユニット長。ゆっくり乾燥させた個体は水に戻すと約1時間で生き返ったが、急速に乾燥させた方は水に戻しても生き返らなかったという。
また、ゆっくり乾燥させた個体は「ガラス化した状態(ガラス状態)」になることや、加熱や吸湿によってガラス状態を失わせると水に戻しても生き返らなくなることを突き止めた。ガラス状態とは、分子や原子が不規則な空間配置を維持したまま固形になっていることで、その名のとおり窓ガラスが代表である。最近になって、トレハロースも温度や湿度などの条件に応じてガラス化することがわかり、医療分野等でも注目されている。「トレハロースによるガラス化にも分子などの配列に規則性が求められないので、細胞膜やタンパク質が分離することなく固化される。結果として、トレハロースによって生体物質がカプセルで包み込まれたようになって保護されるようだ」。奥田ユニット長はそうコメントする。
「さらに、ゆっくり乾燥させた個体をさまざまな温度に置いて分光分析したところ、トレハロースは細胞膜の表面に結合していることが強く示唆された。一連の結果から、乾燥状態では水が段階的にトレハロースに置き換わり、細胞膜の流動性が維持されつづけていることがわかった。こうした状態でいることが、水に戻すと生き返る鍵なのだろう」。そう結論づける奥田ユニット長は、多くのユスリカ種の中でなぜネムリユスリカだけがクリプトビオシスを獲得したのかを突き止めるべく、ネムリユスリカの系統進化を探るプロジェクトを立ち上げている。
トレハロースによるクリプトビオシスのしくみは、鮮花、食品、医療用の組織や臓器の常温保存など、エネルギーや特別な冷却剤を必要としない保存技術としての応用が期待できる。「私の研究が、常温保存技術や耐乾燥作物などの育種につながることで、アフリカの人々に貢献できると嬉しい」。そう話す奥田ユニット長のさらなる挑戦が続く。
西村尚子 サイエンスライター