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ピアニストの脳神経疾患“局所性ジストニア”の新しい治療法を開発

2014年9月25日

古屋晋一准教授
上智大学 理工学部 情報理工学科

音楽家にもスポーツ選手同様、練習時間の長さ、動作の反復性、筋肉の酷使による障害が起こることが知られている。さらには音楽や練習が情動を喚起するため、脳には一般の人とは異なる変化があり、そこに解剖学的、あるいは機能的な異常が起こるケースがあることもわかってきた。

上智大学 理工学部 情報理工学科の古屋晋一准教授は、ゲッティンゲン大学、ハノーファー音楽演劇大学の研究チームとともに、音楽家に起こる脳神経疾患である局所性ジストニアの運動機能低下を頭皮からの脳への電気刺激によって改善する、新しい方法を開発した(Annals of Neurology Volume 75, Issue 5, pages 700–707, May 2014)。

経頭蓋直流電気刺激法(tDCS)と鏡像運動の組み合わせ(上図)によって、tDCSのみを行ったときよりも打鍵動作の正確性が上がった(下図) | 拡大する

局所性ジストニアでは、特定の動きを行うときにだけ、動きに必要な筋肉が過度に収縮したり、意図とは別の筋肉が動いたりする。ピアニストやギタリストなど弦楽器奏者の指、管楽器奏者の唇、ドラマーの足、歌手の喉など頻回に使い、しかも細かい動きを要求される部位ならば、どこででも発症するのが特徴だ。「作曲家のシューマンがこの疾患によってピアニストとしての生活をあきらめたといわれています。また、音楽家以外にも、例えば美容師や漫画家の手にも起こります」(古屋准教授)。

局所性ジストニアのピアニストの脳では運動野や運動前野、感覚野、深部の大脳基底核といった運動を制御する部位に解剖学的、あるいは機能的な変化が起こり、運動野から筋肉への出力が影響を受けて、動かしたい指が動かない、あるいは動かさなくてもよい指の動きを止められないといった症状が出る。ピアニストでは、習慣的に4時間以上の練習を続ける人や、演奏法を変えたり、指導者を替えたりした直後、7〜8歳以後にピアノを始めた人、難しい曲への挑戦を好む人、手指の腱の間の結合が太い人、家族にも局所性ジストニアの人がいる場合などに発症しやすい。一方、即興演奏が許されるジャズピアニストにはほとんど見られないこともわかっている。音楽家全体でみると発症率は少なくとも2%と推定されている。

ただ、疾患自体がそれほど知られていないこともあり、診断や治療が遅れて演奏家生命が断たれてしまうケースもある。「ピアニストでは指を高速で動かすと症状が出ますが、医師は指の速い動きを見にくいため、ゆっくりとした動きで診断しようとして、健常な指に症状が出ていると誤診することもよくあります」(古屋准教授)。

治療としては、薬物療法、リハビリテーション、過度に収縮する筋肉へのボツリヌス毒素の注射、鍼治療、脳の深部に電極を入れる手術などが行われている。いずれの治療法も日本やアジアでは専門医の数が限られている。「例えば、ボツリヌス毒素の注射は、正確に筋肉を探り当て、そこに適切な量の毒素を入れるという特別なスキルが必要です。また、効果の持続は3カ月程度で、患者さんは必要に応じて頻回に注射を受けることになります」。今回、古屋准教授らが開発した経頭蓋直流電気刺激法(tDCS)とリハビリテーションを組み合わせる方法は非侵襲で副作用がなく、繰り返し実施できるという特徴があり、局所性ジストニアの治療の新しい選択肢となりそうだ。

tDCSは1960年代からヒトを対象とした研究に用いられていたが、効果はないと報告されていた。しかし、古屋准教授らは、電気刺激を2 mAにし、さらに刺激のしかたも変えた。過去の研究では運動野と額に頭部に斜めに電極を貼っていたのを、運動野の支障のない側にプラス電極を、支障のある側にマイナス電極を並べて貼るようにした。そして、電気刺激を行いながら、楽譜通りに両手を動かすというリハビリテーションを組み合わせた。これによって「鏡像運動を通じて、正常な側の脳から疾患が起きている側の脳に正しいプログラムを転写します」。

今回の研究では、健常者と右手に局所性ジストニアの症状が出る患者各10名のピアニストに対し、頭皮に電極を置いたうえで、20分間電流を流しながら、楽譜通りにピアノを弾く訓練を実施した(2分30秒の練習と30秒の休憩の組み合わせを8セッション)。そして、この訓練の前後に、訓練と同じ音列をメトロノームに合わせて弾くというテストを行った。その結果、患者では訓練後の打鍵動作のリズムのばらつきが少なくなり、打鍵の正確性が高まった(図参照)。訓練の効果は少なくとも4日間続き、重症度が高いほど効果が顕著であった。また、訓練していない指では正確性に変化がなく、特定の運動プラグラムのみが転写されたことが明らかになった。

なお、tDCSはドイツや米国ではうつ病、脳卒中、耳鳴りの治療に使われており、電極を自分で貼らなくてもよい帽子型(キャップ型)の商品も開発されている。

古屋准教授は自らも3歳からピアノを始め、国内のコンクールで入賞するなどの実績を上げて、プロを目指していたが、大学生のときに練習中に手を痛め、プロになるのを断念。以来、ピアノ演奏における脳と身体の機能について研究を重ねてきた。この3月にドイツから帰国し、すでに多くの音楽家からの相談を受けており、日本でも潜在的に局所性ジストニアの患者が多いのではないかと実感している。現在、プロの音楽家を被験者として、今回開発した方法の臨床研究を国立精神・神経医療研究センターの医師とともに準備しており、「心理的なストレスと症状の関係も調べてみたい」と話す。

「日本では音楽家に起こりやすい疾患を専門に研究したり診療したりする機関がなく、プロの音楽家や音楽大学の教員などの間でも関心が高くありません。私が研究しているハノーファー音楽演劇大学では、音楽家のためのクリニックが併設され、音大生への教育や心理カウンセリングも効果を上げています。生体力学のような工学、生理学や神経科学、整形科学といった医学、心理学と芸術学が連携して、日本で音楽家の技能の熟達や生活の質の向上を支援する音楽演奏科学の研究所を創るのが夢です」と古屋准教授。アマチュアを含め、音楽家が安心して演奏生活を続けられるような豊かな社会にするには、古屋准教授のような視点は欠かせないものではないだろうか。

小島あゆみ サイエンスライター

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