分子で心を語る
2006年12月21日

目にはみえないが、誰にでも必ず存在する「心」。私たちの心の状態は時々刻々と変化し、あるときは喜びや快感を感じ、あるときは怒りにふるえ、ときには死にたくなるほどの辛さを感じる。心はどこにあって、どんなしくみで機能しているのか? 古くはヒポクラテスやプラトンが、近代ではフロイトらが、その答えを求めて試行錯誤の探求を続けてきた。ごく最近になり、心が脳科学領域の一つとして認識されはじめ、そのはたらきがニューロンと神経伝達物質からなる緻密な回路に関与していることがわかってきた。現在では、薬理学、精神疾患の病態研究、遺伝子解析、分子イメージング、動物行動学といった多角的なアプローチで研究が進められており、心を左右するさまざまなメカニズムが分子レベルで突き止められつつある。
大脳の活動が作り出す心
脳は外からの刺激を受けとり、それを処理し、なんらかの反応や行動として出力するための装置である。1.2~1.6kgほどのヒトの脳は千数百億もの神経細胞(ニューロン)からなり、大きく、大脳・小脳・脳幹に分けられる。このうち大脳の大きさが圧倒的に大きいのが特徴で、大脳はさらに表面を覆う大脳皮質と、その下の大脳辺縁系に分けられる。
ヒトの心は、自我や意識、記憶、知覚、思考などをもとに作り出される。喜怒哀楽(情動)や快・不快などの気分は、比較的わかりやすい心の要素だろう。これまでの心の研究は、主に二つのアプローチによって進められてきた。一つは、けがや脳腫瘍などによって脳にダメージを受けた際の心や意識の変化を解析するというものである。たとえば、理性や分別がなくなる、衝動が抑えられない、自分が誰だかわからないといった変化を生じた患者の脳の損傷部位を調べることによって、大脳辺縁系の扁桃体の部分が情動と深く関わっていることや、大脳皮質の一領域が意識と深く関与していることなどが明らかになっていった。
精神疾患から心を探る
もう一つは、「心の病気」ともいえる精神疾患の治療薬が脳内でどのように作用するのかを調べる、薬理学を用いたアプローチである。精神疾患の代表格としては統合失調症とうつ病があげられるが、統合失調症はどの国でも約100人に1人(WHOのデータ)、うつ病は日本においては100人に3~5人(厚生労働省の調査では15~30人に1人)の割合で発症するといわれる。
現在、うつ病治療にしばしば用いられているパキシルなどの選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)は、「第3世代の抗うつ薬」と称される。歴史を振り返ると、まず1950年代に、イミプラミンやMAO阻害薬などの薬に抗うつ作用があるとわかったことで第1世代の薬が開発され、つづいて1980年代にアモキサピンなどの第2世代が登場した。一連の薬の開発過程では、患者の脳内に存在する神経伝達物質の量や、薬剤投与後の量の変化が詳細に検討された。神経伝達物質とは、ニューロンどうしが情報をやりとりする際に使われる化学物質の総称で、アセチルコリン類、ノルアドレナリン類、モノアミン類、アミノ酸類、ペプチド類など、多種類が知られている。いずれも、ニューロンの軸索の末端にある神経終末から放出され、近接する神経細胞のシナプスにある受容体に結合することで、情報が伝達される。
こうした薬理学の研究によって、1960年代に、うつ病患者の脳でモノアミンが少ないとする「モノアミン欠乏仮説」が提唱された。その後1990年代には、「放出されたセロトニン(モノアミン類の一種)が神経終末に再度取り込まれるのを阻害する物質(SSRI)に、抗うつ作用がある」ということが明らかになったことで、セロトニン濃度の低下が原因だとする「セロトニン仮説」が有力となった。
一方の統合失調症についても、うつ病と類似のアプローチで研究が進み、まず、ドーパミン神経の過剰伝達が統合失調症を引き起こすとする「ドーパミン仮説」が提唱された。その後1987年には、グルタミン酸神経の伝達異常に発症の鍵があるとする「グルタミン酸仮説」も登場した。
こうした仮説は、病態の解明の一端を担うとともに、心が、シナプス部位の神経伝達物質、その受容体、トランスポーター(神経伝達物質を細胞内外へ輸送する機能をもつタンパク質の総称)と関連していることを示唆するものとなった。最近では、神経伝達物質などのほかに、ニューロンの可塑性や新生、神経回路全体の制御機構などにも、精神疾患を考えるうえできわめて重要な鍵があると認識されてきており、心の機能もより広い視野で検討されるようになってきた。
たとえば、大脳辺縁系の一部である海馬は神経幹細胞が多く存在し、ニューロンの新生がさかんであることがわかっているが、2003年に、放射線で幹細胞を破壊すると、ニューロン新生が阻害されて抗うつ病が効かなくなるとの報告がなされた1。また、重度のうつ病患者では海馬の萎縮がみられること、その原因が「視床下部→下垂体→副腎」のストレス防御反応系の異常で増えた血中グルココルチコイドによる神経障害にあること2などが報告された。こうした新たな知見は、心が、ニューロン新生や回路の働きにも深く関連していることを示している。
「心を理解するには、一つ一つのニューロンの分子生物学的な事象を調べ、その総体としての脳機能を検討しなくてはならず、一筋縄ではいかない。精神疾患は、どのような分子がどのように障害されたときに、自我や気分、意識がどう変化するのかを追えるので、今後も心を理解するためのヒントを与えてくれるだろう」。精神科医でもある理化学研究所脳科学総合研究センターの加藤忠史博士は、そうコメントする。
大脳皮質とニューロン新生

情動や気分は動物にもみられるが、ヒトは動物がもたない(と思われる)心の要素をいくつももっている。たとえば、将来のことを予測して一喜一憂する、相手の表情をうかがって言動を決める、誰かを恣意的に操作しようとする、絶望して自らの命を絶つといったことは、ヒトだけに特徴的な心が作り出す現象だといえるだろう。
心のありかが脳にあるとすれば、「ヒトならではの心」はヒトに特徴的な脳の機能に宿っているはずである。大脳皮質のうち、言語野と前頭前野はヒトだけで例外的に進化した(動物にも前頭前野はあるが、ヒトにくらべて著しく小さい)。言語野は文字通り言語機能を、前頭前野は記憶や感情、行動などを統合・制御している。
「言語を獲得した私たちには、覚えたことや考えたことを他人に教えたがる傾向があるが、これも『ヒトならではの心』が作り出す現象ではないか」。東北大学大学院医学系研究科附属創生応用医学研究センター教授の大隅典子博士は、そう話す。大隅博士は、ラットやマウスを用いて、大脳皮質のなりたちと機能についての研究を続けている。「1991年に、目の発生に関わる遺伝子を探索する過程で、PAX6という遺伝子に行き着いた。その変異体ラットを解析したところ、PAX6が脳でも発現していることがわかり脳の発生に興味をもちはじめた」。歯学部出身の大隅博士は、脳研究を始めた経緯をそう話す。
「PAX6が2つとも変異したラット(ホモ接合ミュータント)は、大脳皮質が極端に薄く、ニューロンの数もきわめて少なかった。さらに嗅覚系なども異常で、生直後に死亡した。1つだけ変異したヘテロ接合ミュータントの方は、死に至ることはないが、大脳皮質が少し薄いことがわかった3」と大隅博士。さらに大隅博士は、海馬と側脳室(大脳皮質の両サイドに位置し、海馬のようにニューロン新生がさかんだといわれている)では、個体が成熟した後もPAX6が発現しつづけていることを突き止め、ヘテロ接合ミュータントのラットは正常よりも海馬でのニューロン新生が約30%少ないことを明らかにした。「このラットに、ある行動試験を行ったところ、特徴的な異常をみせることがわかった4。ヒトにもPAX6があり、やはり成熟後の脳におけるニューロンの新生に関わっている可能性がある。神経新生の低下が、ヒトの統合失調症やうつ病、自閉症、注意欠陥・多動性障害(ADHD)と関連しているのかもしれない」と大隅博士。
大隅博士は、ニューロンの新生に数十から百ほどの遺伝子が関与しているとみている。「脳をコンピュータにたとえると、神経回路は基盤のつなぎ方、ニューロンは素子にあたる。古くなると素子が壊れてしまうように、ニューロンも一部ダメになる。それを補完するために新生が必要なのだろう」。そうコメントする大隅博士は、現在、PAX6のより詳細な解析を進めるために、脳だけでPAX6の発現を抑制したノックアウトマウスを作る準備を始めている。その一方では、PAX6の遺伝子カスケードの下流に位置し、DHAやアラキドン酸などの高度不飽和脂肪酸に結合するタンパク質の遺伝子に着目し、脳と栄養という観点でアプローチすることも考えている。
遺伝子から動物の心を探る
「ヒトの心を分子レベルで理解するには、精神疾患からのアプローチだけではなく、正常な脳の発生や機能について解析することも重要」。大隅博士はそのようなスタンスで研究を続けているが、実際には健常者の遺伝子や脳を操作することは不可能だ。今のところは、大隅博士がラットやマウスを用いているように、ヒトとは隔たりがあるとの前提でモデル動物を使うのが主流になっている。
このような状況の下、東京大学大学院農学生命科学研究科教授の森裕司博士と同助教授の武内ゆかり博士らは、イヌとウマを対象に、気質や個性に関わる遺伝子の同定とその機能解析を続けている。「イヌもウマも社会で利用されている動物で、ヒトとうまくコミュニケーションしなければ生活できない。ところが同じイヌでも、チャイムが鳴ったときに、激しくほえる個体、おびえる個体、嬉しくて興奮する個体とさまざまだ」と森博士はいう。森博士らは、2000年までにヒトにおいて気質や精神疾患との関連が示唆された19個の遺伝子多型に着目し、イヌでも同様の多型が気質と関係するかどうかを検討している。たとえば、グルタミントランスポーターの関連遺伝子にみられる多型のなかに、攻撃性の強弱と相関をもつものがありそうだという(未発表)。「その部位の塩基配列がT/T場合、攻撃性が強いらしいことがわかったが、絶対服従を求められる盲導犬では、ほとんど(少なくともアメリカでは)がこの多型をもたないことがわかってきた」と森博士。
ヒトの多型としてよく知られるものに、抗精神薬のターゲットとしても有名なドーパミンD4受容体の遺伝子がある。この遺伝子中には特定の48塩基からなる繰り返し配列があり、繰り返し回数に2~11回の個人差(多型)がみられ、繰り返し配列内にも多くのSNPs(一塩基多型)が存在する。1996年、この繰り返しの回数が多いヒトほど好奇心が強く、俗にいう「怖いもの知らず」であるとの報告が、同時に2つの研究グループからなされ5、続いて1999年に、ドーパミンD4受容体をノックアウトしたマウスは好奇心が低下し、探索行動があまりみられなくなると報告された6。同じ1999年、森博士らと岐阜大学応用生物科学部助教授の村山美穂博士の共同研究チームは、イヌのドーパミンD4受容体遺伝子にも、ある配列の欠損や挿入による8種の多型が存在することを明らかにし、攻撃性の強いシバイヌとおとなしい気質のゴールデンレトリバーとでは遺伝子型にちがいがあることを突き止めた7。その後2004年には、そこにさらにもう一つの多型があることと、先の8種の多型が犬種差にともなって生じる攻撃性を左右していることも明らかにした8。
「これまでは、ある特定の遺伝子だけに注目して解析を進めてきたが、実際には、神経伝達物質の量や伝達効率に関わるさまざまな受容体、酵素、トランスポーターなどが、互いに関連しあって、個体の気質に影響していると考えている」。そう話す武内博士は、同じ環境で育つ使役犬や競走馬などを使って、「恐がりかどうか」といった単一の気質に着目し、両極端の気質をもつ個体の遺伝子発現をゲノムワイドに比較したいと考えている。「イヌでは数年前に全ゲノムの配列データも出されているので、まずはイヌからはじめつつある。予想外の遺伝子が出てくるとおもしろいと思っている」。武内博士はそうコメントする。
何のための心の解明か?
日本政府は、多額の資金を割いて、脳と心の機能解明を目的とした研究を進めている。たとえば、JST(科学技術振興機構)は平成15年から5年の予定で「脳と学習」と題したプロジェクトを立ち上げ、年間10~12億円もの予算を投入している(大隅博士は、主にこのプロジェクトによってPAX6関連の研究を進めている)。同じくJSTでは、東北大学加齢医学研究所脳機能開発研究分野教授の川島隆太博士らが参画する「脳と教育」のプロジェクトも推進中である。一方、厚生労働省では「こころの健康科学事業」により、疫学的調査によるデータの蓄積や解析と、心理学、分子生物学、画像診断技術などによる研究を進めている。また、文部科学省では、ターゲットを心に絞った独立のプロジェクトは立てていないものの、特定領域研究の「統合脳プロジェクト(年間予算約23億円)」において、脳科学の5領域の研究を幅広く進めている。
一方、私たちの日常では、自殺者が年間3万人を超え、その約半数がうつ病などの心の病を抱えていたと指摘されている(岩手医科大学附属病院のデータなど)。新聞やテレビは、連日、学校でのいじめ、いじめによる子どもの自殺、実の親による子どもへの虐待などの痛ましい報道を繰り返している。国民の税金による研究は、社会に還元されるのが当然だが、前述のような国家プロジェクトが国民の心の健康に寄与しているとは言い難いようだ。「ヒトの10万年におよぶ歴史を振り返ると、この50年の激変ぶりは、かつて経験したことのないものだろう。環境の激変に脳が適応できていないことで、さまざまな心の不具合が生じているのではないか」。森博士は、現状をそう分析する。たとえば、ヒトは前頭前野を使って、音声や光、文字といった雑多な情報を序列化し、取捨選択している。騒音の中でも会話が成り立つのは、まさにこの機能によるものだが、前頭前野が処理すべき情報は現代に入ってから指数関数的に増えてしまっている。結果としてオーバーワークになり、不適応をおこしても不思議ではない。
では、今の環境に脳が適応するまでをどうしのげばよいのか。そのヒントこそ、脳や心の分子メカニズム研究がもたらす成果にあるのではないか。この点について大隅博士は、「アメリカでは基礎研究と臨床研究の融合が急速に進み、両者が接するものになってきているが、日本では依然として両者の溝が深い」と指摘する。加藤博士は、「基礎研究者による、精神疾患患者の死後脳研究を加速すべきだ」とし、死後脳リソースの収集と分配のシステムを作るための活動をはじめている。
心をめぐる諸問題に順位をつけるとしたら、蝕まれ、壊れていく一方の子どもたちの心をいかに救うかが最優先されるべきだろう。猶予の時間はない。必修科目の未履修問題の追及や、教育基本法の改正よりも前にやるべきことがあるはずだ。
西村尚子 サイエンスライター
参考文献
- Santarelli L et al, Science 301: 805-9, 2003
- Weaver IC et al. Nat Neurosci. 7: 847-54,2004
- Fukuda et al., Brain Rs Dev Brain Res, 2000
- Maekawa et al., Genes to Cells, 2005
- Benjamin et al. Nature Genetics,1996;Ebsteinet al.,1996 Nature Genetics
- Dulawa et al.,1999 J.Neurosci
- Niimi et al., 1999 J.Vet.Med.Sci.
- Ito et al.,2004 J.Vet.Med.Sci.