生命倫理、研究倫理を通じて研究者と患者、社会をつなぐ
2012年8月23日
東京大学 医科学研究所 公共政策研究分野
武藤香織准教授

ES細胞やiPS細胞のような多能性の幹細胞の研究はどのように行われるべきか。遺伝学的検査は医療にどのように応用されるべきか。生命科学の研究が進むと、その成果を社会に採り入れる際に、さまざまな問題が起こってくる。
東京大学 医科学研究所 公共政策研究分野の武藤香織准教授は、臓器移植や遺伝子検査、生殖補助技術、細胞治療など先端的な医科学の研究とその応用に関して、倫理的・法的・社会的な課題を予測して、解決策を検討している。所属する医科研にあるバイオバンク・ジャパンの運用方法も研究テーマの一つだ。
また、2008年に開設された同研究所の研究倫理支援室の室長として、研究に参加する被験者の権利と尊厳、健康を守りながら研究をスムーズに進めるため、主に基礎研究の研究倫理面のコンサルテーションや倫理審査委員会の事務局機能などを担っている。
武藤准教授がこのようなテーマに出会ったのは、家族社会学を専攻していた大学3年生の夏の経験から。体調を崩し、原因がわからないまま、何度も血液検査をされ、医師に疑わしい病名を質問したときに深刻な病名を怒鳴るように告げられて、その後、別の病院で一度で軽い感染症と診断がついたときにはすでに治っていた、という。医療への疑問から、医療制度や倫理、患者の権利などを学び、医療専門職論をテーマとして卒業論文を書いた。
その後、慶應義塾大学大学院社会学研究科修士課程では英国をはじめとするヨーロッパの生殖補助医療技術の規制を研究。英国ではすでに『ヒトの受精と胚研究に関する法律』(Human Fertilisation and Embryology Act)が施行されており(1990年)、“専門家が提案して社会が合意する”システムに目を見開かされた。「そのころの英国でのホットな話題は、90年から始まったヒトゲノム解読が終わった後、社会に何が起こるか、だった。でも、当時の日本ではまだ全く議論されていなかったし、そもそも未だに日本では生殖補助医療の法律が成立していない」。東京大学大学院医学系研究科博士課程では、日本に多い常染色体優性遺伝の神経難病で、日本人研究者が原因遺伝子を発見した家族性アミロイドポリニューロパチー(FAP)の患者団体を中心にコミュニティのフィールドワークを行い、差別の実態や、症状抑制のために肝移植のような医療技術とのつきあい方を考察した。このころ、FAPと同じく根治療法がない常染色体優性遺伝の神経難病であるハンチントン病には、神経内科専門医の国際学会と国際患者団体が協力して作られた発症前遺伝学的検査のガイドラインがあることを知った。そこで、オランダの国際患者団体を訪ねたことをきっかけに、日本ハンチントン病ネットワーク(JHDN)を設立。「社会学者としては、本来は観察に徹するべきフィールドに介入することになり、迷ったが、ハンチントン病や遺伝学的検査の世界の動向を知り、多くの情報を手に入れた身としては患者さんのために活かすべきと考えた」。その後、米国のハンチントン病の患者家族が書いた『ウェクスラー家の選択』を額賀淑郎氏と共訳して新潮社から出版した。「患者団体が基礎研究の段階から強く関心をもって研究者に接するような関係性があってこそ、専門家と一緒に倫理的なガイドラインも作れるんだなと腑に落ちた」と話す。
このような研究を通じ、「先端的な医療技術を作るプロセスには、受益者かもしれない当事者の視点の入った生命倫理の議論が必要」と痛感。信州大学在職中から、文部科学省リーディングプロジェクト『オーダーメイド医療実現化プロジェクト』で構築したバイオバンク・ジャパンの運営に関わり、広報活動やリサーチ・コーディネーターの支援、登録患者の予後を調べる追跡調査の実施に寄与した。この経験から、ライフワークである“アジアで生きる遺伝病の患者と家族の社会学”の他に、多因子で起こる多くの疾患研究のあり方や試料提供者の保護にも関心を寄せることになった。
現在、厚生労働省、経済産業省、文部科学省の3省合同の『ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針(ゲノム指針)』に関する専門委員会や、厚生労働省『ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針』の見直しに関する専門委員会の委員を務め、文部科学省『次世代がん研究シーズ戦略的育成プログラム』の研究倫理支援を行うなど、学外のさまざまな場面でも活躍している。
「日本では科学者の不祥事の後に大胆に研究ガバナンスの制度が変わる、後ろ向きのサイクルがある(笑)。早くから研究倫理面の介入を行い、研究者と一緒に前向きに考えることによって、この後ろ向き文化自体を変えたい」と武藤准教授。研究で細胞やゲノムを扱う研究者には、「その細胞やゲノムの由来を思い起こしてほしい」と願う。試料を提供してくれる人の意思があって、初めて研究が成り立つ。そのことを意識することが研究者の倫理につながると考える。
そんな思いから、生命科学の学生への教育にも意欲を燃やしている。所属する新領域創成科学研究科メディカルゲノム専攻の大学院生と聖路加看護大学の大学院修士課程ウィメンズヘルス・助産学専攻との対話の機会を設けるなどの試みも行っている。「患者さんを看る立場で今日明日の医療を考える看護の学生、未来の医療技術しかみていない生命科学の学生が話すと、お互いに視点が違うことがよくわかる。バイオバンク・ジャパンでは、約20万人の患者から集めた血清が約184万本のチューブとして保管されている。その血清倉庫を見学すると、看護の学生は“20万人の患者さんがいる!って畏れ多く思っちゃう”と言うが、生命科学の学生は“僕には人は見えません”と(笑)。それでも互いに共通項を探そうとすると“患者さんのため”という原点が確認でき、それぞれの持ち場でのモチベーションも上がると思う」。来年度からは、生命科学の学生のために、リサーチ・ガバナンス・プログラム(仮称)も新設する予定だ。
武藤准教授が研究代表者を務める、科学研究費補助金による『臨床試験参加者の語りデータベース構築と被験者保護の質向上に関する研究』も始まった。NPO 健康と病いの語りディペックス・ジャパンと協働し、臨床試験に参加した人、断った人、途中で止めることになった人の生の声を公開するプロジェクトで、臨床試験への理解促進と患者さんの保護への貢献を目指している。
研究倫理は研究者や研究を縛るものではなく、むしろ研究を社会に受け入れやすくするための鍵だ。生命科学の研究者対市民、生命科学の研究者対倫理学者のような二項対立の時代を経て、今は、多分野の研究者、医療従事者、患者などが協働する時代になった。「生命科学の研究者がアイディアを思いつく一番傍にいて、気楽に話し合える存在でいたい」と武藤准教授。当事者間をつなぐ武藤准教授のような研究や活動が広がることが日本の生命科学研究を進めていく。
小島あゆみ サイエンスライター