ヒトの心の発達をチンパンジーとの比較から捉える
2012年3月22日
京都大学大学院教育学研究科 教育方法学講座 発達教育研究室
明和 政子 准教授

ヒトとチンパンジーでは同じ行為を別の“見方”で捉えている―――京都大学大学院教育学研究科の明和政子准教授らの研究で、ある目的を達成しようと物を操作している他者の行為を観察するとき、ヒトは頻繁に他者の顔に視線を向けるのに対し、チンパンジーは一貫して操作されている物に視線を向け、他者の顔をほとんど見ないことが明らかとなった。これはヒトとチンパンジーでは他者の行為の理解のしかたが異なるという新しい知見だ。
明和准教授らは、生後8カ月の乳児15人、生後12カ月の乳児14人、成人15人、チンパンジー(子ども~成人にあたる)6個体を対象に、頭や体を固定せずに視線の行方を計測できるアイ・トラッキングシステムを用い、同じ行為を動画で見せたときにどこを見ているかを調べた。
計測に使った動画の一つは“女性がジュースをボトルからコップに注ぐ”というもの。ヒトの成人とチンパンジーは、コップにジュースが注がれる0.8秒前にコップに注目しており、行為の経過を予測して視線を向けることがわかった。一方、ヒトの乳児は、行為を予測して視線を向けることはなかった。「脳神経科学の研究から“他者の行為を理解するには、自分自身がその行動ができるのが前提”というミラーニューロンシステムがあると考えられており、生後8カ月と12カ月の乳児ではジュースをコップに注ぐことができないため、行為を予測できないと推測される」と明和准教授。
また、チンパンジーは、コップやジュースのボトルばかりを見て、女性の顔をほとんど見ないのに対し、ヒトは乳児も成人も物を見ている時間は1割未満で、女性の顔を5割程度も見ていた。成人はコップにジュースが入った後、つまり目的が達成された後は、顔を見る時間が急激に減った(図版)。
他に、先の画像と同じ女性が“コップを積む” “飼育下のチンパンジーが“蜂蜜入りボトルに開けられた小さな孔にゴムチューブを差し込む”という目的指向的行為を映した動画でも実験しており、ほぼ同様の結果となった。「チンパンジーが物に注意を集中させたのは食物がからむ行為であったから、という可能性もあったが、実際には、食物がからまない行為でも物ばかりを目で追っていた」。
明和准教授は「ヒトは乳児のときから、顔をはじめとする行為者の心の状態を映し出す情報と、操作されている物とをよく見比べ、それらの情報を統合して行為の意味を理解する。ヒトの乳児や成人が他者の顔を見て心を推し量っているとは断言できないが、ヒトとチンパンジーでは世界をモニタリングするパターンが違うことは明らか」と解説する。
他者の行為理解のメカニズムを解明する鍵とされるミラーニューロンは、1990年代にマカクザルの脳で見つかった。その後ヒトでも、機能的核磁気共鳴画像装置(fMRI)などにより、他者の行為を観察しているときと同じ行為を自分もしているときに反応する脳領域(ミラーシステム)の存在が報告された。ミラーシステムは、他者の行為をまねする能力とも関連するという見方がある。
心理学分野では、まねる能力は、認知発達やヒト独自の文化伝播に非常に重要と考えられている。「まねは、物の使い方などを効率よく学び、次世代にその技術を忠実に伝えるのに不可欠。とくに赤ちゃんのころから他者の行為をどんどんまねることで、行為の背後にある気持ちまでも理解できるようになる」と明和准教授。
一方で、明和准教授らの研究で、チンパンジーは簡単に見える行為でもまねを正確に行うのは苦手なこともわかってきた。「サルまね」という言葉は誤りで、サルはまねしない。「サルにはミラーニューロンがあるのに、まねしないのはミステリー。サルで確認されているミラーニューロンは、つまむ、握る、つつくなど、物の操作に関連する動作がほとんど。サルのミラーニューロンは、まねることよりも、行為の目的を予測するために使われているのではないか」。そこで、チンパンジーがまねが苦手な理由を探ろうと、他者の行為を見るときの“目の付け所”を調べたら、実際に見ている部分がヒトと違うことがわかったというわけだ。
2004年、明和准教授は、チンパンジーでも新生児期には他者の表情のいくつかをまねできることを発見している。「世界の見方や捉え方が発達していく道筋は、種によって異なるはず。“チンパンジーは模倣しない”“ヒトだけが模倣できるから、模倣は、言語をはじめとするヒトの高度な知性の基盤”などと一元的に捉えるのは尚早。それぞれの種が、どのような能力を持って誕生し、成長とともにどのような能力が新たに獲得され、どのような能力が消えていくのか。そうした動的な見方で、ヒトの心の発達的特徴を明らかにすることが重要。チンパンジーとの比較で、ヒトの心の発達の生物学的な基盤を丁寧に検証していきたい」と話す。
大学で臨床発達心理学を専攻し、生物としてのヒトの心の特徴を検証可能な方法で研究したいと考えて京大霊長類研究所を訪問した。そこで出会ったチンパンジーが「心に触れた」。以来、チンパンジー学にのめり込み、ヒトとチンパンジーの心の発達を比較してきた。従来の発達心理学の分野にチンパンジーとの比較をもちこむアプローチ、「比較認知発達科学」の研究拠点は、京大以外に世界でほとんど類がない。
研究対象は早産児や自閉症児などにも広がる。現在、京大医学部附属病院の新生児集中治療室(NICU)での早産児の研究が進行中だ。「NICUで育つ早産児は胎内とは異なる環境で育つ。現場のスタッフは子宮内に近い環境を目指し、部屋の照明や騒音に気を遣い、声掛けやスキンシップなどを行うことで養育環境のストレスを減らそうと尽力されている。しかし、赤ちゃんにとってどのような養育環境が本当に適切なのか、その科学的な裏付けはまだない。早産児のストレス度を唾液や心拍数などから推定し、ケアを必要とする赤ちゃんの心の発達の道筋やその支援の方法を探りたい」。
近く京大霊長類研究所と同大学野生動物研究センター熊本サンクチュアリのチンパンジーが、生活面でどのようなストレスを感じているかについても研究を始める予定だ。「例えば、子育て中のメスのストレス度を調べることで、ヒトの子育てストレスの生物学的な基盤もわかるかもしれない」と明和准教授。
また、ロボティクスの研究者たちとの共同研究も始まっている。他者の行為を予測してうまく対応できる自律型ロボットを実現するため、その基礎となる生体データを明和准教授らが提供する。ヒトの認知発達を、シミュレーション検証することも目的のひとつだ。
自身の出産や子育ての経験は、研究対象やその成長を支える社会を幅広く見るのに役立っている。小学生と保育園児の母として、18時に保育園のお迎えに行くまでの時間をいかに有効に使いこなすかに腐心する毎日。「私しかできないユニークな視点で、質のいい研究をしたい。“ぶれない、あせらない、あきらめない”をモットーにこれからもヒトの心の成り立ちについて考えていきたい」と決意している。
小島あゆみ サイエンスライター