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嗅覚神経細胞の多様な細胞運命はNotchシグナルの繰り返しとその標的遺伝子のエピジェネティックな発現制御によって生み出される

2012年1月26日

遠藤 啓太 助教
東京大学 分子細胞生物学研究所 脳神経回路研究分野

Notchの細胞内ドメイン(NICD:Notch intercellular domain)は、核内でタンパク質CSLと複合体を作り、Notchシグナルの標的遺伝子を発現させる(図上)。しかし、核内因子Hamletが発現すると、標的遺伝子領域を含むクロマチン構造に凝集が起こり、Notchシグナルを受けられなくなって、標的遺伝子が発現しなくなる(図下)。 | 拡大する

嗅覚は進化的に古くから受け継がれてきた感覚で、動物の生存に大きな役割を果たしている。嗅覚神経細胞の表面にある受容体で匂い分子を受容し、その情報を脳に伝え、えさと毒や交配相手と敵を識別して適切な行動を引き起こす、というプロセスは動物に共通するもの。嗅覚がユニークなのは、ひとつの嗅覚神経細胞はひとつの匂い分子受容体を発現し、匂い分子が結合したときの刺激を神経線維を通じて一次嗅覚中枢内の決まった領域に伝えること、また、このような嗅覚神経細胞を多種類用意し、それらの組み合わせとして複雑な匂いを認識できるようにしていることだ。嗅覚神経細胞はヒトでは約350種類、マウスでは約1000種類、ショウジョウバエでは約50種類が存在することがわかっている。ただ、嗅覚神経細胞がどのように種類を増やしていくのかについては、まだ謎が多い。

東京大学 分子細胞生物学研究所 脳神経回路研究分野の遠藤啓太助教らは、このほどショウジョウバエの嗅覚神経細胞の分化において、Notchシグナルの非対称な活性化とシグナルを受ける標的遺伝子のエピジェネティックな発現制御が細胞運命を決定するという新しいメカニズムを報告した。これは理化学研究所 脳科学総合研究センター ムーア研究ユニットのエイドリアン・ムーア ユニットリーダーらとの共同研究だ。

Notchシグナルは細胞運命決定のスイッチとなるもので、1回膜貫通型受容体であるNotchの細胞外ドメインにリガンドが結合すると、細胞内ドメイン(NICD:Notch intercellular domain)が切り離され、細胞核内に入り、細胞運命の決定に働く遺伝子群を発現させる。

遠藤助教は、2007年、ショウジョウバエの嗅覚神経細胞の発生過程において、Notchシグナルが活性化される細胞とされない細胞が存在し、その違いによって異なる細胞運命が生み出されることを明らかにしている。

今回の研究では、まず、嗅覚神経細胞が前駆細胞から複数の分裂を経て生み出される発生過程で、Notchシグナル抑制因子の分布やNotchシグナルの標的遺伝子の発現を観察した。すると、細胞分裂のたびにNotchシグナル抑制因子が不等に分配され、生まれた2つの娘細胞のうちの一方だけでNotchシグナルが活性化していることがわかった。「Notchシグナルの非対称な活性化が分裂のたびに繰り返し起こることで、細胞の個性が多種類に分化している」と遠藤助教は説明する。

また、Notchシグナルが活性化した細胞が分裂してできた娘細胞では、核内因子HamletがNotchシグナルの標的遺伝子E(spl)m8 の発現を一時的に弱めることで、細胞運命の決定に関わっていることも明らかにした。hamlet 遺伝子は、ムーア ユニットリーダーが2002年にショウジョウバエの背中の触覚神経細胞の分化に関わる遺伝子として同定したもの。「Notchシグナルの標的遺伝子の発現が細胞分裂後の娘細胞の両方で高いままだと、再び起こるNotchシグナルの非対称な活性化によって異なる細胞運命を生み出すことができないと考えられる。hamlet 遺伝子が突然変異を起こしているショウジョウバエでは、E(spl)m8 の発現が高いままとなり、嗅覚神経細胞で発現する匂い受容体の種類も一次嗅覚中枢内の神経線維の接続先も変化してしまった」。

さらに、ショウジョウバエの培養細胞であるS2-N細胞を使ってNotchシグナルを人為的に活性化し、Notchシグナルの標的遺伝子のひとつであるE(spl)m3 遺伝子を発現させた実験では、NotchシグナルがあってもHamletを同時に発現させると、E(spl)m3 遺伝子の発現が抑制された。このとき、Notchシグナルの標的遺伝子領域を含んだクロマチン構造の状態を調べたところ、Hamletが発現すると、E(spl)m3 遺伝子領域においてヒストンのメチル化状態の変化とクロマチン構造の凝集が起こっていた(図参照)。「この凝集によって、Notchシグナルの標的遺伝子の発現を活性化する転写因子がE(spl)m3 遺伝子領域に結合できなくなり、Notchシグナルの標的遺伝子の発現が抑制されているのではないか」と遠藤助教。

これらのin vivo のデータと培養細胞での実験結果から、嗅覚神経細胞の多様な細胞運命は、Notchシグナルの非対称な活性化の繰り返しと、Notchシグナル標的遺伝子のクロマチン構造の変化を介した発現調節によって生み出されていることが示唆された。これは、シグナルの活性化の制御だけでなく、シグナルに対してその標的遺伝子が反応しうるかどうかを制御する機構によっても細胞運命が調節されているという新たな知見となった。

Notchhamlet はともにヒトの相同遺伝子がある。また、嗅覚神経細胞の分化以外でも、細胞運命の決定にNotchシグナルを使っている発生現象は多く知られており、同様なエピジェネティックな遺伝子発現制御機構が使われている可能性があるのではないか。今回の発見がiPS細胞の分化メカニズムの解明などにも役立てればうれしい」と遠藤助教は話す。

ショウジョウバエの嗅覚神経細胞は50種類すべてが同定され、それぞれ一次嗅覚中枢のどの領域に接続されるのかが明らかになっているため、神経回路とその機能との関係を調べるのに適した実験系である。遠藤助教は、今後は、約20種類あると考えられる嗅覚神経細胞の前駆細胞の分化の機構のほか、嗅覚神経回路による匂いの認知機構についても研究したいと考えている。

小島あゆみ サイエンスライター

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