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内耳の細胞の再生による聴力の回復を目指す

2007年7月26日

独立行政法人国立病院機構東京医療センター 臨床研究センター聴覚障害研究室
松永 達雄 室長

茶色くマーキングされた骨髄間葉系幹細胞が線維細胞の間に生着しているのがわかる。 | 拡大する

音は空気の振動として外耳道から入り、鼓膜から耳小骨に伝えられる。さらに内耳に満たされたリンパ液の揺れとなり、蝸牛の基底板の上にある有毛細胞で電気信号に変えられ、聴神経を経て脳の聴覚中枢に伝わる。

有毛細胞は名前の通り、細胞表面に感覚毛を持つ細胞で、この感覚毛が変異すると、感覚毛の変換チャンネルが開き、内リンパのカリウムイオンが有毛細胞の中に入る。これが電気信号を発生するシグナルとなる。内リンパはほかの体液とは異なり、カリウムイオン濃度が高く、音を感じるためにはその濃度が常に一定に保たれる必要がある。そのカリウムイオンのリサイクルに関わるのが蝸牛線維細胞だ。

独立行政法人国立病院機構東京医療センター ・臨床研究センター聴覚障害研究室の松永達雄室長らのグループは、ラット内耳にミトコンドリアの働きを阻害する薬剤を投与することで、世界で初めて蝸牛線維細胞だけが急性に障害される難聴のモデル動物を作成した。

これまで有毛細胞や神経細胞だけが死んでいるモデル動物は多数開発されているが、遺伝性難聴の一部以外に線維細胞のみが障害される難聴は少ないという理由もあり、線維細胞だけが壊れる急性モデルは開発されていなかった。しかし、有毛細胞や神経細胞が障害されるメニエール病、騒音性難聴、老人性難聴などでも線維細胞の変化が最初に起こることが知られており、今回開発されたラットを解析することで、これらの難聴の病態や、蝸牛線維細胞とほかの細胞との関係を知る手がかりができたといえる。

さらに、松永室長らはこのラットを使い、難聴の再生治療にも挑戦している。

ラットの大腿骨の骨髄から採った間葉系幹細胞を培養して、色素でマーキングし、薬物注射をしてから3日後の難聴モデルラットに移植。骨髄間葉系幹細胞は蝸牛に直接入れるとその操作で難聴になってしまうため、蝸牛と連続する三半規管に孔を開けて入れる。3日後というタイミングは「いったん高度難聴になるが、ある程度の回復が始まっている時期で、確かに目指す難聴モデルになっていることが確認できる最初の段階」と松永室長。

その結果、骨髄間葉系幹細胞は三半規管から蝸牛に届き、11日後には12匹のモデルラットのうち半数の6匹で障害を受けた部位に生着していた。また、蝸牛線維細胞と同じコネキシン(細胞間結合に働くタンパク複合体で、カリウムイオンのリサイクルに関わる)を適正に発現していることも確認した。

その後、骨髄間葉系幹細胞を移植しない群と移植する群に分けて、移植11日後に脳波で聴覚を測ると、移植しなかったラット7匹の聴力は40kHzの高周波の音域で平均37%まで回復しており、一方、骨髄間葉系幹細胞が生着したラット6匹は平均60%まで回復していた。「骨髄間葉系幹細胞が生着した群では有意に40kHzの高周波の音域での回復度が高かった。また移植4日後よりも11日後のほうが聴覚は回復していた。これは時間が経つほど線維細胞の再生が進み、聴覚が回復する傾向があると捉えられる」。

この研究の発端は1999年の遺伝性難聴の患者との出会いだった。この女性患者は子どものころから難聴で、自分の子どもも難聴ではないかと相談。問診で家系に難聴の人が多いことがわかり、松永室長はフィールドワークを始める。そして、診察と聴力検査、血液検査による遺伝子解析を続けるうちにミトコンドリアの遺伝子変異による難聴の大家系を明らかにした。

「この経験はショックだった。この遺伝性難聴はある種の薬を飲むと発症あるいは悪化することが知られており、原因不明の難聴では遺伝子検査をすること、またその結果を薬を避けることなどで難聴予防に生かすことが大事だと痛感した」。この遺伝性難聴の研究の一端として、モデル動物の開発が始まり、今回の成果が生まれたのだ。

今後は線維細胞と骨髄間葉系幹細胞の双方が出す栄養因子やシグナルを特定して、よりよく細胞を再生させる移植方法や薬剤を研究し、難聴の改善率の向上やより広い周波数音域での改善を目指す。また、慢性の難聴のモデル動物を使っての実験も始めている。「いずれは難治性のメニエール病や突発性難聴、遺伝性難聴について臨床応用ができれば」と松永室長は語る。

現在の難聴の治療では、急性期には循環改善薬、ステロイド剤、慢性化した難聴には補聴器や人工内耳を用いるが、とくに経過の長い人には元どおりの聴力の回復が望めない。これまで動物実験でも内耳の再生治療の成功例はないこともあり、今回の研究成果を知った国内外の難聴患者から、松永室長らの研究に期待の声が寄せられたという。

松永室長が所属する臨床研究センターでは2004年から感覚器の疾患のオンライン症例登録を始めている。「遺伝性難聴に関連する多くの遺伝子を臨床診断に即して解析していく。今のところ500~600人からの検体で検査が進んでいるところ」。このデータからも難聴の新たな知見が生まれることが期待される。

小島あゆみ サイエンスライター

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