現代投資理論を生物システムに応用した理論を構築
2010年9月23日
特定非営利活動法人システム・バイオロジー研究機構
北野 宏明 代表

生命をシステムとして理解するシステム・バイオロジーの提唱者であり、生物のロバストネス(頑健性)について研究してきた、特定非営利活動法人システム・バイオロジー研究機構の北野宏明代表(ソニーコンピュータサイエンス研究所取締役所長、独立行政法人沖縄科学技術研究基盤整備機構オープンバイオロジーユニット代表研究者)が、最近、投資理論のひとつである“ポートフォリオ選択”を生物のロバストネスとそのトレードオフのメカニズムに応用した、新しい理論を発表した。“Violations of robustness trade-offs”
生物は、外的・内的な擾乱が起こっても、その機能を維持することができる。ただし、ある外的・内的な擾乱に対してロバストネスを高めると、一方で、環境が変化したときには大きな脆弱性を抱えることになる。あるいは、ロバストネスを高めることで、本来持っている機能を発揮するときのパフォーマンスが落ちることがある。これがトレードオフである。
北野代表は、ロバストネスを研究するうち、必ずしもトレードオフが存在しない、遺伝子変異や分子の変化などがあるのではないか、という疑問を持っていた。「工学システムの設計では、不適切なデザインがされている場合などでは、ロバストネスもパフォーマンスも変わらずにデザインが改良可能である」という実感から、「物理学でも理論に適応限界があるように、ロバストネスとトレードオフにも適応条件があり、環境に最適化するまでには、トレードオフに引っかからずにロバストネスが向上するかもしれない」と考えたのだ。そして、投資のポートフォリオ選択との共通性にたどりついた。
ポートフォリオ選択は、投資をする際に、ある金融商品のリスクとリターンを分散させ、より安全に一定の利益を上げる方法である。リスクとリターンはトレードオフの関係になっており、通常、ハイリスクのものはハイリターンであり、ローリスクであればローリターンである。もちろんハイリスク・ローリターンのものは投資対象から除かれる。
ポートフォリオ選択を行う際には、有効フロンティア(efficient frontier、効率的フロンティア)が重要視される(図1参照)。有効フロンティアは、横軸にリスク、縦軸にリターンを取って、あるリスクで最大のリターンを示す曲線で、有効フロンティアに近い投資の組み合わせほど、最もリスクが少なく、リターンが最大となるポートフォリオを形成できる。
有効フロンティアに行き着くまでは、投資内容の組み替えが可能だが、いったん有効フロンティアの曲線に突き当たったら、リスクを減らしてリターンを上げることはできないため、投資内容の組み替えをする場合は、有効フロンティアのライン上で、リスクを減らすかリターンを上げるか、どちらかの選択をしていくことになる。有効フロンティアでは、リスクとリターンのトレードオフが起こるわけだ。
北野代表は、この考え方が生物のロバストネスのトレードオフにも当てはまると考えた。投資におけるリターンを“生物における生殖速度やバイオマス(資源)生産率などのパフォーマンス”とし、“リスク”を “擾乱によって、それらのパフォーマンスが影響を受ける度合い”(=脆弱性)、“有効フロンティア”をその“環境に最適化した状態”とすると、投資のポートフォリオ選択と同様に、平面上にマッピングできる。
「現存する生物が現在の環境に最適適応しているという保証はない。生物がある環境に最適化した状態を有効フロンティアに達したと考えると、進化的に最適化するまでの間には、さまざまなポートフォリオ選択があり得るし、必ずしもリスクとリターンのトレードオフを発生させずに、ゲノムを変化させることができるはず」と北野代表は話す。
例えば、生物学で行われる人工進化実験は、環境の変動がないと仮定して、何百世代もの進化を再現するもので、「population dynamics(集団動態、個体群動態)が“ファンドマネージャー”となり、細胞や微生物を有効フロンティアに向けて最適化させているのと同じ」ということになる(もっとも生物実験では、実際のファンドマネージャーのように合目的的に選択をする主体がいる訳ではなく、すべて集団動態の変化の結果である)。ある種類の細胞や微生物のみの観察・実験と限定していても、そこには細胞や遺伝子の多様性が内在していて、より増殖速度の速いものの数が増え、それが最適化し、ロバストネスが高くなるように見える(つまり、増殖速度が速いというリターンを重視している)。一方で、それらの細胞や微生物は環境が変化したときに弱くなったり、細胞増殖速度ががっくりと落ちたりすることがある。
「最適化までの過程で観察される遺伝子変異は、最適化した状態でさらにリターンを大きくするような過程で見られるのとは異なる遺伝子変異である可能性がある」と北野代表。つまり、培養実験などでは、結果として細胞は増殖速度の最大化という基準で選択されており、有効フロンティアに行き着いた=ある環境に最適化された細胞は、そこからの変化はトレードオフの結果、細胞の環境擾乱などに対するロバストネスに貢献する遺伝子に集中して変異が起きるのではないかと予測している。「実際、大腸菌の進化実験で、実験の途中と実験終了に近い段階では遺伝子変異の違いがあることが明らかになっている」。
この理論は、現在の医薬品の開発方法にも一石を投じる。細胞培養やスクリーニングテストではその状態に最適化した=増殖速度の速い細胞のみをテストしており、当然ながら、その状態は、ヒトの体内とは異なる。「薬の開発には新しいスキームが必要ではないか。少なくとも、例えば、温度や湿度、pHや重力など予想できる環境の擾乱について、できるだけバラエティを持たせて実験を組むことで、従来の方法で脱落する薬を拾えたり、脱落させるべき薬を早く見つけたりできる可能性がある」と提案。ポートフォリオ選択と同様、細胞や微生物がどこにマッピングされているのかを意識しながら、実験を組み立て、結果を推論することを薦める。「結果的にデータ上でノイズに見えたものが意味を持つこともあるかもしれない」。
今、北野代表は、インド政府との結核治療薬開発プロジェクトや、製薬会社との抗がん剤の研究開発のプロジェクトを立ち上げ、東京大学医科学研究所の河岡義裕教授が研究総括を務めるJST ERATOプロジェクトにおいてはインフルエンザウイルス宿主応答の研究からの創薬研究を行っている。また、最近では、サンゴ-共生藻におけるロバストネス・トレードオフと気候変動の研究をスタートさせた。今後、「これらの研究を通じて、生物学的ロバストネスの理論の全貌を洗い出し、さらに洗練させていきたい」と語っている。
細胞や微生物の“生殖速度やバイオマス(資源)生産率などのパフォーマンス”を縦軸に、“擾乱によって、それらのパフォーマンスが影響を受ける度合い”(=リスク、脆弱性)を横軸に取り、細胞や微生物の状態を示したもの。初期のランダムな状態(A)は、環境が変わらない場合、細胞や微生物の世代交代によって、増殖速度などが高いものが集団でより多くの比率となり、その結果、図での「パフォーマンス」がより大きな位置となる。(B)さらに世代交代が進むと、一定の脆弱性において、パフォーマンスが最大化された細胞の集団となる。この段階で、培養細胞群は、“有効フロンティア”に近づく。パフォーマンスをさらに増大した細胞は、そのトレードオフとして脆弱性の回避を犠牲にする変異が生じることとなる(C)。もし、ロバストネスとパフォーマンスの間で、どちらかを上げれば、どちらかが下がるというトレードオフの関係が常に顕在化しているなら、Dのように、時間の経過とともにパフォーマンスの増大に伴い脆弱性も増大する。しかし、実際の実験では、細胞や微生物の増殖はA、Bを経て、Cへと到達する形になる。これは、ロバストネスとパフォーマンスの間のトレードオフが最適化されたときにのみ顕在化し、有効フロンティア上で動くことを示している。
培養環境が一定の場合、最初はサブタイプAとサブタイプBが混在する状態(培養1)であっても、時間の経過とともに、パフォーマンスが増大する方向に細胞の世代交代が進み、環境により適した細胞があらわれ、増えていく(培養2、3のサブタイプCとサブタイプDの細胞)。環境に最適化した状態(有効フロンティアに突き当たるところ)では、パフォーマンスとロバストネスとのトレードオフが生まれ、パフォーマンスが下がるが、ロバストネスに強い(脆弱性のリスクが低い)培養4か、パフォーマンスに比重をおき、ロバストネスを犠牲にする(脆弱性のリスクが高い)培養5の状態になる。こうして元の培養1とは異なる遺伝的背景を有する細胞が主流になる。
小島あゆみ サイエンスライター