iPS細胞研究の今後と使い道
2008年12月18日
山中伸弥教授(現京都大学iPS細胞研究センター長)らが、ヒトの人工多能性細胞(iPS細胞)の作製に成功してから、約1年。幹細胞を用いた研究は、かつてないほどの熱を帯びている。奇しくも2008年は、ウィスコンシン大学のジェームス・トムソン教授が世界ではじめてヒトのES細胞(胚性幹細胞)を樹立してから10年という節目の年でもあった。欧米をはじめ、各国が幹細胞研究に巨額の国家予算を投じるようになり、それが「幹細胞研究ブーム」にさらなる拍車をかけているようだ。
iPSはES細胞と体細胞クローン技術の結晶
幹細胞研究の発端となったES細胞は、ケンブリッジ大学(当時)のマーティン・エバンス卿によって、1981年にまずマウスで樹立された。ただし、当初の目的は今のように再生医療を期待したものではなく、発生学の研究ツールとして使うことであり、そこから遺伝子機能を解析する「ノックアウトマウス」へと発展していった。正常な受精卵を壊して、どんな細胞にも分化しうる多能性をもつES細胞を作り、目的の遺伝子機能を欠失させる操作を加えたうえで、別の受精卵(胚盤胞)に戻すと、ES細胞と受精卵のゲノムが混ざり合ったキメラマウスができる。こうしたキメラマウスを複数作ってかけ合わせると、ある確率で目的の遺伝子機能を完全に失ったノックアウトマウスが得られるのである。
ノックアウトマウスの作製技術が完成すると、今度はES細胞をさまざまな細胞に分化させる研究が始まった。こちらの方は、失われた組織や臓器の機能を再生させたり、薬の候補となる物質の効き目を確かめたりといったヒトへの医療応用が目的である。ところが、肝心のヒトES細胞の樹立までには、17年もの歳月が必要だった。「生命の萌芽となるヒトの受精卵を壊す」という倫理的な問題があるうえに、ヒトES細胞の培養条件や加えるべき因子の調整に難航したからである。
その間に、衝撃的な事実が明らかとなる。1997年に「クローン羊ドリー」の誕生が報告されたのだ。ドリーの誕生は、「幹細胞から分化した細胞は、もとの多能な状態には戻らない」という生命の基本概念を根底から覆してしまった。研究者たちは、体細胞であっても、人工的な操作によって再プログラミングが可能で、細胞に「あたかも時間を巻き戻したかのような多能性」を取り戻させることができるという事実を、はじめて知ることになった。
こうした状況のもと、ES細胞研究と体細胞クローンの技術に背中を押されるようにしてiPS細胞が誕生した。山中教授らは、マウスの皮膚の細胞(線維芽細胞)に、「多能性の維持のために必要で、ES細胞でも顕著に発現していた3つの遺伝子(Klf4、Sox2、Oct3/4)」と、「細胞増殖を進める機能をもつ遺伝子(c‐Myc)」を導入し、マウスES細胞とほぼ同じ条件で培養することによって、世界ではじめて体細胞から幹細胞を作り出した(*1)。さらに山中教授は、そのわずか1年後の2007年に、ヒトの線維芽細胞からもiPS細胞を作り出すことに成功した(*2)。「まさか1年後にヒトでも成功するとは、全く予想していなかった。ヒトES細胞に関する多くの研究成果が、ヒトiPS細胞の樹立を助けてくれた」。山中教授は、昨年をそう振り返る。

神経組織、腸管用上皮組織など、さまざまな細胞に分化・誘導することが示された。 | 拡大する
画像提供:山中伸弥教授
iPSってどんな細胞?
iPS細胞は、ES細胞と同様の多能性と増殖能をもつ。しかも、ES細胞のように受精卵を壊す必要もなく、ありふれた体細胞から作ることができるので、ES細胞にくらべて倫理的な問題が小さいとされる(ただ一点、ヒトiPS細胞を生殖細胞に分化させることが禁じられていたが、この11月末に文部科学省の科学技術学術審議会 生命倫理・安全部会が、不妊症の原因解明につながる道を開く可能性があるとして、ヒトiPS細胞から生殖細胞を作って基礎研究を進めることに合意した)。
さらに、ES細胞よりもiPS細胞の方が、樹立や培養がはるかに簡単だという。「数日のトレーニングが必要だが、大学院生レベルの知識と技術があれば、容易に作ることができる。遺伝子導入後の分化・培養条件は、ES細胞とほぼ同じ」と山中教授。ということは、研究用としても、医療用としても、ヒトiPS細胞を使う方が断然効率がよいということになる。すでに、山中教授らによるマウスとヒトのiPS細胞の一部が理化学研究所に寄託され、公的研究機関の研究者には手数料のみの負担で配られるようになっている。こうして、この数年で、iPS細胞を使う研究者が急増する事態に至った。
いいことずくめのようなヒトiPS細胞だが、懸念材料も残されている。最大の問題は、2007年当初の作り方では、細胞ががん化する危険性が高かったことである。当時は、レトロウイルスを運び屋(ベクター)として使うことで4つの遺伝子を導入していたが、これだとウイルスが細胞に感染した時点で、4遺伝子が細胞のゲノムに完全に組み込まれてしまい、永久的に残ってしまう。特に4遺伝子のうちのc‐Mycは「がん遺伝子」としても知られるもので、細胞中で活性化されるとさまざまながんを引き起こすおそれがあった。実際、この手法によるマウスiPS細胞をほかのマウスの受精卵に入れて作り出したiPSキメラマウスでは、生後3か月で約20%に頚部がんなどが発症したという。
また、iPS細胞にES細胞とくらべてどのようなちがいがあるのかが完全に解明されていないのも問題である。山中教授は「多能性に必要な部分はES細胞と同じだが、エピジェネティックな点では、iPS細胞に体細胞時代の記憶が多少残っているようだ」とコメントする。たとえば、ES細胞ではメチル化(DNAの塩基の一部に施される化学修飾の一つ。その遺伝子が発現されないように制御するなど、複数の機能をもつ)されているのに、iPS細胞ではメチル化されていない領域があることなどがわかってきているという。
「現時点の安全性はES細胞に軍配があがると思うが、より安全なiPS細胞を開発しているところだ」。そうコメントする山中教授は、ごく最近、レトロウイルスのかわりにプラスミドを使ってiPS細胞を作り出すことに成功した(*3)。プラスミドは細菌などがもつ環状のゲノムで、ほ乳類の細胞などに外来の遺伝子を導入するために汎用されている。プラスミドは導入先の細胞内で増殖することはなく、しばらくすると分解されてしまうので、導入遺伝子の発現はごく短時間に限られる。山中教授らは、2007年のときと同様にキメラマウスを作製して観察中だが、今のところがんを発症しているものはいないという。
どんなことに、どう使えそうか?
iPS細胞の使い道という点では、大きく二つの道がありそうだ。一つは、市民の期待も大きい再生医療への応用。事故や病気で傷んだ組織や臓器に、iPS細胞から分化・誘導した正常な細胞を補充・正着・成長させることで心臓、脊髄、膵臓、肝臓、造血などの機能を取り戻させようというものである。もう一つは、患者のiPS細胞からさまざまな疾患の細胞モデルを作り、それを病気のメカニズム解明や新たな治療、薬の開発を行おうというもの。たとえば、新薬候補の効果を疾患細胞モデルで検証することなどが可能だとされる。
ここで、いくつかの研究例を紹介しよう。慶應義塾大学医学部再生医学教室の福田恵一教授は、1995年前後から重症の心不全患者への細胞移植治療を目的に幹細胞を用いた再生医療研究をはじめ、まず1999年にマウスの間葉系骨髄幹細胞から、続いて2006年にヒトES細胞から、ともに心筋細胞を作り出すことに成功した。すでに、ヒトES細胞から心筋前駆細胞、心筋細胞へと確実に分化誘導し、幼若な心筋細胞の分裂を促す手法を完成させており(論文未発表)、現在は、ヒトES細胞のかわりにヒトiPS細胞を用いての研究を進めている。「ヒトiPS細胞に胎児期の心臓で発現するさまざまな因子を用いると、半月から1か月で心筋細胞に分化させることができる」と福田教授。
こうしてできた細胞を、心筋梗塞などによって機能が著しく低下した心筋のすき間に移植すれば、病態がかなり改善されると予想されている。「患者さん自身のiPS細胞から心筋細胞を作れば、現在の心臓移植のような免疫拒絶の心配もない。移植に必要な心筋細胞はわずか0.5グラムほどなので、大がかりな培養装置は必要ない。こうして用意した心筋細胞が移植先の心臓中で大きくなってくれれば、症状を改善できると思う」と福田教授。移植する心筋細胞一つの大きさは、はじめは白血球ほどしかないが、最終的に数百倍にまで成長するという。移植の際に、わずかでも未分化な細胞が残っていると良性腫瘍(奇形腫)ができて心機能に悪影響を与えてしまうが、福田教授らは細胞をうまくソーティングすることで心筋細胞の純度を99.9%にまで高める技術も開発し、すでに完成済みだとしている。さらに、マウスでの実験で従来3%ほどだった心筋細胞の生着率を90%にまで高める技術も確立しており、現在は、心筋梗塞モデルのサルに移植して効果を評価する前臨床試験に入っている(論文未発表)。
一方で福田教授は、「患者さんのiPS細胞から作った心筋細胞は、QT延長症候群などの致死性の高い先天性心臓疾患の病態解明や創薬にも役立てることができるだろう」とコメントする。千葉大学医学研究院循環病態医科学教授の小室一成教授もまた、同様の意見を寄せる。患者から研究用の細胞を提供してもらうのは不可能なので、これまでQT延長症候群の細胞モデルはなかったが、患者のiPS細胞から作ったモデルを使うことで、遺伝子発現の異常、発症や突然死に至るメカニズム、薬剤への反応などを調べることができるようになり、新たな治療や薬の開発にも結びつくというのである。
小室教授もまた、iPS細胞や心臓内の幹細胞を心筋細胞に分化させる研究を始めており、つい最近、新たな心筋分化誘導因子の発見に成功した(*4)。もともと血管新生の研究をしていた小室教授は、患者の末梢血から採集した「単核球」という血球細胞を患部の筋肉に注射する方法を確立し、先進医療として、手足の壊疽に苦しむ70人あまりの患者を治療してきた。単核球には筋肉の再生を促す作用があり、筋肉ができる過程で分泌される因子が血管の新生をも促すために壊疽がよくなるという。
2008年には、心不全の多くが、心臓内の細かい血管の異常によって引き起こされることを明らかにし(*5)、今度は動物モデルを用いて、心臓に単核球を注射する実験を行ってみた。予想どおり、血管が新生して心機能が改善したため、まもなく患者への治療を実施して効果をさらに検証する予定だという。「軽症の心不全の場合には血管新生だけで効果を期待できるが、重症例ではそうはいかない。合わせて心筋も再生できるよう、研究を進めたい」。小室教授はそうコメントする。
輸血用の赤血球や神経再生にも期待
すでに広く行われている再生医療の最たるものは輸血だが、その主成分である赤血球をiPS細胞から作り出そうとする研究者もいる。東京大学医科学研究所先端医療研究センターの辻浩一郎教授である。辻教授は、これまでにヒトES細胞を用いて赤血球、軟骨細胞、肥満細胞などを作り出す研究を進めてきており、同様の研究をiPS細胞でもはじめている。「とくに輸血用の血液は絶対量が足りていないので、RHマイナス・O 型のES細胞から赤血球を作り出すことができれば、万人に使えるものとなると思う」と辻教授。ただし、赤血球の核を完全に取り除く(脱核)のが難しいなど、研究は一筋縄にはいかないようだ。
小児患者を対象に、日常的に造血幹細胞移植を行っている辻教授は、将来はiPS細胞から造血幹細胞も作り出したいとしている。「今はまだ夢物語だが、実現すれば、多くの先天性血液疾患を直せるようになるかもしれない」と話す。成果は欧米でも相次いでいるようだ。たとえばこの11月には、アメリカのハワード・ヒューズ医学研究所やノースカロライナ大学などのチームが、ヒトiPS細胞から膵臓の細胞を作り出し、インスリンを分泌させることに成功したとの報道がなされた。現在、世界には1億7000万人以上もの糖尿病患者がおり(WHOによる2006年報告)、その多くがインスリンの分泌低下と感受性低下を病態とする2型糖尿病だとされている。もし、iPS細胞由来の膵臓細胞を用いた糖尿病治療が実現すれば、こうした患者の「生活の質」が劇的に改善されるだけでなく、医療費の大幅な削減にもつながることになるだろう。
一方で、再生医療につながりそうな成果だけが報道され、多様な幹細胞研究の全体像が正しく市民に伝わっていないとの指摘もある。たとえば、京都大学人文科学研究所・大学院生命科学研究科(兼任)の加藤和人准教授は「ヒトiPS細胞が、どんな病気でもすぐに治してしまえる魔法の細胞だというイメージがかなり広がっているように思える」と警告し、「研究費の数パーセントを割いて、社会への情報発信や研究者と市民の対話などの活動をすべきではないか」と主張する。
研究の推進と実用化に向けて
意外に思われるかもしれないが、製薬企業の多くは、相次ぐ研究成果を静観し続けている。開発に巨額を投じる大手の製薬企業にとっては、投資に見合うだけの需要がみこまれ、大量に供給可能であることが、新薬開発の絶対条件となるが、オーダーメード医療に近いiPS細胞由来の細胞治療では、その条件をクリアするのが極めて難しいと判断しているからだ。
日本はこうした傾向がとくに強く、再生医療研究のほとんどが公的資金によって進められている。なかでも、平成15年度から15年間の予定で進められている「再生医療の実現化プロジェクト(文部科学省)」は、総額675億円(平成14年末の総合科学技術会議資料より)を投じた最大規模の国家プロジェクトになっている。現在は、京都大学、慶應義塾大学、東京大学、理化学研究所が研究拠点に選ばれ、安全なヒトiPS細胞の作製から、培養、目的の細胞への確実な分化と誘導、神経・造血・心血管系等の疾患を標的とした遺伝子治療法や細胞治療法の開発、さらにはiPS細胞分配等の技術支援と、幅広い事業が進められている。
そのほか、独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が「健康安心プログラム」の一環として平成18年度から4年間の予定で「再生医療の早期実用化を目指した再生評価技術開発」を進めており、年間約10億円が拠出されている。また、今年の5月には、内閣府が文部科学省、厚生労働省、経済産業省と共同で「先端医療開発特区(スーパー特区)」を創設し、iPS細胞の応用を重点分野の一つに掲げると発表。このプロジェクトでは、大学や公的研究機関、一般企業、技術移転機関、NPO等非営利団体などからなる複合的な研究計画が広く公募され、この11月に山中教授を代表とする「iPS細胞医療応用加速化プロジェクト」などの24件が採択されたばかりである。同じく11月には、科学技術振興機構(JST)も、アメリカの研究費助成基金であるカルフォルニア再生医療機構(CIRM)と提携することでiPS細胞の研究を加速させると発表した。
山中教授は、「各省庁が迅速に対応してくれたことで、研究予算が以前よりも潤沢になり感謝している」としたうえで、「それでも世界を相手に研究を進め、医療として実現化していくには、まだ厳しい状況だ」とコメントする。たとえばアメリカでは1年あたりに、カリフォルニア州だけで約300億円が、マサチューセッツ州だけで約120億円が幹細胞研究に投じられているといわれ、国家予算と民間企業からの資金を加えると、総予算が日本よりも1~2桁も多い金額になる。もちろん、研究資金を増やせば、即、医療応用が実現するということではない。大学や公的研究機関の力だけで事業化を実現するのは難しいし、効率的ではない。大学発のベンチャーなどをうまく活用することや、ばく大な費用と時間を要する現在の医薬品認可システムを見なおすことなども必要だと思われる。
前者の例としては、細胞をシート状に回収する技術を事業化した「セルシード」というベンチャー企業がある。中核となる技術は、東京女子医科大学先端生命医科学研究所の岡野光夫教授らによる「細胞シート工学」にある。例えば、患者の口腔粘膜細胞や太ももの筋芽細胞を、同社が開発した培養器材(インテリジェント培養器材)で培養すると、温度を制御するだけで細胞を無傷のままシート状に回収することができるという。「細胞シートを患部組織に生着させることで、様々な病気に対する治療効果が期待できる。臨床研究として、これまでに角膜上皮幹細胞疲弊症の患者さんで約20例、拡張型心筋症の患者さんで2例、食道癌切除後の患者さんで3例の細胞シート移植手術が行われ、症状が著しく改善されるなどの効果が認められている」。(株)セルシードの細野恭史取締役はそう話す。同社はすでにインテリジェント培養器材を国内外で広く販売しており、一方で、口腔粘膜シートを用いた角膜治療の臨床試験をフランスで進めているところだという。
不可能だったことを可能にする力を秘めたiPS細胞。医療応用への期待が大きいからこそ、安全性、再プログラミングのメカニズム、有用性などが十分に検討されるべきで、合わせて、臨床に向けた世界標準のガイドライン作りも急がれるべきだろう。
西村尚子 サイエンスライター
【引用論文】
- Takahashi K, Yamanaka S. Induction of pluripotent stem cells from mouse embryonic and adult fibroblast cultures by defined factors. Cell, 126: 663-676, 2006
- Takahashi K, Tanabe K, Ohnuki M, Narita M, Ichisaka T, Tomoda K, Yamanaka S. Induction of pluripotent stem cells from adult human fibroblasts by defined factors. Cell, 131(5): 861-72, 2007
- Okita K, Nakagawa M, Hyenjong H, Ichisaka T, Yamanaka S. Generation of Mouse Induced Pluripotent Stem Cells Without Viral Vectors. Science. 2008
- Nature 2008 Jul 17; 454(7202): 345-9
- Nature 2008 Jul 17; 454(7202): 345-9