ナノチューブに入れて、動く有機分子の直接撮影に世界で初めて成功!
2007年5月24日
東京大学大学院 理学系研究科 化学専攻
中村 栄一 教授

有機分子1個の動きを顕微鏡で見る、そんな化学者の長年の夢がついに実現した。成功したのは、東京大学大学院の中村栄一教授と産業技術総合研究所の末永和知博士のグループである。観察用に合成した有機化合物をカーボンナノチューブの中に入れて固定し、その形と運動を電子顕微鏡で直接撮影。この成果は科学技術振興機構のERATO中村活性炭素クラスタープロジェクトによるもので、Science誌2007年2月22日の電子速報版(印刷版は5月11日号)で発表された。
有機分子を大きさがオングストローム(0.1nm)の単位である原子の並びとして見るには、電子顕微鏡が不可欠だ。光学顕微鏡では、使用する可視光の波長によって理論的に100nm程度までの分解能しかないのに対して、電子線の波長はそれよりもずっと短く、より高い分解能が得られるからである。これまで電子顕微鏡は、電子線を照射しても壊れず、かつ、くっきりとした像が得られる金属原子の観察や、ウイルスやタンパク質など比較的大きな生体分子の観察に利用されてきた。しかし小さな有機分子となると、「有機分子は不安定で電子線が当たると壊れてしまうため、見ることができない」というのが常識だった。
今まで、有機分子は薄膜状の結晶として、つまり分子のかたまりとして観察されてきた。薄膜だと、電子線のエネルギーが化学反応を引き起こしたり、熱を発生したりして、分子どうしが反応して分解してしまう。ここに問題があるのではないかと考えた中村教授は、ピーポッド*のように分子をカーボンナノチューブに閉じ込めて、真空中に孤立させて見るというアイデアを思いつき、それが功を奏した。「これまでほかの人がやってきた電子顕微鏡のデータを見ると、なんとなく見える気がしたのです。僕は有機化学者であって、電子顕微鏡に関しては素人だから…」という中村教授。常識に囚われない発想がなしえた快挙といえよう。
では、その単一分子観察手法の詳細を説明しよう。まず、観察対象として設計したのは、細胞膜の主成分である脂質に似せた分子で、目印となる球形の分子(ホウ素クラスター)と柔軟な鎖状分子(飽和炭化水素)を結合させた、いわば「丸い頭に動きやすい足がくっついている」格好をしている。ただし、足は短め(炭素鎖12)と長め(炭素鎖22)の2種類を用意し、さらに1本足、2本足の合計4種類を合成した。これらの分子をそれぞれ、分子が動かないぎりぎりの太さ(直径0.9nm)のカーボンナノチューブ内に閉じ込め、解像度0.21nm、加速電圧120 kVの透過型電子顕微鏡を用いたところ、その姿を捕らえることができたのだ。頭部分のホウ素原子の存在は、電子線エネルギー損失スペクトルをとることによって確認し、足の部分も長さや濃さがシミュレーションと見事に一致した。
しかし、この成果も実験を始めてすぐに出たわけではなかった。「観察に適した化合物に行き着くまで、半年間ほどは試行錯誤の連続でした」と中村教授。分子がかたまりで存在していないとはいえ、電子線を当てれば、時間がたつとやはり分子は壊れるのである。あとになって、室温で1分間くらいは壊れないことが判明したが、「当初は顕微鏡で見ているモノが、壊れる前の分子か、壊れた後の残骸なのか、皆目見当がつかなかった」と苦労を語る。
そして、少し太めの直径1.2nmのカーボンナノチューブに分子を詰めると、こんどは分子の一部が動くようすが明らかになった。炭素鎖22の2本足がチューブの中でゆっくり回転するのを動画で撮影(画像参照)。この動きで特徴的なのは、足が連続的に動くのではなく、ある形からある形へと段階的に変化している(ラチェット・モーション)ことである。今回モデルとした脂質分子が細胞膜内で動くときにも、同じように段階的に構造変化していると予想される。さらに、同径のチューブ内で、分子全体が前後に大きく移動するようすも観察された。その速さは、平均すると秒速10nmくらいだが、頻繁に変化しており、かつ、ときどきチューブの一部にひっかかって動きが止まることなどもわかった。有機分子とチューブの分子レベルでの摩擦が、分子の動きに影響を与えているのだ。
このような現象は、ナノレベルでのトライボロジー(摩擦・摩耗・潤滑のメカニズムを扱う学問領域)に関係している。今回、有機分子の足の部分である飽和炭化水素が通常、潤滑油として利用されていることを考えると、潤滑油と固体表面の相互作用は、マクロでは滑らかで連続的なものだが、分子レベルでは連続的ではないといえる。つまり1個1個の分子レベルでは、すべての分子が同時に滑らかに動くわけではないことを示しているのだ。これは、人間社会の観察が、必ずしも個人の行動の予測に役立たないのと似ているともいえる。中村教授は、「つまり、社会学と心理学の差を表しているのです。例えば、選挙でどの候補者が当選するのかは、個人レベルでの投票心理の分析と必ずしも直結していないでしょう」と説明する。
今後は、電子顕微鏡の分解能を時間・空間ともに上げるよう工夫し、-269℃の液体ヘリウム温度での観察も計画されている。今後、さまざまな分子の挙動の解明が進み、新しい分子の世界が拓けるものと期待される。
*ピーポッド カーボンナノチューブの中に、サッカーボールの形状で知られるフラーレン分子(C60)が入ったもの。サヤエンドウ(peapod)に似ていることからこうよばれる。金属内包フラーレン・ピーポッドも多く作製され、さまざまな応用研究が進められている。
画像(動画も含む)は、AAASの許可を得て、Koshino, M. et al. Imaging of Single Organic Molecules in Motion, Science 316 , 853 (2007) より転載。
北原逸美 サイエンスライター